ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

若冲 五百羅漢 №12 <若冲連載31>

2009-05-05 | Weblog
「江戸時代の石峰寺五百羅漢」<京都ルネッサンス>
 久しぶりに若冲です。近ごろ意欲が減退・・・。

 かつて売茶翁高遊外(ばいさおうこうゆうがい)は、若冲の最高傑作「動植綵絵」を制作中にみて感動した。鴨川べりのアトリエ・心遠館でのことあろう。そして若冲に一行書を贈る。「丹青活手妙通神」。この「通神」が高遊外の遊、さらには石峰寺門額「遊戯神通」にまで昇華したのであろうか。
 また黄檗山第二十代の伯(はくじゅん)が、後に若冲に与えた偈頌には「丹青刻苦妙通神」とある。これら「通神」が「遊戯神通」に発展したのであろうかと思っていたのだが、実はそうではなかった。
 萬福寺の田中智誠和尚からご教示いただいたが、黄檗山第六代・石峰寺開山の千呆(せんがい)和尚の書があった。大坂「明楽寺」蔵の図巻題字「遊戯通神」である。千呆の書「遊戯通神」を、石峰寺後山入口門の扁額に使用したのである。深草・石峰寺の創立は、正徳三年(1713)である。
 なお売茶翁は十八世紀なかばころ、京の市井で売茶を生業としたが、宗教者また文人として最高の世評人望を得、たくさんのひとたちに大きな影響を与えた非僧非俗の人物である。ちなみに彼の売茶とは、茶道具を肩に担いでの移動式喫茶店、またささやかな茶店を構えて煎茶を点てる小商いであった。
 彼は佛法についてこう語っている。「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている。」
 十八世紀後半の京都、百華が繚乱した文壇画壇のルネッサンスは、売茶翁の影響からはじまったといわれる。だいぶ後、若干三十三歳の藤岡作太郎が著作『近世絵画史』(明治三十六年刊)で「画壇の旧風革新」と呼んだ時期である。多士済々、京都文化が光り輝いた活気あふれる文化豊穣の画期であった。売茶翁によって、この時代人は本当の自由を知り、文化芸術が開花したのである。
<2009年5月5日 南浦邦仁>

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