ふろむ播州山麓

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ブータンの幸福 4 輪廻転生

2011-12-01 | Weblog
 ブータンを訪れた日本人の第一印象は「日本によく似ている」。といっても、わたしは行ったことがない。聞き語り、いや訪問者の文を読んでの読みかじりである。
 まず顔が両国民は似ている。男性の民族衣装のゴもドテラにいくらか似ているが、特に顔かたちはそっくりだ。また高い山の斜面には棚田がずっと続く。日本人は昔の原風景を思いだし、郷愁にかられるらしい。やはり、同じ照葉樹林文化圏なのだろう。
 しかし滞在の数日後には、ほとんどのひとが気づく。「日本とはまったく違う異国だ!」。どこが違うのか? たとえば食事も異なる。あまりにも辛いそうだ。たいていの人が辟易してしまう。日本人は食事のたびに「辛い! 辛い!」を連発する。同国でもっとも有名な日本語は「カライ」である。彼らは自らを「世界一、トウガラシを好む国民である」と自慢する。
 ほかにも日本との相違はさまざまあるが、「輪廻転生」に注目すべきだとわたしは思う。

 養老孟司氏がブータンを訪れたときの体験が興味深い。「ブータンの食堂のテーブルは、テーブルクロスも何も敷いていないのに、水玉模様でした。私が席に坐ると、水玉が皆飛んで消えてしまう。水玉模様の正体はテーブルに群がっていた蠅だったのです。/その食堂で、地元の人が飲んでいるビールに蠅が飛び込んだ。日本人ならば大騒ぎです。が、彼は平気な顔でその蠅をそっとつまんで逃がしてあげて、またビールを飲み続けた。その様子を私が見ていると、/「お前の爺さんだったかもしれないからな」/彼は笑いながらこちらを見て言いました。今は蠅の姿をしていても、実は私の祖先が生まれ変わった形かもしれない、というのです。彼らのなかでは、蠅ですらも簡単に殺してはいけないという論理がこんな形で存在している。」
 
 上田晶子氏によると、ブータンのキャベツを栽培している農家の人がこう語っている。「キャベツは換金作物で、現金を得られるのはいいけれども、栽培の過程で農薬を使って虫を殺さなければならないので、あまり作りたくはない」。仏教を基盤とした広汎な思想には、殺生を極力避けようとする行動、自然との良好な関係を保つことを望む意識が深い。また輪廻転生の思想と同時に、いたる所にアニミズム信仰が深く刻まれているのもブータンである。
 ブータンでは、人々の多くがチベット仏教を信仰している。輪廻転生とは、人は悟りを開くまで、死後繰り返しこの世に戻って来るという確信である。来世にわたしは虫として生まれるのか? あるいは牛か犬か猫か鳥か? いまの生をどのように生きるかによって、つぎの生が決まる。よりよい来世を得るためには、功徳を積まなければならない。人に親切にする、生きているものを殺さない、良いこころがけ慈悲のこころを保つ……。仏教では、命を奪うなと教える。
 現世で環境を破壊すれば、その壊された環境にいつかは自分が帰ってくる。ブータンでは子孫の観念が異なる。未来の子孫とは、自分でもあるのである。同国で環境を大切にする考えの底辺には、関係性なり輪廻転生の信念がある。
 
 来日したブータン人はあまりの隔差に驚く。なかでも電車である。たびたび遅れる。分秒を競うほど時間に正確な日本人なのに、電車だけは来ずまた遅れることが多い。「なぜ?」、原因を知って彼らはたいへんなショックを受ける。人身事故という自殺である。10年以上も連続で、日本の自殺者数は3万人をこえている。ブータンの人口はわずか70万人ほど。単純にいえば、20数年で国民がひとりもいなくなってしまう。
 ブータン人が大切にするのは、家族やコミュニティの人々とのつながり、関係性である。もちろん自然環境との関係性も重んじる。彼らは周辺関係の微細な変化、こころや身体の変調に敏感である。おおきな変調を来す前に、何人もが危険を察知するという。
 同国では自殺はありえない。もし自死を選んでも、再びこの世に生を受けるのである。虫か牛か犬か人か…それはわからないが、自殺には意味がない。

○参考書
『死の壁』 養老孟司著 新潮社 2004年刊
『21世紀 仏教への旅 ブータン編』五木寛之著 講談社 2007年
「関係性、充足、バランス:国民総幸福量(GNH)の視点と実践」上田晶子 『科学』2011年6月号 岩波書店

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