ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

若冲 五百羅漢 №14 <若冲連載33>  

2009-05-17 | Weblog
「江戸時代の石峰寺五百羅漢」<売茶翁続編>

 そして大典が二十九歳、翁七十三歳のとき、売茶翁の茶器・注子に若き和尚は「大盈若冲」云々の文字を記しました。京の避暑地として有名な糺(ただす)の森での余興です。ちなみに、この注子はいまも残っていますが、若冲は三十二歳でした。
 大典が注子に書いた「若冲」の字が、画家若冲の名の誕生するきっかけであったことは、間違いないであろうと思います。しかし大典が「若冲」という名をこの画家に与えたと断定することはできません。
 売茶翁は京洛のあちらこちらをうろつき、たくさんのひとたちと交わった高潔の非僧非俗、俗塵のなかの茶人です。「大盈若冲」云々の大典の書には、都人が毎日のように接していたのです。画業見習い中の若旦那の若冲もしかり。
 「貴きもいやしきも、身分はありません。茶代のあるなしも問いません。世のなかの物語など、楽しくのどやかに、みなでいたしましょう」と売茶翁はおだやかに、みなに語りかけました。そのようになごやかに庶民と話す、売茶翁は都名物のオジイサン、こころが透明で温かい、にこやかな人物だったのです。「茶銭は黄金百鎰(いつ)より半文銭まで、くれ次第。ただで飲むも勝手。ただよりは負け申さず」。百鎰とは、二千両のことといいます。一文は寛永通宝一枚、いまの一円つまり金銭の最小単位でしょうか。割りようがありません。
 そのころの京都は、売茶翁を文化軸の中心に、十八世紀中後半は回転しました。当時、江戸期最高の京文化が百華繚乱できたのは、自由と平等を至上とする売茶翁という温和な怪物がいたからなのです。まさに売茶翁の存在は、十八世紀江戸期京文化、いや日本文化における大事件であったのです。日文研の早川聞多先生は「売茶翁といふ事件」と称しておられます。卓見だと思います。
 売茶翁を慕うたくさんのひとたちに惜しまれつつ、彼は永眠します。宝暦十三年(1763)七月十六日、鴨川の左岸ほとりの小庵で没しました。享年八十九歳。
 遺体は荼毘にふされ、遺言によって骨はみなの手で砕かれ粉にされ、鴨の川にすべて流されました。骨の粉末を川に流す葬法は、擦骨(さっこつ)とよぶのだそうです。いかにも売茶翁らしい己の始末です。
 ところで、存命中の人物を画に描かなかった若冲ですが、売茶翁の絵だけはたくさん残しています。ふたりは互いに尊敬信頼しあう、別格の関係だったのでしょう。
<2009年5月17日 南浦邦仁> 

コメント
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