ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

津波の歴史 1 「日本列島 津波史」

2011-04-16 | Weblog
日本最古の地震記録は、允恭5年(西暦416年)河内国地震です。以降、江戸時代末期までの約1450年間、地震被害記録は262件にのぼるそうです。
「地震史」を取り上げると、膨大な記述になってしまいます。今回は古代から現代まで、甚大な被害を及ぼした日本列島の「津波」記録ダイジェストを試作してみました。本日を連載「津波史」第1回とし、第2回以降は先月「3月11日の大津波」を取り上げようと思っています。

 なお参考図書は、『日本の自然災害』(力武常次・竹田厚監修 国会資料編纂会発行 2003年改訂版)。同書記載には「歴史的にみると、日本のほとんどの海岸が津波に襲われているが、津波襲来が特に多いのは東北地方の三陸沿岸で、地形の関係もあって波高が異常に高くなり、多数の犠牲者を出す場合がある。また、相模トラフや駿河―南海トラフで発生する M 8 級の大地震も津波を伴うケースが多く、房総から紀伊半島にかけての沿岸、四国の太平洋沿岸地帯で大きな津波被害を受けることがある」

 同書監修者のおひとり、東大名誉教授の力武常次先生は、地震予知を人類の平安のために徹底して研究された方です。確度の高い予知が困難な大地震ですが、先生の本を読んでいますと、決して不可能ではないと感じます。いつかこのブログで、地震予知についても触れたいと思ったりしています。以下、日本列島を襲った津波の歴史年表です。


西暦416年 允恭5年7月14日 「河内国地震」 日本最古の地震記録。『日本書紀』に記されている。津波の記事はないが参考まで。

684 天武13年10月14日 「白鳳地震」 近畿から四国にかけて推定 M 8.3 ほどの地震があり、死傷多数。津波が襲来して土佐で船の沈没が続出。1200ヘクタール余の田園が沈下して海になった。最古の津波記録。

800 延暦19年3月14日 「富士山噴火」 富士山が大噴火を起こし、足柄路が降灰砂に埋没したため、あらたに箱根路を開いた。津波は起きていないが、富士山の初噴火記録として参考まで。

850 嘉祥3年 「出羽国地震」 海水が国府から6里のところまで迫った。

863 貞観5年6月17日 「越中・越後国地震」 直江津付近にあった数個の小島が壊滅。

869 貞観11年5月26日 「三陸地方地震・津波」 沿岸各地に津波が襲来し、多賀城下では溺死者1000人。三陸沖を震源とする推定 M 8.3 程度の巨大地震。

887 仁和3年7月30日 「五畿七道地震」 北海道と東北を除く日本全国にわたって大地震が発生。摂津では津波による被害が大きく、溺死者多数。推定 M 8.5。

1096 永長1年11月24日 「機内・東海道地震」 津波が伊勢・駿河を襲い被害甚大。遠州灘沖を震源とする巨大地震で推定 M 8.5。

1361 正平16年6月24日 「畿内・土佐・阿波国地震」 津波が土佐・阿波・摂津の沿岸を襲い、阿波由岐湊では家屋1700が流失、流死60余。難波浦で漁師数百人が溺死。推定 M 8.5か。

1408 応永14年12月14日 「紀伊・伊勢国地震」 紀伊・伊勢・鎌倉に津波が襲来したという。

1433 永亨5年9月16日 「関東南部地震」 利根川の水が逆流したと記録され、津波の発生が推定される。

1498 明応7年8月25日 「東海道各地地震」 伊勢・志摩で波高が6~10㍍に達し、1万人が溺死。伊勢大湊で家屋流失1000、溺死5000。静岡県志太郡で流死2万余。鎌倉では波が八幡宮参道に入り、200人が流死。浜名湖では湖と海との間の砂洲が切れて、湖が海に通じる。津波溺死者数は数万人と思われる。

1520 永正17年3月7日 「紀伊・京都地震」 津波によって南紀の民家が流失。被害規模不明。

1596 慶長1年閏7月12日 「大分地方地震」 大津波が襲来して別府湾沿岸に被害を与え、大分とその周辺ではほとんどの家屋が流失。湾内にあった瓜生島は80%が陥没し、住民700人が死亡。死者総数は不明。

1605 慶長9年12月16日 「東海・南海・西海道地震/慶長地震」 津波が犬吠埼から九州にいたる太平洋沿岸に襲来して大きな被害があった。浜名湖近くの橋本では100戸中80戸が流され死者多数。伊勢の沿岸各地では地震後数百㍍まで潮が引き、約2時間後に津波が襲来。高さは4~5㍍。紀伊西岸広村で1700戸中700戸が流失。阿波国鞆浦で波高10~30㍍と記録されているが、死者200余。同宍喰で波高6㍍、死者1500余。室戸岬付近で死者約400。推定死者数万。

1611 慶長16年10月28日 「三陸・北海道東岸地震」 陸中小谷鳥(現・山田町)で波高15~25㍍。南部津軽で人馬死3300余。伊達領内で死者1783。三陸沿岸で家屋の流失多数、海水が阿武隈川を遡上し陸前岩沼周辺で家屋が多数流失した。

1640 寛永17年6月13日 「北海道駒ケ岳噴火・地震」 駒ケ岳が大噴火し、火砕流とともに山頂崩壊による泥流が発生して内海湾(噴火湾)に流れ込み津波が発生した。津波は津軽海峡や十勝にも押し寄せ、溺死者700余。昆布取りの船100余が流された。原因は地震だけではなく、火山の噴火による津波もある。

1677 延宝5年10月9日 「磐城・房総地震」 津波のために磐城領で家屋倒壊流失約550、死者130余。水戸領で倒壊189、溺死36。房総で溺死約250、奥州岩沼領で死者123。波高は外房4~8m。

1703 元禄16年11月23日 「江戸・関東地震」 地震後に津波が銚子から伊豆半島にかけて襲来。特に南房総の被害が大きく死者約4000。総死者は約5200、家屋倒壊流失二万戸。波高は房総南部や伊豆大島で10m。

1707 宝永4年10月4日 「五畿七道大地震」 津波が伊豆半島から九州にいたる沿岸を襲い、四国と紀伊半島での被害が甚大。少なくとも死者2万、家屋倒壊流失6万。紀伊半島東岸波高8~10m。

1741 寛保1年7月19日 「日本海沿岸各地津波」 北海道渡島半島西岸から津軽・佐渡地方に津波が襲来。渡島半島西岸で波高8~15m、死者1467、家屋損壊729、船の破損1521。波高は津軽西岸で4~8m。津波は能登・若狭から朝鮮半島東岸にも達し、被害を与えた。

1771 明和8年3月10日 「八重山地震津波/先島諸島地震」 八重山・宮古諸島に巨大津波が襲来して、石垣島宮良では波高が85.4m、同白保では60mに達し、同島では住民の約半数の8300人が溺死。宮古諸島では2500人が溺死。総死者は1万2千人にのぼったと記録されている。

1792 寛政4年1月~4月 「雲仙岳噴火地震/島原大変」 普賢岳噴火から始まった溶岩流出、火砕流、山崩れ。海に流れ込んだ大量の土砂と岩石は、島原湾や有明海に9㍍の大津波を引き起こした。噴火・地震・津波が重なった大災害となり、死者は島原で約1万人、対岸の肥後で約5000人。別名「島原大変・肥後迷惑事件」ともいう。

1833 天保4年10月26日 「越後・出羽地震」 津波が庄内地方から佐渡、能登輪島、隠岐島さらには北海道の渡島半島南部の福山にまで及んだ。家屋の倒壊流失数千、死者総数不明。

1835 天保6年6月25日 「東北地方東部地震」 仙台湾にも津波が襲来。数百の民家が流失、溺死者多数というが、詳細は不明。

1854 安政1年11月4日 「東海・東山・南海道地震/安政東海地震」 津波が房総から土佐の海岸を襲い、伊豆下田では地震の約1時間後に襲来して多数の家屋が流失したほか、停泊中のロシア軍艦ディアナ号が大破。全体の死者は2000~3000、住家の倒壊流失焼失は約3万と推定される。推定 M 8.4。波高は熊野灘岸6~10m、駿河湾奥6~7m。

1854 安政1年11月5日 「畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道地震/安政南海地震」 上記大地震の翌日、再び日本列島西南部に大地震が発生。大津波は房総から九州まで襲来。波高は紀伊半島串本で15㍍、土佐久礼で16㍍、牟岐9㍍。和歌山領だけで家屋全壊破損1万8000、死者約700。全体の死者は数千と推定される。地震と津波被害の区別は困難 M 8.4 級か。
 参考までに、翌年10月2日「安政江戸地震」では、死者約1万、大火災のために倒壊焼失家屋2万近いと思われる。津波はなかったが、幕末の安政年間は実に不安不穏であった。

1896 明治29年6月15日 「三陸沖地震/明治三陸地震津波」 三陸沿岸地上の震度は3程度だったが、地震後約35分で大津波が来襲。波高は20㍍以上に達した。綾里湾奥で最高38.2m、吉浜24.4m、重茂18.9m、田老14.6mが確認されている。2万人以上にのぼる人たちがほとんど一瞬のうちに波に呑まれて命を落とした。全半壊流失家屋1万以上。津波によるMは8.5と推定される。

1923 大正12年9月1日 「関東大震災」 死者行方不明者14万2807人。津波は熱海12m、三崎6m、洲崎8.1m。鎌倉で海水浴客多数が溺死。

1933 昭和8年3月3日 「昭和三陸地震津波」 地震の被害は少なく、津波被害が甚大。三陸沿岸の死者行方不明者3064、家屋流失4034、家屋倒壊焼失浸水6051、船舶流失沈没破損8078隻。波高は綾里村白浜23m、田老10.1m。「岩手県下閉伊郡田老村(現・田老町)の場合は500余戸のうち、高所にある10戸余りを残しただけで、死者行方不明者1000人を数え、特に田老地区では戸数362のところ358軒が流失、住民1798人中763人が死亡するという、ほとんど全滅に近い状態になった」

1944 昭和19年12月7日 「東南海地震」 熊野灘を震源とする地震。津波はハワイやカリフォルニア、南米沿岸にも到達。熊野灘沿岸で波高8~10m、溺死者多数。

1960 昭和35年5月 「チリ地震津波」 はるかかなたの南米チリで起きた地震M9.5により、22時間後に日本の太平洋沿岸各地に大津波が襲来して、三陸沿岸を中心に甚大な被害を与えた。波高は三陸沿岸で5~6m。全国の被害合計は死者行方不明者142(内沖縄3)、負傷者872、家屋全壊流失3830、半壊2183、浸水3万。津波の時速は600㎞以上。ハワイでも死者61人。当然だが、同地も日本列島でも有感地震はなかった。
 チリ M 9.5とされ、20世紀最大の地震。同国での死者は約2000人。巨大なマグニチュードが、必ずしも正比例的に被害を増幅する訳でもないようだ。

1983 昭和58年5月26日 「日本海中部地震」 秋田県北部海岸で特に波高が高く(峰浜村11~14m)、男鹿半島で遠足の学童など100人が死亡。津波は韓国にまで及んだ。

1993 平成5年7月12日 「北海道南西沖地震」 波高は奥尻島西岸で特に高く(藻内12.4m、青苗11m)、同島の死者198人の大半は津波による。

<2011年4月16日 南浦邦仁>
※今回の連載タイトルは本来「< 3・11 日本 > №7 津波の歴史 1」でした。その後、「津波の歴史○」に変更。
 本日改題し< 3・11 日本 >を消し、<津波の歴史>に1本化します。5月17日。
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