狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

揺れる「民意」  沖縄の「ローマ人」知事

2006-05-06 11:11:01 | 普天間移設

「県民の皆様 こちらは沖縄県広報課です」。 

「今日はヘリポート、・・・もとい、ヘリパッドの移動日です」。

「移動のために皆さんの手を貸してください。 パッドの下には移動用の車が付いていますから,押せば動きます」。

 「不要になった基地は何時でも移動できる便利なヘリパッドです」。

ここで奇妙な夢から覚めた。

「海上基地」はアクアポリス?

そして今度はヘリパッド?

やはりこれは悪夢だ。

                   *

十数年前、時の首相橋本竜太郎とビル・クリントン大統領は普天間基地の移設に合意した。

移動した先の基地固定化を避けるため、いつでも移動できる海上施設が考えられた。

県民は海洋博の海上都市・アクアポリスをイメージした。

海上基地の場所を何所にするかで議論が起きた。

真っ先に手を挙げて誘致を希望したのは当時の名護市長比嘉鉄也だった。

名護市の「民意」は海上施設受け入れに「賛成派」と「反対派」の二つに割れた。

地元メディアは反対派を支持し結論を「市民投票」と言う直接民主制に求めた。

結果は反対派が多数を占めた。

法的拘束力を持たぬ市民投票に基地移設は馴染まない、と判断した比嘉市長は受け入れを正式表明し、同時に市長辞任も表明した。

住民投票による「民意」を覆して異説受け入れた比嘉市長の「苦渋の決断」に、大田知事、地元メディアそれに「町の声」は怒り狂った。

当時の沖縄タイムスは次のように報じている。

≪沖縄タイムス <1997年12月25日> 

政治生命断ち決意/ 比嘉市長、市益を優先/ 海上基地受け入れ表明/「責任、すべて私に」

何だった市民投票/ 市民を無視している/ 受け入れは予測できた/     活性化のため仕方ない /政治には失望した
 
 【東京】「ここにヘリポートを受け入れると同時に、私の政治生命を終わらせていただきます」。二十四日午後八時前、首相官邸で橋本首相との会談後、比嘉鉄也市長は、苦渋に満ちた表情で海上基地の受け入れを表明した。受け入れ理由を「北部振興策も必要だし、また基地の整理・縮小も必要」と説明。さらに受け入れの代償として市長辞任を表明した。普天間飛行場の返還が浮上して一年八カ月。国、県、そして地元住民と大きく揺るがしたヘリ基地問題は着地点を見いだせないまま、一人の首長の決断で、終幕を迎えるのか。市民投票で示された過半数の「反対意思」は、橋本首相を前に市長の一言でくつがえされた。・・・・・以下略・・≫

見出しの文字の多さに記者の怒りと動揺が垣間見える。

記事は19歳から59歳までの男女10名の「市民の声」を報じた。

その10名全員が「住民を馬鹿にしている」とか「将来ある子供たちのために絶対に基地建設はさせない」に代表されるように反対表明をしている。

比嘉市長は自分が辞任することで責任を取り、次の市長選挙に市民の判断を仰ぐと言った。

市長選挙は名護市だけでなく県民を巻き込んだ戦いとなった。

橋本総理と普天間移設に合意していながら、反対派候補の応援をした大田知事に橋本総理が怒りも露(あらわ)なコメントをしている。

「知事の強い要請に基づいて進められてきた日米特別行動委員会(SACO)の合意を自ら否定されるのであれば、どうしようもない」・・・と。

結果は比嘉市長の下で助役を務め、海上施設賛成で立候補した岸本健男が勝利した。

そして十数年の時が虚しく流れた。  

誰もが危険を認める普天間基地はそのままにして。

その間に「反対派」大田知事に対する「賛成派」稲嶺が圧勝して「民意」が大きく揺れた。  普天間基地隣接の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したのも、その長い無為の期間中であった。

 「民意」の揺れは現地である名護市でも起きた。

「賛成派」岸本市長の跡を継ぐ「賛成派」島袋が「反対派」候補に勝利した。

揺れ動く民意のうねりに耐えかねて稲嶺知事は遂にローマ人(沖縄方言で老耄・ロウモウの人)と成り果てた。

いわく「米軍再編は高く評価」、「沿岸案には反対だ・・・が、陸上に暫定ヘリポート(移動可能なヘリパッド?)を造ってくれ」。

稲嶺知事は大田前知事とは対極の民意で当選しておりながら、「15年使用期限」、「軍民共用」と、実現不可能な無理難題で徒に10数年の年月を無為に過ごした。  その間「普天間基地」の危険さには拱手傍観した。

そして今度は陸上のヘリポート設置とは。

                   ◇

大田前知事は「代理署名拒否」と言う武器を振り回し、首相と移設を合意しながら反対派の市長選挙の応援をした。

首長の「苦渋の決断」が大好きなメディアは大田知事の周りに群がった。

大田知事はおそらくは当時の知事の中では一番メディア露出度の高い知事だっただろう。

知事選敗退後、そのメディアの後押しを受けて、大田知事は現在参議院議員室で悠悠自適の老後を送っている。

稲嶺知事もローマ人化したのを機に、沿岸案実施の際の「公有水面埋め立ての許認可権」と言う武器を振り回して全国メディアに「苦渋の知事」を訴える。

そしてやがて知事退職後は参議院議員室に引きこもる遠大な老後の計画を考えているのかもしれない。 

大田前知事の古事に倣って。

 

 

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