1945年10月に書かれたとみられる、故末次一郎氏の自筆の手記。敗戦のショックについてつづられている

末次一郎氏

 

 末次氏は情報戦の要員を養成した日本陸軍中野学校二俣分校の出身。陸軍少尉で終戦を迎え、中曽根康弘氏ら歴代首相のブレーンを務めた。

 手記は陸軍の便箋やメモ帳に残され、45年10月~48年1月に執筆されたとみられる。後半部分は日記のような内容も多い。遺族が東京都内で保管していたものを共同通信に開示した。

 45年10月に記した「あの日の憶い出」では、8月15日前後を回顧。「『敗戦』、そんな筈はない。俺達が今迄やって来たのは、何のためだ」「『一億特攻』、『国家総力戦』(中略)今迄聞き馴れた言葉は、総べて虚言の一個の言葉にしか過ぎなくなった」と振り返った。「死、生。生なれば、如何に生くるべき」と自問をつづっている。

 同じ時期の「雑感」と題された冊子には、米進駐軍により様変わりした街の様子を憂い「私達は敗れたるが故に、卑屈になっては絶対にいけない」と書いている。

 末次氏と親交があった平和・安全保障研究所の西原正副会長(国際政治学)は「敗戦直後の混乱の中、ここまで日本の再建に目を向けられた人は少なかったはずだ。戦争で亡くなった人への思いや、敗戦国となった日本を何とかしなければいけないという気持ちが、戦後のさまざまな活動に駆り立てたのではないか」と推察する。

 末次氏の長女森山裕子さん(69)は「父は生前、多くを語らなかったが、戦争で失ったものを取り返すことを使命として生涯をかけた。手記からその思いを強く感じた」と話している。【共同】

 

 末次一郎(1922~2001年) 杵島郡福富町(現白石町)出身。佐賀商業学校を卒業後、陸軍少尉で終戦を迎えた。戦後は引き揚げ者や東京裁判の戦犯支援に取り組み、青年海外協力隊の設立にも尽力。沖縄返還で民間運動の中心的役割を果たす一方、北方領土返還運動ではソ連(現ロシア)政府内に太い人脈を築いた。安全保障問題研究会を主宰し、故中曽根康弘元首相らのブレーンとしても知られた。平成になって海部、橋本、小渕の各政権の相談役を務めた。

 

 

戦後の領土返還運動に尽力 幅広い人脈、交渉の「架け橋」

 

 故末次一郎氏は戦後、沖縄や北方領土の返還運動に尽力した。関係者の話からは、民間人として幅広い人脈を築き、交渉の「架け橋」となってきた姿がうかがえる。 

 1952年発効のサンフランシスコ平和条約で沖縄が米施政権下に置かれた後、本土復帰の機運を高めるため、末次氏は日の丸を現地に送り、自ら何度も訪れた。日米関係を研究する歴史家のロバート・エルドリッヂ氏は「『本土の人間は沖縄を忘れていない』というメッセージを送り、米国の対応を気にする日本政府ができないことを続けた」と評価する。

 64年に首相に就いた佐藤栄作氏が沖縄問題に本格的に取り組み始め、末次氏は助言役を担った。事務局長を務めた「沖縄基地問題研究会」の議論は「核抜き・本土並み」を掲げた佐藤氏の基本方針の下地となり、69年のニクソン米大統領(当時)との返還合意につながったとされる。

 エルドリッヂ氏は「末次氏は、陸軍中野学校仕込みのノウハウで情報を収集し、米国側とも共有することで信頼関係を築いた。話し合いによる相互理解を目指し、本土と沖縄、米国の架け橋の役割を果たした」と話す。

 北方領土問題にも足跡を残した。4島の一括返還を主張。主宰する安全保障問題研究会で「日ロ(旧日ソ)専門家会議」を開き、ロシア(旧ソ連)の政府有力者や研究者との関係を構築して交渉環境を整えた。

 日本の外務省や歴代首相とのパイプも太く、袴田茂樹・青山学院大名誉教授(現代ロシア論)は「民間人でありながら日本政府に影響を与える人物として、ロシア側も末次氏に一目置いていた」と語る。ロシア側から要人が訪日した際には丁重にもてなし「人間的な交流が活動の原点にあった」としている。【共同】