年3期制の復活もいいとは思うが・・・
TOOL4より
平成23年6月26日
高知記念の最終日は淡々と進み、感動を与える様なレースもなく終了した感じでした。これが期末の競輪なのかも。点数を気にして失格だけは避けたいが優先したもの。これでは競輪離れは仕方ないかも、どうして1年2期にしたのか、選手の殆んどが昔の1年3期にすれば、もし陥落してもすぐにカムバック出来るし、事故点も1月から4月までなら、ファンも解り易いので絶対やるべき。真の改革とは、かくあるべきでしょう。そして今回の高知もですが、審判の判定には不納得なものばかり。ルールを変えても、判定を下す者の質が最悪ではどうにも成りません。審判長に成る人物は、常に勉強・努力して、ファン大事を心掛けないと本当に競輪はダメに成ります。上層部の顔色を窺ってしているつまらぬ者は去り、年齢そして経験に関係なく能力ある、そしてこの仕事に誇りを持ち、主役であるファンを大事にする人物がやるべき。ルールは時代に合わせて、どんどん変えていゝんですから、そうしないといけないと思いませんか。
年2期制になぜしたかというと、3期制だと、それこそT社長がいう、期末になると、点数を落としたくない選手の欠場が相次ぎ、結果、施行者の事務負担量が激増するからに他ならない。また、S級にせっかく上がった選手が、4ヶ月で再びA級に戻ってしまうことになると、S級のペースに慣れる間がなくなり、そのため、再びA級の遅いペースに対応せねばならなくなり、ひいてはその後伸び悩んでしまうという負の側面があるからだと考えられる。
但し、開催を今よりも大幅削減、つまるところ、「三点セット」を本気でやる気があるのならば、施行者の事務負担量もその分緩和され、かつ、選手もちょっとのことで斡旋を休むことなどできなくなるため、有効に働く可能性はある。ま、普通に考えれば、下位の選手をだるま落としすれば、選手の質は引き上げられるわな。
「判定を下す者が最悪」っていうけど、その基準が全く分からない。
要は、己の判定が常に正だと言うのか?
そんなことを思っていたら、ついこの間まで、バンク先生と「名無し氏」の『壮絶バトル』が展開されていたけど、ほんと、競輪選手は思い上がりもはなはだしい、ってことになるぞ。
もっとも、選手は必ずしもそう思ってなくても、「Tジャッジ」という「空想(ヴァーチャル)ジャッジ」が常に頭にこびりついているオッサンが勝手にそう思い込んでいるとするならば、オッサンの「妄言」も大概にしろ、ということだな。
TOOL4より
平成23年6月26日
高知記念の最終日は淡々と進み、感動を与える様なレースもなく終了した感じでした。これが期末の競輪なのかも。点数を気にして失格だけは避けたいが優先したもの。これでは競輪離れは仕方ないかも、どうして1年2期にしたのか、選手の殆んどが昔の1年3期にすれば、もし陥落してもすぐにカムバック出来るし、事故点も1月から4月までなら、ファンも解り易いので絶対やるべき。真の改革とは、かくあるべきでしょう。そして今回の高知もですが、審判の判定には不納得なものばかり。ルールを変えても、判定を下す者の質が最悪ではどうにも成りません。審判長に成る人物は、常に勉強・努力して、ファン大事を心掛けないと本当に競輪はダメに成ります。上層部の顔色を窺ってしているつまらぬ者は去り、年齢そして経験に関係なく能力ある、そしてこの仕事に誇りを持ち、主役であるファンを大事にする人物がやるべき。ルールは時代に合わせて、どんどん変えていゝんですから、そうしないといけないと思いませんか。
年2期制になぜしたかというと、3期制だと、それこそT社長がいう、期末になると、点数を落としたくない選手の欠場が相次ぎ、結果、施行者の事務負担量が激増するからに他ならない。また、S級にせっかく上がった選手が、4ヶ月で再びA級に戻ってしまうことになると、S級のペースに慣れる間がなくなり、そのため、再びA級の遅いペースに対応せねばならなくなり、ひいてはその後伸び悩んでしまうという負の側面があるからだと考えられる。
但し、開催を今よりも大幅削減、つまるところ、「三点セット」を本気でやる気があるのならば、施行者の事務負担量もその分緩和され、かつ、選手もちょっとのことで斡旋を休むことなどできなくなるため、有効に働く可能性はある。ま、普通に考えれば、下位の選手をだるま落としすれば、選手の質は引き上げられるわな。
「判定を下す者が最悪」っていうけど、その基準が全く分からない。
要は、己の判定が常に正だと言うのか?
そんなことを思っていたら、ついこの間まで、バンク先生と「名無し氏」の『壮絶バトル』が展開されていたけど、ほんと、競輪選手は思い上がりもはなはだしい、ってことになるぞ。
もっとも、選手は必ずしもそう思ってなくても、「Tジャッジ」という「空想(ヴァーチャル)ジャッジ」が常に頭にこびりついているオッサンが勝手にそう思い込んでいるとするならば、オッサンの「妄言」も大概にしろ、ということだな。