狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

大統領の承認を得ていたフライングタイガース

2011-03-03 06:41:11 | 歴史

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 続・フライングタイガース アメリカの「卑劣なだまし討ち」を一部加筆したものです。

 
何年か前、スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」を見た。
このタイトルを「私的なライアン」と思い込み、首をかしげた記憶がある。
 
だがこの場合の「プライベート」は「兵卒」「二等兵」の意味である事を後で知って納得した。
 
戦場で行方不明になった「一兵卒」に過ぎない「ライアン」の捜索に捜索隊が派遣されるとiうアメリカ得意のヒューマニズムを訴える戦争映画と知ってtタイトルの意味が腑に落ちた。
 
アメリカの兵役についても「ドラフト」とか「ボランティア」と日本語化された用語なので、つい誤解の迷路に迷い込む。

◆アメリカの兵役
ドラフトと聞くと飲兵衛なら生ビールを想像して生唾を飲むだろうし、野球ファンなら最近ではハンカチ王子の祐ちゃんや八重山商工の大嶺を思い浮かべるだろう。

英単語「draft」を新グローバル英和辞典でも検索すると、
 
先ず「描くこと, 線描」と有るし、勿論「生ビール」もあるが、

5番目に「糧食・軍勢・資金の)調達, 徴発;((the ~))徴兵[徴募]制度;((集合的))徴募兵;《スポーツ》ドラフト制 」とある。

つまりアメリカでは徴兵のことをドラフトと言う。

だが、現在のアメリカに徴兵制(ドラフト)は無い。

イラクでの戦死者が3000人に達したアメリカの兵役は徴兵制ではなく志願兵でまかなっていると聞くと驚く。

泥沼に入り込んでいる「イラク戦争」に更に二万人余の派兵をするというが、アメリカではこれを志願兵で対処していることになる。

志願兵はアメリカでは、ボランティア(volunteer)と言い、しばしば日本語の「義勇軍」と言う言葉に置き換えられる。

だが「義勇軍」という日本語の定義を誤ると歴史を見誤る。

スペイン戦争の折、ヘミングウェイ等の知識人が参加したことで知られるように、「義勇軍」とは 「戦争・事変の際に、人民が自発的に編成する戦闘部隊」のことを指す。

日本では1873年に国民皆兵を目指す徴兵令が出され、幾多の戦争を専ら徴兵で乗りきって来たので、志願兵とか傭兵、或いは義勇兵という言葉はあまり馴染みがない。

                 ◇

◆ファシズム対民主主義の戦い

戦後民主主義で育った者は次のように歴史を習った。

第2次世界大戦はファシズム対民主主義の戦いである。

例として高校用世界史の教科書である山川出版の『新世界史』(昭和61年3月5日発行)の記述を覗いて見る。
 
    「1920年代から30年代にかけて,とくに世界恐慌が先進工業諸
    国をおそってから,イタリア・ドイツ・日本にあいついでファ
    シズムやそれに似た政治体制がうまれ,民主主義をとる国々と
    の対立が激しくなり,世界はふたたび,さらに大規模な世界戦
    争に突入した」(313頁).「独ソ戦が始まるとソ連と米・英関
    係が好転し,イギリスはソ連と軍事協定を結び,アメリカは大
    量の戦略物資をソ連に送った.…こうして全体主義に対する民
    主主義の戦いという戦争の政治的性格が強まり,交戦諸国の戦
    意も高まった」(342頁).

驚くべきことに,殆どの教科書にはソ連の参戦を戦争の民主主義防衛の共同戦線だとして平気で記述している。

数々の新資料の公開で、ソ連が多くの自国民を平気で虐殺し,ナチス顔負けの全体主義国家であったことが今では歴史的事実として認識されている。

◆真珠湾の7ヶ月前に日本爆撃計画

日本の真珠湾攻撃の7ヶ月も前に、米軍が 蒋介石軍に荷担して、日本爆撃を計画し、陸軍長官、海軍長官、 そしてルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えていた書類 が明るみに出た。

この作戦には350機のカーチス戦闘機、150機のロッキー ド・ハドソン爆撃機を使用するとし、また大阪、神戸、京都、東 京、横浜の爆撃には木造住宅の多い日本民家に効果のある焼夷 弾を使用すべきとする内容もあった。

後の本土空襲の原形がすでに考えられていたのである。

だが実際には、欧州戦線への爆撃機投入を優先したため、この計画 は実施が遅れて、その前に真珠湾攻撃となった。

この計画が突飛なアイデアでない証拠として、すでに米軍の最新鋭戦闘機とパイロット約100名、地上要員約200名 のフライング・タイガースと呼ばれる一隊が、義勇兵を装って、蒋介石軍に参加していた事実は前に書いた。

上記の爆撃計画は、この戦闘機部隊に爆撃機を加えて、日本本土を直接攻撃しようという拡張案なのである。

これに対してフライング・タイガースはあくまでも中国軍に自主的に参加した義勇軍であり、アメリカの正規軍ではないので何の問題も無いと主張する論もある。

■フライングタイガースは「大統領承認書」を得た正規軍

フライング・タイガースは正式名をアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)と言うが、その実体は志願兵(Volunteer)によるアメリカ軍であった。

ボランティアと聞くと無償の善意の集団を想像しがちだが、フライング・タイガースは高額の条件で政府の募集に応じた志願兵集団であった。

フライング・タイガース生みの親クレア・リー・シェンノートは、蒋介石に乞われ重慶に着任後、

「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行い、

この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国にも承認されている。

派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。

また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。

1940年の夏にシェンノートは中国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。(ウィキペデリア)

アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。

シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。

またアメリカの中立という立場から「義勇兵」という形で集められたアメリカのパイロットは計100名。

しかし形こそは義勇兵としていたが、実質はアメリカ空軍のパイロットが殆どであり彼等は元の階級への復帰を保証されていた。

世界の目を誤魔化すためにパイロット達全員は義勇の目的からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。

さらにAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。

軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
毎月600ドルを全てのパイロットに支給
月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給

またAVGパイロット全員のフライトジャケットの背中には中華民国軍を援助する米国人飛行士であることを示す認証が縫い付けられた(ウィキペディア)。

正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日、軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。

だが、これは完全な中立義務違反で、これがが国際法上許されるなら、たとえば台湾が中国に攻撃された場合、自衛隊を一旦除隊させて「義勇兵」として台湾に送れば、日本は中国と台湾に対し「中立」と「平和憲法」を維持したまま、実質的に参戦できることになる。

何よりもフライング・タイガースが所謂「義勇軍」ではなかったという証拠は、日本の真珠湾攻撃の7ヶ月も前に、米軍が 蒋介石軍に荷担して、日本爆撃を計画し、陸軍長官、海軍長官、そしてルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えていた書類が明るみに出たことである。

シェノートが最初に中国入りした時期がルーズベルトの大統領就任時期より前だった、ということを根拠にフライング・タイガースはアメリカ正規軍ではなく、義勇軍だという説がある。

だが、少なくとも1941年初頭から始まった大統領命付きの「義勇軍募集」に応募した軍人達は、如何に「義勇軍」の名に隠れても米国正規軍の世を忍ぶ仮の姿であった。

the American Volunteer Groupがサンフランシスコ港をオランダ船で出発した1941年7月10日の直前には、二回目のAVGの派遣時の「100人のパイロット」「181人の射撃手」を1941年11月までには中国に到着するよう派遣すると言う大統領の承認を得ている。(★)

それだけではない。

さらに驚く事には、フライング・タイガースによる日本爆撃計画推進者の推進者だったロークリン・カリー大統領補佐官(当時)は、実はソ連と極秘情報のやりとりをしていたことが、当時の米暗号解読機関によって確認されていた。 

≪この文書はVENONA資料と呼ばれ、1940年代後半、ニューヨークとワシントンにあるソ連代表部とモスクワ間の交信記録を米特殊機関(戦後の国家安全保障局=NSA)が暗号解読したものだ。

カリー補佐官はカナダ生まれの経済学者で、39年から45年まで 大統領補佐官(経済担当)をつとめた。

41年初頭には対日戦略を調整するため米国の中国支援担当特使に任命され、ルーズベルト大統領と中国国民党の蒋介石主席(当時)の橋渡し役をしていた。

48年にソ連スパイだったことを告白した政府職員、エリザベス・ベントレーによる「カリー氏もスパイだ」という訴えをきっかけに、カリーは米下院・非アメリカ委員会の追及を受けた。
 
しかし最後まで容疑を否定し、50年に米国市民権を放棄し、南米コロンビアに移住、93年に死亡している。

ソ連がスパイを送り込んで、日本と蒋介石軍との戦いをアメリカに支援させていた動機は容易に理解できる。

両者が戦えば、毛沢東軍が漁夫の利を占めることになり、中国共産革命が近づく。

さらに日米戦争ともなれば、ソ連にとっても日本からの軍事的脅威はなくなり、ドイツと日本から挟撃されるという最悪の事態を避けられる。まさに一石二鳥の見事な謀略なのである。≫(「国際派日本人講座」http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog116.htmlよりの引用)

 

光あるところに影がある。

表面に見える歴史の奥底には人知れぬドラマが潜んでいる。

フライング・タイガースは今まで歴史の闇に埋もれ、民間人の冒険野郎の単なる「冒険物語」としての伝説から、アメリカ正規軍としての歴史の表舞台に登場したのである。

The first contingent (of pilots) of the American Volunteer Group left San Francisco on July 10, 1941, aboard the Dutch ship Jaegersfontaine.  Just before leaving, Chennault received confirmation of Presidential approval for the second American Volunteer Group of bombers with a schedule of 100 pilots and 181 gunners and radio men to arrive in China by November, 1941, and an equal number to follow in January, 1942. (HISTORY: American Volunteer Group (Flying Tigers) http://www.flyingtigersavg.com/tiger1.htm

拙訳(アメリカ義勇軍(AFG)のパイロットの第一次派遣団は、オランダ船「ジャガースフォンティン」に乗船し1941年7月10日サンフランシスコを出航した。 その出発の直前、シェノートはAGFの第二陣派遣団のために次のような内容の「大統領承認書」を受理していた。

「大統領承認書」にはこう記載されている。「第二次派遣団には1941年11月までには中国に到着するパイロット100人、射撃手181人が含まれ、そして1942年の1月には同じ人数の派遣団が派遣される」)。

◆フライング・タイガースの公式ウエブサイト(http://www.flyingtigersavg.com/

◆参考: Air Force A BRIEF HISTORY WITH RECOLLECTIONS ANDCOMMENTS BY GENERAL CLAIRE LEE CHENNAULT 

 

【おまけ】

真珠湾攻撃の二年前に日本軍と戦闘していたヒーローとして、1942年製作のアメリカ映画でフライングタイガー兵士を演じる若き日のジョンウェイン。

The Flying Tigers are a band of American Mercenaries called upon by China to help fight the Japanese two years before Pearl Harbourimdb.com :: Flying Tigers

Curtiss P-40E at the National Museum of the United States Air Force.

 

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1 コメント

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自由主義と情報公開 (安仁屋正昭)
2011-03-04 07:24:04
人は無くいて七癖とよくおばぁから聞いていましたが、国家や民族にもそれなりの国柄があり、良いところも悪いところもあります。

米国が優れているところは、機密情報を公開するところでしょう。

W・G・I・Pは30年後に公開されされました。
ケネディ暗殺は2013年に公開されるのでしょうか?

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