と言われかねない状況だった、長野五輪銅メダリストが小倉A級戦で優勝。
植松仁。
思えば、オーバー24枠として設けられた特別選抜枠を利用して競輪界入りした最初の選手だった。
長野五輪終了後、プロ契約選手として受け入れられなかったことで、三協精機と半ば喧嘩別れしたと伝えられている清水宏保が、スケートに見切りをつけ、競輪転向を希望しながらも、年齢制限の壁に阻まれたことが判明したことで、急遽、五輪等の国際大会で好成績を挙げた選手については、29歳未満の年齢までOK、としたことで、所属先の倒産により、ショートトラック選手としての活動が困難になった植松が、断腸の思いで競輪界に飛び込んだ、というわけだが・・・
植松が新人の頃、丁度、西宮で行われる最後の正月開催に参加しており、最終日に見に行ったことがある。そのときは確か優勝したんじゃなかったかな。しかしながら、体格的な不利は否めず、S級に上がってからは頭打ちの状態。ついには2年前、長期休養を余儀なくされ、復帰したのは確か昨年の11月頃。
20日の決勝は、6を目標にレースを進めたところ、ジャンで4-8に叩かれてしまい、本来ならば絶体絶命の展開だったところ、バックから捲った3にうまく乗ったのが植松。ゴール前、3を交わして優勝した。
現在はA2にまで落ちたけど、もともとこんなところにいるわけがない選手。
しかも、種目は違うけど、同じスケートの武田豊樹がついにダービー王となったし、また、自身が3位だった長野五輪のショートトラック500mの金メダリスト・西谷岳文もまた、今は競輪選手。2人の「後輩」(武田は年齢からいえば植松よりも上)にはまだまだ負けられないという気持ちがあれば、34歳だけど、もう一頑張りできるはずだが。
そういえば3年前、熱海で全競労の集会に講師として呼ばれ、朝、自宅に帰る準備をしていたところ、確かとくダネに出ていたのが植松。なぜ出ていたのかといえば、トリノ五輪の解説者としてであり、これを見て、部屋が同室だった、公営競技界の「重鎮」とともに、
「こんなところに出ないで、もっと練習しろ!」
「武田は偉いよな!見習えよ!」
と言っていたことを思い出す・・・