ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

若冲百話―五百羅漢 №13 <若冲連載32>  

2009-05-10 | Weblog
「若冲の石峰寺五百羅漢」<売茶翁>

 若冲におおきな影響をあたえた売茶翁(ばいさおう)は延宝三年(1675)五月十六日、九州肥前の神崎郡蓮池に生まれました。地元佐賀の寺で得度し、月海元昭のちに高遊外(こうゆうがい)と名のります。売茶翁と呼ばれるのは、還暦の年に京都で喫茶店・茶舗を営みだしてからのことです。
 若かりしころ、まだ佐賀にいたときのことですが彼は病をえ、一念発起します。「このように弱い肉体や精神ではいけない。釈尊におつかえ申すこともあたわぬ」
そして何年ものあいだ、江戸や東北など全国各地をめぐり、修行学業にはげみました。臨済宗・曹洞宗の禅二宗をきわめ、南都の鑑真和尚からはじまる律学まで修しました。彼は当時、大秀才の若き学僧・文学僧として、将来を嘱望されたエリートでした。文学にもあかるく、詩でも書でも彼に比肩するひとは少なかったといわれています。
 ところが晩年、六十歳を前にして、久方ぶりに帰って来た肥前を去ります。寺は弟分にゆずり、京に向かいました。だが、本山の黄檗山萬福寺にも入らず、彼はなぜかまもなく寺を、さらには佛教までを捨ててしまいます。
当時の宗教界は、いまと同様でしょうか、堕落していました。六十一歳、当時は六 十をひとつ過ぎた年が還暦です。この年に彼は京で、突然に茶舗をはじめます。それも天秤棒に茶道具一式をぶら下げ、肩にかつぐ。春は花の名所に、秋は紅葉で知られる地に、住居兼のささやかな茶舗もありはしましたが、もっぱら日々移動するのです。荷茶屋というそうです。ちなみにそのころ、煎茶を立てて売る売茶業は、いやしい職業とされていました。
 彼の生活姿勢は、宗教家や知識人には痛烈な批判でした。いやしい職業にはげむ売茶翁は、かつて時代を代表する知識人。翁の姿は都のあちらこちらで見かけられましたが、市井で清貧の生活を送る、実はとてつもない文化人だったのです。
 売茶翁はこういっています。わずかの学業学識をひけらかして、師匠だの宗匠などとみずから称すことなど、まことに恥ずかしい。
 また僧侶にたいしては、立派な僧衣をまとい、おのれは佛につかえる身、佛弟子などと上段にかまえ、理も知らぬ庶民に高額な布施を要求して生きる。わたしには、とてもできないことです。
 「春は花によしあり、秋は紅葉にをかしき所を求めて、みずから茶具を担ひ至り、席を設けて客を待つ」
 彼の日々の収入などわずかなもの。特に客の絶える冬場、何度も喰う米にもこと欠き、生活は困窮しました。「茶なく、飯なく、竹筒は空…」。翁の餓死を憂えた友人は冬のある日、双が岡の彼のあばら家を、手に米を携え売茶翁を訪ねます。「我窮ヲ賑ス、斗米伝ヘ来テ生計足ル」
 若冲の別号・斗米庵や米斗翁は、ここからとったのではないか、わたしはそのように確信しています。
<2009年5月10日 南浦邦仁>
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