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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

連載3、「軍命自決」記述を手引き

2013-07-10 12:29:52 | ★パンドラの箱訴訟

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■7月10日付世界日報記事

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(3)
戦闘参加者概況表/「軍命自決」記述を手引き

 当時、援護法の申請に関わった関係者の証言によると、当初は厳しかった申請書の受理条件が、関係者の熱心な折衝の結果徐々に緩和され、ついには「裏の手引書」とも言える冊子「戦闘参加者概況表」によって、一般住民に対する援護法の適用が容易になった。 この冊子は、昭和32年7月頃、琉球政府が作成したとみられる門外不出の援護法適用申請の記載マニュアル。20項目を示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」の発表に合わせて発行された。取材陣が入手したものは、昭和55年に沖縄県が再版したもの。沖縄県公文書館に保管され、表紙にはカク秘の印が押されている。
 「概況表」は、「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」に該当する20項目について、地域と場所、そしてサンプル文が書かれており、援護法適用を申請する際に実際にマニュアルとして使用されたものだ。

<⑥「食糧供出」 概況 戦闘開始後においても軍は食糧、馬糧の供出を要請していたため、各市町村長は区長に割当て、区長は壕長(の避難壕毎に指名された区長の分身者)に命じ砲爆撃、機銃掃射の危険を冒して食糧を収集(芋掘り、野菜取り、豚、牛、山羊の集荷等)して軍の戦力維持に協力した。>。対象期間は昭和20年4月上旬と指定、対象地域(協力市町村)は、「西原、浦添以南の地域各市町村、北部は本部、今帰仁、羽地、国頭、大宜味」となっている。

 <⑧「壕の提供」 部隊の配備変更による壕の不足或は前線から後退した部隊のため、或は患者収容所等を新設又は拡張するため、或は作戦上の必要から部隊の壕を交換するため艦砲砲爆撃又は機銃掃射、火焔放射、ガソリンによる焼払いに晒されて死亡した者が相当多かった。>。この項目の期間と地域について、北部は昭和20年中旬から終戦まで、中部は同年4月初旬から終戦まで、南部は同年5月下旬から終戦と指定している。

 そして、日本軍のイメージを決定的に悪いものに仕立てたのが集団自決をめぐる記述だ。なお、この部分は、渡嘉敷村がホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」で引用している。

 <⑮「集団自決」 狭小なる沖縄周辺において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と行動を共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し癒々と言うときにはいさぎよく死花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した後、手榴弾で自決したものもある。>。「集団自決の地域」は座間味村、渡嘉敷村、伊江村に限定し、日付はそれぞれ昭和20年3月26日、同年3月28日、同年4月21日と定めている。

 この記述により「集団自決」した者は乳幼児までも「戦闘協力者」と認定する根拠となった。当時の厚生省が琉球政府による戦闘協力者の拡大解釈を黙認したため、後世の大きな悲劇を生んでいく。「集団自決」「壕の提供」「食糧提供」の事実は後に、左翼学者やマスコミによって「軍の自決命令」「食糧強奪」「壕からの追い出し」という言葉に変わり、極悪な日本軍のイメージを作り上げていったのである。

(「沖縄戦の真実」取材班)

                                    ☆

 

■富村順一氏の独白(2)

座間味との出会い

 私が座間味島に行ったのは
座間味戦記を書くことが目的ではありませんでした。

1960, 70年頃、私は東京の練馬区にいました。
当時私は、愛犬を連れて毎日、朝早く練馬の駅の前を散歩してましたが、
駅の前に『世界日報』という新聞が箱に入れられ、
「三十円を入れて、自由にお取り下さい」と張り紙がありました。
幼い時から余り良い人生を送ってないので、三十円の金を入れずに毎
日のようにその新聞を読んでいました。

ある日のこと、沖縄出身の宮平という牧師のことが記事になりました。
その牧師がインドネシアに於いてインドネシア解放、独立のために
日本軍から武器を譲り受け解放戦線に渡し、
その先頭に立ってインドネシア軍と共に戦ったという記事でした。

 私はそのような素晴らしい沖縄人がいたかと思い、連載されたその記事を
読み、いつかそのことを本に書いてみたいと思い、座間味島に行きました。

 役場に行き宮平牧師を捜したところ、親戚の宮平さんという方で島一番の
お年寄りの家を訪ねて行きました。
私が宮平牧師のことを話すと、そのお爺さんは「あゝ、あの中野無線〔注〕か。
あいつがインドネシアで日本軍から武器を引き取り、
解放軍と共に戦ったことはよく知ってる。
中野無線のことだからオランダ軍のこともよく知ってる。
だから彼は解放軍の一指揮官として戦った。

そのインドネシアのことよりは、この座間味戦記を書いてくれ」
と話しながら、お爺ちゃんは押入れから四冊の本を取り出してきました。

『鉄の暴風』『家の光』『沖縄県史』、沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』。
この四冊の本をテーブルの上に置き、手拳を振り上げて本を叩き、
「この四冊の本は嘘なんだ。
梅沢隊長が自決命令を出したというのはまるっきり嘘、
自決は我々村の有志が決めたものなんだ。
このようなことを書かれたのでは、お国のために日本の勝利を願い自決して
いった校長や村長郵便局長の魂が浮かばれない。

何とか真実を公表できないものか。
座間味戦記が小中高校の副読本になって嘘の教育をさせられてきた。
それが大きな問題だ。
君に頼みたいことがある。
賢い人が出来なくても、余り賢くない人が出来るものがある。
君は学校へも行ってない。が、失うものもない。
何でも云うことを云ってきた。書いてきた。
是非真実の座間味戦記を書いて欲しい。
そうでなければ死んだ人は浮かばれない。

梅沢隊長は慰安婦と爆死したとどの本にも載っているが、爆死した
梅沢隊長を見た人はいない。場合によっては生きているかも分からない。
ここに復員名簿がある。これをお前にやるから、これをもって暇のあるときには
訪ねて行き、島の戦記を聞いて欲しい」と頼まれました。
そうして封筒に足代として十万円ほどの金を入れて私に下さいました。

 あの宮平のお爺さんの、怒っているのか悲しんでいるのか判断のつかぬ
顔を見た時に、もしかしたら自決命令はなく、捏造された戦記ではないかと
考え、東京に帰ってから、暇な時には、復員軍人の名簿を頼りに
約30人の復員軍人の家を訪ね歩きました。

〔註〕中野無線・・・中野学校のこと。同校は「陸軍通信研究所」の
門札を掲げていた。宮平牧師が中野学校出身なのでこう呼んだ。(中村)



『梅沢隊長は健在だ』

 その中の一人、埼玉県大宮の関根清さんという衛生兵に出会うことが
出来ました。
関根さんは「家には妻や子もいるし、ここではそんな悲しい話は出来ない。
外で話そうじゃないか」と仰有ったので大宮の駅の前のお寿司屋さんに
入りました。お寿司が出ても席ねさんは二、三分、うつむいた儘
何も話そうとはしませんでした。溜め息をつきながら、

「実は富村さん、自決命令はなかったのだ。
梅沢隊長は自決命令を出して朝鮮人慰安婦と爆死したと沖縄戦記には
書いてあるが、梅沢さんはお元気である。自決命令は出てない」
と云ってまた溜息をつきながら、

「実は自決に関係しているのはこの私なんだ。
村の村長や校長先生、郵便局長、女を交じえた四、五人で梅沢隊長に
自決する手榴弾を下さいとお願いに行ったのだが、梅沢隊長に断られ、
そのため、よく部隊に出入りしていた女性がある衛生兵に顔なじみがいて、
その衛生兵に頼んだところ、当時島にいた従軍慰安婦が米軍上陸前に
梅沢隊長の命令によって、野戦看護婦になったようです。
その野戦看護婦が自決用として持っていたと思われる手榴弾を衛生兵が
取り上げて、宮城初枝さんに渡したということです。
その衛生兵が私です。
もしそのことが世間様に知られると、私の妻や子がどのような悲しい思いを
するかと思えば公表も出来ない」と云って涙を浮かべてました。

〔註〕宮城初枝や梅沢裕元隊長の手記によれば、隊長を訪ねた村の代表は
村役場助役兼兵事主任兼防衛隊長・宮里盛秀、同収入役・宮平正次郎、
国民学校校長・玉城政助、村役場吏員・宮平忠達、女子青年団長・
宮平(のち宮城)初枝の五人。
盛秀が隊長に要求したのは宮城初枝によれば弾薬。
梅沢元隊長によれば爆雷で殺して欲しい。
それが駄目なら手榴弾か小銃弾を頂きたいということであった。(中村)


宮城初枝さんの驚き

 梅沢隊長は生きていると聞かされた私は、
「では手榴弾を関根さんが渡したことは公表しないから、
梅沢さんの家を教えてくれ」
とお願いしても、
「すぐには出来ない。梅沢さんに断ってから教える」
と約束しました。

何日か後に電話で梅沢さんの住所を教えてくれました。
私は梅沢隊長に連絡し、関根さんと共に大阪に行き、食事をしながら
様々なことを話し合いました。

 死んだ筈の梅沢さんが生きていることを先ず最初に伝えるべき人は、
座間味島で是非正しい戦記を伝えて欲しいと私に頼んだ宮平のお爺ちゃん
であると思い、座間味島にお爺ちゃんを訪ね、梅沢隊長のお元気なことを
話したところ、お爺さんは「その話を一番知りたがってる人がいる。
一寸待ってくれ」と立って行かれ、宮城初枝さんを連れて来ました。

 宮城初枝さんは入って来るなり
「富村さん、梅沢隊長は本当にお元気ですか。それは本当ですか」
と云うので「間違いありません」と話したところ、
しゃがみ込んで泣いてました。

 「富村さん。私一人で勝手に文章を書いて『家の光』に投稿した訳では
ありません。
村の有志の方々に頼まれて仕方なく私は(隊長が自決を命じたと)書いたのです。
本当に梅沢隊長には申し訳ない。済みませんです。
今度会ったら、私がお詫びしていたとお伝えして下さい。そして島に来て下さい」
と話してました。

 このように謝る女性に話す言葉もなく、翌日、母の住む宜野湾市に
帰ったところ、宮城初枝さんの娘さんの晴美さんが、沖縄でたった一つの
月刊誌『青い海』の編集長をしていました。
お母さんから電話があったそうで、「梅沢さん、本当に生きていますか」
と私に訊くので「生きています」といったところ、確かめたいから
住所を教えてくれというので、私は晴美さんに梅沢さんの住所を教えました。

 この話がどのように伝ったのか、三日後に『沖縄県史』の編集長島力
(しまつよし)さんがまた私の家に来て、
「富村、梅沢さんは本当に生きているのか」と訊くので
「生きてます」と答えた。

 「もし梅沢さんが健在であれば確認したいし、自決命令も出てないとなれば、
『沖縄県史』も直さなければいけない。是非梅沢さんの住所を教えて欲しい」
という風に話がありましたので、私は『沖縄県史』の編集長である島力さんに
梅沢さんの住所を教えたので、梅沢さんと連絡が取れ、『沖縄県史』に
梅沢さんの手記が載るようになりました。


嘘の平和運動と訣別

 その何ヶ月か後、沖縄でアジアの平和集会という集会があり、
それを新聞で知って参加いたしました。
主催者は、中村先生も御存知の渡嘉敷島出身の方です。
大江訴訟の沖縄出張裁判で証人に立たれた金城重明さんです。
沖縄キリスト教短大の学長をなさって、現在は那覇の聖教会の牧師を
なさっている方です。
その方々が平和集会を主催したのです。
私も参加して、手を挙げて座間味戦記の話をいたしました。
そこには教職員組合、社会党、共産党といった錚々たるメンバーがいて、
多くの新聞記者もいました。

 私が沖縄タイムスの『鉄の暴風』や他の沖縄戦記の捏造した部分を
声張り上げて訴えたところ、ある知人に呼ばれました。
「お前みたいに本当のことを云っていたら平和運動は出来ない。
平和のためには多少の嘘は云ってもいいんじゃないか」
と云ったので私は「嘘を云って平和運動するなら、あんたなんかと共に
行動する必要はない。あんた達と平和運動するより犬をパートナーに一
人でいいから全国行脚をして沖縄の真実を訴える」と大衆の面前で叫び、
二匹のシェパードを連れてフェリーで沖縄を出発し、
鹿児島に着き、そこから歩いて全国を一周いたしました。

 私が沖縄戦記を訴える以前は、殆どの知人友人は左翼関係でした。
座間味戦記を捏造だと訴えはじめてからは、今までの仲間であった
運動家達は全部私の前から遠ざかり、私は一人孤立することになりました。

つづく

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琉球新報の言論封殺戦いを挑んでいる上原さんの訴訟へのカンパ協力は支援団体の三善会へお願いしております。

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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