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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

福田恒存の「日本国憲法=米製翻訳憲法」

2012-05-03 13:19:32 | 県知事選

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憲法の日にちなんで、町工場の親方さんのコメントよりの孫引きで、「平和憲法」の欺瞞性を徹底的に粉砕した福田恒存、「当用憲法論」の抜粋を「掲載します。(太字強調と一部重複部分は筆者が編集した)

再度言おう。

県議選の立候補者諸君、沖縄2紙の顔色を見ることなく、堂々と憲法論議をし、改憲を主張しよう!

有権者は沖縄タイムスが考えるほどバカではない。

バカは、それに気がつかぬ沖縄タイムスである。

以下引用。

             ☆

現憲法批判の書物は何冊も出ていますが、私には、福田恒存氏が、昭和40年に発表した、「当用憲法論」、が強く記憶にあります。
今から半世紀近くも前、今とは異なる左翼全盛の、論壇の空気の中、このような文章を発表した、福田恒存氏の勇気と知的誠実には驚嘆しました。

以下、幾つかの文章を紹介させていただきます。

昭和40年5月3日の憲法記念日に、福田恒存はNHKテレビの「憲法意識について」という座談会に出席しました。出席者は5人で、憲法学者の小林直樹・東大教授、小説家の大江健三郎、国際政治学者、京大教授の高坂正尭、司会者の憲法学者の佐藤功、の諸氏でした。
福田恒存以外の4人はそれぞれ微妙な差はあっても、斉しく現憲法肯定論者、所謂「護憲派」であって、福田恒存一人が「改憲派」だったそうです。

          *

福田恒存、「当用憲法論」より。

・・・欽定憲法改定の際に見逃しえぬ第二の事実は、独立国に非ざるものに、憲法を制定する権利も資格も有り得ないといふ事であります。

仮に占領軍が押し付けたのではなく、自発的に草案を作り、自発的に制定したとしても、事態は同じです。この場合、「自発的」、といふ言葉が既に意味を為さない。自発的であり得るのなら被占領国ではないし、被占領国なら自発的ではあり得ないからです。

こんな解りきった事に誰も気付かなかった筈はない。が当時そのことをはっきり口に出して反対したものは衆議院で六人しかおりませんだした。そのうち四人までが共産党の議員であり、野坂参三氏などは、第九条にも反対し、軍隊を持たぬ独立国は考へられぬとさへ言っております。・・・

・・・断言しても良い、現行憲法が国民の上に定着する時代など永遠に来る筈はありません。第一に、「護憲派」、を自称する人たちが、現行憲法を信用しておらず、事実、守ってさへもいない。
大江氏は覚えているでしょう。座談会で私が、「あなたの護憲は第九条の完全武装放棄だけでなく、憲法全体を擁護したいのか」、と訊ねた時、氏は、「然り」、と答へた。続けて私が「ではあなたは天皇をあなた方の象徴として考へるか、さういうふ風に行動するか」、と反問したら、一寸考えこんでから、「さうは考へられない」、と答へた。記録ではその部分が抜けておりますが、私はさう記憶してをります。或いは氏が黙して答へなかったので、それを否の意思表示と受け取ったのか、いずれにせよ改めて問ひ直しても恐らく氏の良心は否と答へるに違ひない。

が、それでは言葉の真の意味における護憲にはなりません。大江氏は憲法を憲法なるが故に認めているのではない、憲法のある部分を認めているのに過ぎず、また憲法を戦争と人権の防波堤として認めているに過ぎないのです。

・・・しかし、巷間憲法論議の最大の焦点は、その第九条でありませう、それについて私の考えを述べます。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この文章を読んで御覧なさい、多少とも言葉遣いに敏感な者なら、そこには自発的意思など毛ほども無いことが感じ取られるでせう。これは譬へば「銃をしまう!」という職業軍人の間に通用した命令形の変種であることは一目瞭然であります。またこれをどう解釈しても、自衛の為の軍隊なら許されるといふ余地は何処にも残されてはをりません。事実、吉田茂元首相は当時そうさう力説してをりました。

現在でも、公法研究者中略七割が同様の解釈をしてをり、第九条のままでも自衛隊の保持は差支無しといふのは二割しかおりません。後の一割が自衛隊を認める様、第九条を改めるべしといふー意見です。処で、この第九条を生んだ根本の考へ方は何処にあるかといふと、それは前文における次の一節です。

・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公平と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

これも変種の命令形であることは言ふまでもありませんが、それにしても「名誉ある地位を占めたいと思ふ」とは何といぢらしい表現か、悪戯をした子供が、母親から「こう言ってお父さんにあやまりなさい」と教へられている姿が眼前に彷彿する様ではありませんか。それを世界に誇るに足る平和憲法と見なす大江氏の文章感覚を私は疑います。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といふのも、いぢらしさを通り越して涙ぐましいと言ふほかは無い。この場合、「決意」といふ言葉は場違いでもあり滑稽でもあります。

前から読み下してくれば、誰にしてもここは「保持させて下さい」といふ言葉を予想するでせう。といふのは、前半の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」といふのが途方も無い事実認識の過ちをおかしているからです。

これは後に出てくる「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」といふ一節についても言へるこ事です。
例の座談会で、この虚偽、或はこ五人を揶揄し、刑法や民法の如き国内法の場合、吾われは同胞に対してすら人間は悪を為すものだといふ猜疑を前提にして、成るべく法網を潜れぬ様に各条項を周到につくる、それなのに異国人に対しては、すべて善意を以って日本国を守り育ててくれるといふ底抜けの信頼を前提にするのはをかしいではないかと言った。
第一、それでは他国を大人と見なし、自国を幼稚園の園児並に扱ってくれと言っている様なもので、それを麗々しく憲法に折り込むとは、これほどの屈辱は他にありますまい。

処が小林氏は、あれは嘘でも何でも無い、当時は国連中心主義の思想があって、そこに集ったグループは反ファッシズムの闘争をした諸国と手を握り合って行かうといふき持ちだった、その諸国の正義に信頼しようといふ意味に解すべきだと答へました。

そもそも憲法の中に、猫の目のように変る国際政治の現状判断を織込み、それを大前提として各条項を定めるなど、どう考へても気違い沙汰です。

私は小林氏が本気でさう言っているのか、これもまた欺瞞か、そのけじめが付かなかったので黙ってをりましたが、もし小林氏が本気でさう考へているなら、そして憲法学者といふのはその程度の歴史知識、国際政治観で済むものなら、随分気楽な職業だと思ひます。

史上かって軍縮案が成功した例は無いし、中学校程度の世界史の教科書を見ても解ることですが、戦争の後には交戦国は必ず平和を喜び合い、もう戦争は懲り懲りだと思ふ。が、それは意識の半面だけの事で、済んだ戦争が史上最後の戦争だなどとは決して信じ込みはしないのです。

彼等が、「平和を愛する」、人間である事も、「平和をい維持し、あらゆる悪を地上から永遠に除去しようと努めている」、事も、やはり半面の真理であって、他の半面では、自分は出来るだけその善意を持ち続ける積もりだが、何処かの国がその善意を忘れることもあり得るといふ程度の予想は立てている、その予想が事実になる場合もあり、また善意を持ち続ける自分の力か、ついそれを忘れる場合もあり、しかもいづれの場合も、両者共に善意を忘れたのは相手方だと思い込む、それが人間といふものです。

さういふ、「人間普遍の原理」、に目を塞いで作ったのが、右に引用した現行憲法の前文であり、その帰結が第九条であります。

私は当時の日本の政治家がそれほど馬鹿だったとは思はないし、政治家といふ職業は憲法学者ほど気楽に出来る者とも思はない。

改めて強調するまでもありますまいが、これは明らかに押し付けられて仕方無く作った憲法です。如何にも腑甲斐無いとは思ひますが、当時の事情を考へれば、情状酌量出来ない事ではない。

しかし、それならそれで事情を説明して、国民の前に一言詫びれば゜よいと思ひます。アメリカも公式に謝罪した方が宜しい。さうすれば吾われもさっぱりした気持ちで、それこそ自発的に、吾われの憲法に天下晴れて対面出来るでせう。

今のままでは自国の憲法に対して、人前には連れて出られない妾の様な処遇しか出来ません。
尤も、それを平和憲法として誇っている人も沢山をりますけれど、それは其の人達が妾根性を持ち、事実、妾の生活をしているからに他なりません。・・・

・・・先に「蛇足までに」と申しましたが、現行憲法に権威が無い原因の一つはその悪文にあります。
悪文といふよりは死文といふべく、そこに起草者の、いや翻訳者の心も表情も感じられない。吾々が外国の作品を翻訳する時、それがたとへ拙訳であらうが、誤訳があらうが、これよりは遼に実意の篭もった態度を以て行ひます。

といふのは、それを翻訳しようと思ふからには、その前に原文に對する愛情があり、それを同胞に理解して貰はうとする欲望があるからです。それがこの当用憲法には聊かも感じられない。今更ながら欽定憲法草案者の情熱に頭が下がります。良く悪口を言はれる軍人勅諭にしても、こんな死文とは格段の相違がある。


前文ばかりではない、当用憲法の各条項はすべて同様の死文の堆積です。
こんなものを信じたり有り難がったりする人は左右を問はず信じる気になれません。これを孫子の代まで残す事によって、彼らの前に吾われの恥じを晒すか、或はこれによって彼等の文化感覚や道徳意識を低下させるか、さういふ愚を犯すよりは、目的はそれぞれ異なるにせよ、一日も早くこれを無効とし、廃棄る事にしようではありませんか。

そしてそれまでに、それこそ憲法調査会あたりで欽定憲法改定案を数年掛りで作製し、更に数年に亙って国民の意見を聴き、その後で最終的決定を行ふといふのが最善の策であります。

憲法学上の合法性だの手続きだの、詰まらぬ形式に拘はる必要は無い、今の当用憲法がその点、頗る出たらめな方法で罷り出て来たものなのですから。



※、「当用憲法論」、は、福田恒存・著、『日本を思ふ』ーーー文春文庫、並びに、福田恒存全集、第六巻に収められています。

平成24年5月3日

 

【おまけ】

石垣島に滞在中の水戸黄門様が、本日エントリーの冒頭の新聞見出しの感想を
送って頂いたので紹介します。

ちなみに「会見」とあるのは「改憲」の誤変換でしたので、本分では訂正してあります。

筆者の不注意で黄門様を混乱させたことをお詫び致します。

・・・・☆・・・・・・

沖縄タイムス瓦版アンケートによる「見出し」ですか。
それにしても、こんな内容で、何のために調査票を集めるのか、
瓦版が選挙に肩入れするような「民主主義」、実に嘆かわしいですな。

> ■一面トップ
> 本紙アンケート
> 護憲27人 会見20人

「護憲」とは、「憲法を護る」「国の定めを護る」の意なら、当たり前じゃ、
誰も憲法に違反した、と言われたくないものです。
「平和」反対、「戦争」賛成、と言えないようなものですな。

会見20人?? タイムス瓦版の誤植か、それとも、20人に会見して、
アンケートの結果「護憲27人」。数字が合わない。
この者らは数字誤魔化しの天才のようですから、信じられませんな。

> 9条改正反対41人65%
「改正」ですから、賛成しますな。
「改正反対」に41人とは、はて・・・??、意味不明な問いですな。

> ■2、3面トップ
> 県内移設に反対87%
「県内移設に反対」ですから「現状でよい」も含む数値と読みますぞ。
> 軍強制「あった」65%
「軍強制」あった、なかった、単純に答えられますかな。
>「集団自決」否定は2人
「自決」とは、他人の指図に寄らず「自分で決定する」こと、「集団自決」???
「中○」はチベット、ウィグル民族の自決を蹂躙している。
また、民族自決を主張する者を牢獄にいれたり、国内で虐待しているようですな。

 別の「自害」の意ならば、今の時代に「死語」ではありませんか。
いずれにせよ、集団であろうと、一人であろうと、命は大切にすべきです。
「否定は2人」とは信じられませんな。
そもそも何を問うているのでしょうかな。

地元の八重山日報以外の瓦版、読めば読むほど、
しかも真面目に読むと、訳が判らなくなり、頭がおかしくなる。

狼魔人様の電子日記、読者の皆様の意見を読み、それから瓦版を読む。
そうすると、真実がよく見えて、嘘つき者の判別もできる。ほんとに解りやすいです。

・・・☆☆・・・


石垣島より


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コメント (5)

大田昌秀「集団自決写真」の噓

2012-05-03 06:33:42 | 県知事選

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本日の沖縄タイムスの一面トップは6月10日に投開票される県議選をにらんで、立候補予定者63人に対し、お得意のアンケート調査をやった結果大きく掲載。 改憲問題や歴史問題で保守系候補者に脅しをかける何時もの姿勢を示している。

■一面トップ

本紙アンケート

護憲27人 改憲20人

9条改正反対41人65%

■2、3面トップ

県内移設に反対87%

軍強制「あった」65%

「集団自決」否定は2

そもそも「集団自決」のような歴史問題をアンケートしてその結果を発表すること自体がおかしい。

それに「集団自決」に反対、と印象操作をしているが反対している候補者は「集団自決は軍命」に反対しているわけで、「集団自決」の存在そのものに反対しているわけではない。 沖縄タイムスの歴史観と異なる歴史観の候補者は、このようにアンケートの段階で印象操作でされてしまう。

ただネットの普及した昨今、沖縄2紙の旧態依然のアンケート調査で騙される読者は少ない。

何度もいうがこのような姑息な誤誘導に乗せられるほど読者はバカではないのだ。

それは、宜野湾市長選挙における伊波前市長の敗退に象徴的に表われているではないか。

ここで保守系候補者にも強く言っておきたい。

流れは変わりつつ、いや、変わった。

これまでのように沖縄2紙の顔色を見ながらのなんちゃって保守では有権者に見放される。

真正面から憲法論議をしたら、改憲に同意する県民は圧倒的多数である。

先日の「朝生」を見て、大田元県知事や糸数慶子参議院議員、そして前泊沖国大教授などの沖縄左翼がいかに大嘘をついて県民を騙してきたが納得した県民は多かったはずだ。

            ☆

沖縄で出版される沖縄戦関連の書籍は、書店に特設コーナーを設けるほど数多いが、沖縄戦を少しでも検証した人が読めば、あまりにも事実の歪曲、捏造が多いことに気がつく。調査不足や勘違いによる事実誤認ならともかく、著者のイデオロギーを押し通すため、意図的に事実を歪曲、捏造した例は目を覆うほどだ。沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』が嘘にまみれた伝聞記であることは今では旧聞に属するが、沖縄戦記の代表的書き手である大田昌秀元県知事の出版物から歪曲・捏造の記述を拾い出すと、それだけでも数冊の本が出来るくらいだ。

雑誌『WILL』に掲載された大田元知事の嘘を以下に全文紹介する。 

 大田昌秀 「集団自決写真」の噓

                               鴨野 守著

「鉄の雨」とも称される米軍の凄まじい艦砲射撃で、地形が変わったとまで言われる沖縄戦。「ありったけの地獄」と形容された沖縄戦を象徴する写真が何点かある。そのなかの一つが、沖縄を代表する著名人の手で改かいざん竄されていた。本稿はその事実をはじめて明らかにするものである。

 野原に叩きつけられたようにして横たわる婦女子。その顔や腕、手足は血にまみれている。鎌、やかん、草履が散乱するなかに折り重なって人が倒れている。草に隠れた犠牲者

も含めれば、住民の数は十人ほどか。

まさに「無残な最期」の場面である。この写真は、戦後六十余年が過ぎてなお社会問題となり、軍命令の有無をめぐって法廷でも論争となった「集団自決」の現場の記録として、広く知られている。

 これをはじめて「手榴弾による集団自決」として、琉球新報社発行の写真記録『これが沖縄戦だ』で紹介したのが、大田昌秀元沖縄県知事である。

 一九二五年、沖縄生まれの大田氏は四五年三月、沖縄師範学校在学中に、鉄てつけつきんのうたい血勤皇隊の一員として沖縄戦を戦った。戦後は早稲田大学を卒業したあと、アメリカに留学。ジャーナリズム研究を進めるなか、一九七六年から七七年はじめにかけて、米国防総省で膨大な数の沖縄戦関係の写真を発見し、正式な手続きを経て一千数百点を沖縄に持ち帰った。

 これを整理したものが、地元の球新報』紙上に一九七七年三月二十八日付から百二十九回にわたり、「これが沖縄戦だ」として連載された。同年九月七日には単行本化さ

れ、那覇出版社から発売された。

 この本を見ると、上記の写真は見開きで掲載されていることから、同著の目玉であることがわかる。だが、筆者が沖縄県立図書館で調べたところ、『琉球新報』の連載には、この衝撃写真は掲載されていなかった。「スクープ」とも言える写真を新聞に掲載せず、連載が終わってからまとめた写真集に掲載したのはなぜなのか。

 理由は定かでないが、気になる箇所があった。それは、掲載時の写真説明である。「米軍の説明では、本島南端で砲撃による死とあるが、あきらかに手榴弾による集団自決とみられる(六月二十一日)」

 写真は、米軍の従軍カメラマンが撮影したものだ。キャプションも当然、カメラマンが付ける。いつ、どこで撮り、どのような場面だったかは、撮影者の記録が一番、信頼が置

ける。

 そのカメラマンが「本島南端で砲撃による死」とした写真説明を、著者の大田氏は「あきらかに手榴弾による集団自決とみられる」と強引に変えているのである。

 ここに、大田氏の悪意が透けて見える。「あきらかに手榴弾による集団自決とみられる」という一文は、日本語としておかしい。「あきらかに」とはじまるのであれば、末尾は「集団自決である」と言い切るのが自然だ。しかし大田氏は、集団自決であると断定できる根拠を持っていなかった。そこで、「集団自決とみられる」と曖昧な表現でぼかしたのであろう。

 致命的なミスがもう一つある。写真に写っている遺体を見てほしい。

 これが「あきらかに手榴弾による」ものだろうか。手榴弾が炸裂したのであれば、遺体の一部が激しく損傷しているか、またはバラバラになる可能性もある。ところが、写真の遺体にそのような痕跡は見当たらない。鉄血勤皇隊の一員として沖縄戦に参加した経験を持つ大田氏ならば、そんなことは百も承知のはずだ。

 それでもなお大田氏は、この写真を悲惨な集団自決を裏付ける証拠として取り上げたかったのであろう。なぜならば、大田氏の意図は、年を追うごとに大田氏自らの手で次第に露骨になっていくからである。同写真の説明文を時系列で紹介していこう。

 ①写真記録『これが沖縄戦だ』(一九七七年九月七日発行)

 編集・大田昌秀/発行・琉球新報社/発売・那覇出版社「米軍の説明では、本島南端で砲撃による死とあるが、あきらかに手榴弾による集団自決とみられる(六月二十一日)」

 ②『戦争と子ども 父より戦争を知らない子たちへ』(一九八〇年三月三日発行)著者・大田昌秀/発行・那覇出版社「沖縄では、平和時にはとうてい考えることさえできない住民の「集団自決」が決行された(一九四五年三月)」

 ③『総史沖縄戦』(一九八二年八月十日発行)編著・大田昌秀/発行・岩波書店「慶良間列島における住民の集団自決(米軍の説明では本島南端での砲撃による死とある)」

 ④写真記録『これが沖縄戦だ』改訂版(一九八三年十二月十日改訂一刷)編著・大田昌秀/発行・琉球新報社/発売・那覇出版社「手榴弾による集団自決(米軍の説明では、本島南部での砲撃による死とある)」

ここで注目してもらいたいのは、単行本『これが沖縄戦だ』の初版と改訂版とでは、写真説明が逆転していることだ。連載直後の初版本で後半部に置かれていた「手榴弾による集団自決」の記述を、同改訂版は冒頭に持ってきている。

 しかも、同改訂版からは、撮影の日付(六月二十一日)が削除されている。

 渡嘉敷・座間味島の集団自決は、米軍が沖縄本島に上陸する前の三月下旬に起きている。この写真を集団自決と結びつけようとすれば、六月二十一日の日付は邪魔であり、それを入れると信憑性が疑われることになる。だから削除したものと筆者は考える。

 改訂版には、仲宗根政善琉球大学名誉教授が「極めて正確な数字を明示して、簡潔にまとめ、生々しい写真を添えて、真にせまる。後世に残る貴重な沖縄戦史である」と称賛の言葉を寄せ、「集団自決をした慶良間の住民に、軍はどれほどの配慮をしていたのか。大田氏は、集団自決の惨状の写真は、目をおおわしめ、ここにのせるにしのびないと記している」と紹介している。

 だが大田氏は、「集団自決の惨状の写真は、ここにのせるにしのびない」などと言いながら、その後も、自らの著作物でためらいもなく発表していくのである。

 ⑤The Battle of Okinawa, The Typhoonof Steel and Bombs, By MasahideOta, 一九八四年 久米書店“MASS SUICIDE”, OF WOMENAND CHILDREN

Morbidly afraid of being capturedby Americans as a result of intensiveJapanese military propaganda, manycivilians chose suicide with hand grenades,knives and whatever weaponsavailable.

「〝女性と子供の集団自殺〟日本軍による徹底的なプロパガンダによって米軍に捕らえられることを異常に恐れた民間人の多くは、手榴弾やナイフなど手に入るあらゆる武器を使って自殺することを選んだ」

 ⑥『沖縄戦とは何か』(一九八五年四月五日発行)著者・大田昌秀/発行・中村久米

雄「手榴弾による住民の集団自決(米軍の説明では、本島南部において砲撃を受けたため、とある)」

 ⑦『語りつぐ沖縄戦 珊瑚の島燃えて』(一九八八年六月二十三日発行)編集・「語りつぐ沖縄戦 珊瑚の島燃えて」編集委員会/監修・大田昌秀/発行・沖縄県学校用品株式会社「慶良間諸島における住民の悲劇(手りゅう弾による「集団自決」と考えられる)」

 ⑧『大田昌秀「平和」を語る』(一九九〇年六月十五日発行)著者・大田昌秀/発行:公正・公平で心ゆたかな文化県政をつくる県民の会「住民の集団自決か」

 ⑨『人間が人間でなくなるとき』(一九九一年九月七日発行)著者・大田昌秀/発行・沖縄タイムス社「米軍の捕虜になるのを恐れて、集団自決した民間婦女子たち(一九四五

年六月二十一日)」

 ⑩『沖縄決戦 太平洋戦争最後の激戦と沖縄県民の戦い(歴史群像)』(二〇〇五年四月一日発行)発行・学習研究社/写真協力者氏名の冒頭に大田昌秀氏「六月二十一日撮影の慶良間のある洞窟内。米軍の記録では『攻撃から逃れようとして弾丸に倒れた非戦闘員』

とあるが、集団自決の現場のように見える。生きることを自ら放棄せざるを得なかった住民の絶望は、いかばかりであったろう。大田昌秀氏提供(『総史沖縄戦』より)」『沖縄決戦』の写真説明など、滅茶苦茶である。前述したように、慶良間諸島での集団自決は三月下旬のことである。それを「六月二十一日撮影の慶良間のある洞窟内」などとデタラメを書き、「生きることを自ら放棄せざるを得なかった住民の絶望は、いかばかりであったろう」と、あたかも死者に同情するかのような表現を用いている。死者を利用しているのは大田昌秀氏のほうではないのか。

 写真は、集団自決の軍命令が出されたと最初に書いた沖縄タイムス編『鉄の暴風』の改訂版にも掲載されており、「住民の集団自決の惨状と思われる米軍の写真記録」の説明が付いている。

 このほか、沖縄県教職員組合が発行した著作物に「集団自決」と断定した説明とともに、この写真が掲載されている。

 これが集団自決の現場写真であることへの疑問は前述したが、同写真のオリジナルの説明文を見れば、さらに真実が明らかになるだろう。

 筆者はそのオリジナルの説明文を、沖縄県南部にある沖縄県平和祈念資料館で入手した。同資料館は何度か訪れたことがあるが、館内にはこの写真が畳二枚分ほどの大きさで掲示されている。

 写真の下には、次のような説明文がある「犠牲となった住民(米軍の説明では砲撃による死となっている) 糸満市 六月二十一日」

 続いて英文の説明がある。

「Civilian victims of the fighting,Itoman City, June 21, 1945(Accordingto the U.S. military, these deaths werethe result of artillery shelling. )」

 日本語の説明書きのなかに、「米軍の説明では……」とあるので、平和祈念資料館の職員に「この写真のオリジナルの説明文はないのか」と尋ねると、職員は「あるはずです。しばらくお待ちください」と奥に入り、やがて一枚のペーパーを筆者の前に差し出

した。

「Caught in the vortex of war, thesecivilians on Okinawa were hit by ashell as they tried to escape throughthe front lines in the 32ND Regt,Sector, 7th Division. 6/21/45」

 邦訳すれば、「戦乱に巻き込まれるなか、それら沖縄の民間人たちは、第七師団第三十二連隊地区の前線を通って逃れようとしたところ、砲弾(弾丸)に襲われた」となる。

 この文面からは、集団自決との関係を見出すことは全くできない。

 周知のごとく、牛島満司令官が自決したとされる六月二十三日、沖縄における日本軍は事実上、敗北した。

 だが、その直前の六月十八日、勝利を目前にした米軍は、沖縄上陸軍最高指揮官のサイモン・バックナー中将が喜屋武半島の最前線視察中に、日本軍の砲撃を受けて戦死。最高指揮官を失った米軍は激怒し、南部地域において徹底的な掃討作戦を展開した。

 六月二十一日撮影の本写真は、このときの米軍の砲撃で殺された沖縄住民にほかならない。集団自決とは何ら関係がないのである。

 大田氏は、こう語っている。「私は、戦争から生き延びた時、戦場跡で一つだけ固く腹を決めたことがあります。それは思想にしろ、信条にしろ、自分なりに納得しうるものだけを身につけようということでした。

 つまり、他人からの受け売りの思想ではなくて、真に自分の心身で体得した、いわば自らの背丈に応じた思想に従って行動しようと決めたわけです」(『沖縄 平和と自立の闘い

─写真と語録で見る大田知事の二九九〇日』より)

 だが、「真に自分の心身で体得した、いわば自らの背丈に応じた思想に従って行動」した結果が、写真の意図的な悪用だったとは。

大田昌秀氏が、以上のような「集団自決」キャプションの改竄を行った影響は甚大である。大田氏はこのほかにも自らの著書にこの写真を掲載してきたが、さらに大田氏以外の著作物でこの写真はどのように紹介されたのか。主な事例を以下に記してみる。

 ①『沖縄戦記録写真集 日本最後の戦い』(一九七七年九月十五日発行)発行・月刊沖縄社/発売・新日本教育図書株式会社/写真提供・米国防総省

「米第三十二連隊の布陣地帯からのがれようとして、弾丸に倒れた非戦闘員たち(六月二十一日)。米軍の説明にはこうあるが、写真は集団自決の現場のように見える」

 ②『証言・沖縄戦 戦場の光景』(一九八四年十一月十五日発行)

著者・石原昌家/発行・青木書店「家族・親類・友人・知人どうしで殺しあった凄惨な集団自決の現場と考えられている写真」

③『昭和の戦争5 悲哭──沖縄戦』(一九八五年八月二十六日発行)

 責任編集・豊平良顕/発行・講談社「集団自決──沖縄の住民たちの凄惨な死。」

 ④『沖縄と天皇』(一九八七年七月三十一日発行)

 執筆者・安仁屋政昭ほか/発行・あけぼの出版「天皇の軍隊によって多くの県民が死ぬことを強制され、集団自決においこまれた」

 ⑤『写真記録 沖縄戦後史』(一九八七年十月二十四日発行)

 編集・沖縄タイムス社/発行・沖縄タイムス社「集団自決 爆発音と悲鳴、慶良間列島における住民の集団自決? はこの世で目にした最も痛ましい光景だった=1945」

⑥『渡嘉敷村史 通史編』(一九九〇年三月三十一日発行)

 編集・渡嘉敷村史編集委員会/発行・渡嘉敷村役場「親が子を、子が親を殺した集団死だろうか それとも…… 一九四五年三月〜七月」

 ⑦『別冊歴史読本(第七十号) 沖縄 日本軍最期の決戦』(一九九二年五月二十日発行)

 発行・新人物往来社「米軍の従軍カメラマンは『米第32連隊の布陣地帯からのがれようとして砲弾に斃たおれた非戦闘員たち』と説明を加えているが、写真の情景と六月二十一日の撮影月日から見て、戦闘末期に島尻戦線で続発した集団自決の

現場と思われる」

 ⑧『琉球・沖縄写真絵画集成(第三巻)沖縄全土が戦場になった』(一九九七年十二月十五日発行)監修・新崎盛暉/編集・解説:我部政男・宮城保/発行・日本図書センター「『集団自決』 降伏・捕虜を許さない皇民教育がもたらした惨状」

 ⑨『沖縄戦から何を学ぶか 戦後60年 戦争を知らない世代のための平和学習書』(一九九九年九月七日発行)

 著者・新城俊昭(沖縄歴史教育研究会代表)写真説明それ自体はないが、この写真のそばに、次のような本文がある。「慶良間諸島の住民は、日ごろ『獣のように残虐』だと教えられていた米軍が上陸してきたことによってパニックにおちいり、日本軍による直接・間接の命令・誘導等による『集団死』がおこりました」

 これを読めば、「自決命令による集団自決の場面」という印象を読者に植えつける目的で写真が掲載されたことは明白と言えよう。

 ⑩『母と子でみる 沖縄戦と教科書』(二〇〇〇年八月七日発行)

 著者・安仁屋政昭、徳武敏夫/発行・株式会社草の根出版会

「住民の集団死と思われる写真(沖縄本島南部。一九四五年)」

 筆者が知る範囲では唯一、原文に忠実にこの写真説明を紹介したと判

断できたのは、『決定版 日本の終戦46人の目撃者 米国国防総省報道写真班の証言秘録』(一九八五年、編集・三根生久大/発行・双葉社)である。ここには、「米第七師団第三十二連隊の第一戦攻撃で逃げ惑い、火砲、銃弾攻撃で見るも無惨な死体となった沖縄の住民たち(昭和二十年六月二十一日)」とある。

 このように見ていくと、最初にこの写真を日本で紹介した大田氏の写真説明の影響がいかに大きかったかが理解できるであろう。写真提供が米国防総省や米国立公文書館と記したとしても、その写真説明の原文に一つひとつ当たるという丁寧な作業を編集者や出版社が行わず、大田氏の写真説明をもとに適当にアレンジしたことが、この一件で露呈したと

も言える。

 大田氏が改竄していたのは、写真説明だけではなかった。彼は戦時中、鉄血勤皇隊にいたことは前述したが、彼が投降し、米軍の捕虜となった日付が、著書によって違うのである。

『沖縄健児隊』(一九五三年、編者・大田昌秀、外間守善/発行・日本出版協同株式会社)では、投降が「昭和二十年九月十六日」とあるが、それから二十四年後に出した『鉄血勤皇隊』(著者・大田昌秀/発行・ひるぎ社)では、「昭和二十年九月二十三日」と、一週間遅くなっている。

 それが、『沖縄からはじまる』(一九九八年、著者・大田昌秀、池澤夏樹/発行・集英社)では、「私たちが捕虜になったのは、日本が正式に降伏してから二か月以上もあとの十月二

十三日のことです」と、一カ月も遅く投降したことになっている。

 まさか捕虜になったあと、二度、脱出したということでもあるまい。それとも、誰も投降日のチェックなどしないと読者をあなどって、終戦後も徹底抗戦した勇敢な兵士に自分自身を演出したかったのだろうか。投降場所も、東風平村名城付近から摩文仁に変わっている。大田氏はジャーナリズムを専攻したというが、著作物でこう二転三転するのは

どういうわけか。

 琉球新報記者を経て、のちに株式会社プレス沖縄を立ち上げた新里英之氏が、大田知事の人間性を描いた

『大田沖縄県知事の背信行為』を一九九四年九月に上梓している。このなかで、同年六月の訪米時に、デラムス下院軍事委員長と会見していないにもかかわらず、直接会って要請、

意見交換をしたかのような発表をしていたことが県議会で問題となった

場面が、リアルに描写されている。

 さすがにこのときばかりは、地元メディアも大田知事を追及。大田知事はたまらず、「体調を崩し、会う予定だった米軍事委員長とは会わなかった」と噓を認め、謝罪したというのだ。

筆者は大田昌秀氏に、以下の質問状を出した。

①撮影現場にいなかった貴殿が、米軍撮影者の説明を否定して、「明らかに手榴弾による集団自決とみられる」とする根拠は何か。

②当方では、沖縄平和祈念資料館で、米軍撮影者が記録した英語のキャプションを入手したが、それは集団自決とは全く関係ないものだった。事実を歪曲して発表することは、ジャーナリスト、学者、県知事、国会議員を歴任された著名人として、あってはならない行為と判断するが、いかがお考えか──。

 これに対する大田氏のコメントは、以下のとおりである。「小生は二十年間余も米国の国立公文書館や国会図書館を訪ね沖縄戦及び敗戦後の沖縄占領政治について写真や資料を収集した。その過程で米兵の写真のキャプションに日付や地名の取り違えなどいくつもの間違いがあることに気付かされました。したがって米兵の付けたキャプションを全面的に肯定するわけにはいきません。貴殿は戦争に出たかどうかは知りませんが、小生は一九四五年三月三一日から同十月二十三日まで沖縄守備軍司令部の直属隊の鉄血勤皇師範隊の一員として、沖縄戦に銃と手榴弾で武装して参戦、負傷して九死に一生を得た。その間地上戦の表現を絶するおぞましい戦場の醜い場面をいやというほど目の当たりにしました。

 その体験を通して問題の写真は砲爆撃の結果とは思われず、小生たちが五月末に首里を撤退し沖縄戦の末期近くに喜屋武半島の米須集落一帯の断末魔の戦場で目撃した集団自決に酷似しているので、『集団自決に見える』、としたのであって、集団自決問題についてはすでに大江・岩波裁判の最高裁判決で片がついているので貴殿が言うように執拗に集団自決に結びつける必要は全く無い。その写真が砲弾によるのであれば、多くの場合死体がちぎれて四散し、集団自決のように一箇所に死体がほぼ原型を留める形でまとまることは極めて稀であり、そのことは戦場に出た人間ならばすぐ理解できるはず。

 疑問があれば沖縄戦の砲弾による犠牲者の写真とご指摘の写真とを注意深く比較して欲しい。また沖縄戦を体験した人に尋ねてみたらよいでしょう。

 尚、貴殿が『集団自決に見える』との記述を事実に反すると否定するのであればその根拠を示されたい。貴殿自身も戦場の現場には居なかったはずだから……」

 大江・岩波裁判の決着は二〇一一年、大田氏が「集団自殺」として何年ものちのことである。米兵の写真にキャプションや地名の取り違えが多いというが、この日付が間違いだという証拠でもあるのだろうか。それに、自分の本のキャプションがバラバラなのはなぜなのだろう。

 大田氏がまとめた『写真記録 人間が人間でなくなるとき』は、ジェノサイド(大量虐殺)をテーマに、「南京事件」から「沖縄戦」へと大量虐殺が連鎖している、と説く。だが、結局は自説を立証せんがために、無関係な写真を「集団自決」の写真と決めつけて悪用しただけではないのか。

 大田氏のしたことはまさに、戦争で亡くなった死者を冒瀆する行為にほかならない。

               ☆

写真一枚の説明にも大田氏は次に例示するような大嘘をついて読者を騙していた。

「写真」のキャプション捏造 時系列

①発行 昭和52年9月7日(1977年) 写真記録「これが沖縄戦だ」

編集者 大田昌秀 発行所 琉球新報社 発売 那覇出版社

米軍の説明では、本島南端で砲撃による死とあるが、あきらかに手榴弾による集団自決とみられる(6月21日) 

 

②発行 1977年9月15日  沖縄戦記録写真集 日本最後の戦い

発行者 佐久田 繁 写真提供 米国防総省 発行所 月刊沖縄社 編集 神谷、中曽根

発売元 新日本教育図書株式会社

米第32連隊の布陣地帯からのがれようとして、弾丸に倒れた非戦闘員たち(6月21日)。米軍の説明はこうあるが、写真は集団自決の現場のように見える。

 

③発行 昭和55年3月3日(1980年) 戦争と子ども―父より戦争を知らない子たちへ―

著者 大田昌秀 発行所 那覇出版社 (*小学校高学年対象と思われる*)

沖縄では、平和時にはとうてい考えることさえできない住民の「集団自決」が決行された(1945年3月)

 

④発行 昭和57年3月3日(1982年) 平成2年7月1日 13刷 記録写真集 沖縄戦

編集 那覇出版社 発行所 那覇出版社 写真提供 米国防省・米陸軍省・米海兵隊本部・米航空隊

▲前線から逃げる途中に砲弾に倒れたと米軍の説明にはあるが、あるいは集団自決のようにもみえる(6月21日)

 

⑤発行 1982年8月10日 総史 沖縄戦

編集者 大田昌秀 発行所 株式会社 岩波書店

慶良間列島における住民の(集団自決)・(米軍の説明では本島南端での(砲撃による死)とある)

 

⑥昭和58年12月10日(1983年)改訂一刷 写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版

著者 大田昌秀 発行所 琉球新報社 発売 那覇出版

手榴弾による集団自決(米軍の説明では、本島南部での砲撃による死とある。)

 

⑦1984年First  Edition Copyright 1984 by Masahide  Ota

“MASS SUICIDE” OF WOMEN AND CHILDREN

Morbidly afraid of being captured by Americans as a result of intensive Japanese military propaganda, many civilians chose suicide with hand grenades , knives and            

whatever weapon available.

マサヒデ オオタによる1984  1984の第一版著作権

⑧1987年10月24日 初版1刷 写真記録 沖縄戦後史(7頁)

編者 沖縄タイムス社 発行所 沖縄タイムス社 印刷 文進印刷株式会社

集団自決 爆発音と悲鳴、慶良間列島における住民の集団自決?はこの世で目にした最も痛ましい光景だった=1945

 

⑨1988年6月23日 語りつぐ沖縄戦 珊瑚の島燃えて

編集 「語りつぐ沖縄戦 珊瑚の島燃えて」編集委員会 監修 大田昌秀

(*小学校高学年対象と思われる*)  印刷所 中和印刷紙器株式会社

発行 沖縄県学校用品株式会社

慶良間列島における住民の悲劇(手りゅう弾による「集団自決」と考えられる)

 

⑩1990年3月31日(平成2年) 渡嘉敷村史 通史編

編集 渡嘉敷村史編集委員会 発行 渡嘉敷村役場 印刷 株式会社 南西印刷

親が子を,子が親を殺した集団死だろうか それとも-・・・・1945年3月~7月

 

⑪発行 平成2年5月20日(1990年)改訂13刷 写真記録 「これが沖縄戦だ」改訂版

編著者 大田昌秀 発行 那覇出版

写真 (キャプション無し)

改訂版の刊行にあたってという挨拶文が大田昌秀氏によって書かれ、序として仲宗根政善琉大名誉教授によって書かれ、文中に「大田氏は、集団自決の惨状の写真は、目をおおわしめ、ここにのせるに忍びないと記している。」とあります。

 

⑫発行 1990年6月15日 大田昌秀「平和」を語る

著者 大田昌秀 発行所 公正・公平で心ゆたかな文化県政をつくる県民の会

住民の集団自決か

 

⑬1991年9月7日 初版第1刷 人間が人間で無くなるとき(58・59頁)

著者 大田昌秀 発行所 沖縄タイムス社 印刷 文進印刷株式会社

米軍の捕虜になるのを恐れて、集団自決した民間婦女子たち。(1945年6月21日)

 

⑭1998年9月18日 改訂増補版第一刷 改訂増補版 写真記録 沖縄戦後史1,945-1998

編者 沖縄タイムス社 発行所 沖縄タイムス社 印刷 文進印刷株式会社

集団自決 米軍の捕虜になるのを恐れ、集団自決したとみられる民間婦女子たち―1945年6月21日

 

⑮発行 2002年3月20日 これが沖縄だ 改訂版 写真記録

編集者 大田昌秀      発行 那覇出版社

手榴弾による集団自決(米軍による説明では、本島南部で砲弾による死とある)

 

グラビア 少女が負傷した写真

血みどろになった少女は(実は、この子は、日本兵の暴力から身を守るため、少女の姿にさせられていた少年であった)*

実はこれも語り部の大城盛俊氏と大田昌秀氏が共謀した大嘘であることが判明している。

 

      ★

※特報です!

祖国復帰40周年記念大会の入場料は学生以下は無料と決定しました!

■■沖縄県祖国復帰40周年記念大会についてお知らせ■■

政府や沖縄県は特定の限られた人々で復帰40周年の式典を行う予定です。

当然の事ながら、祖国復帰40周年は、県民あげ、国民をあげて祝うべきものと思います。

私共は、以下のように県内外の有志により、祝賀行事の実行委員会を立ち上げ記念行事を企画致しましたので、多くの方々の参加をお願い申し上げます。

◆日の丸パレード (自由参加)

5月12日(土)11時30分普天間宮集合 同45分出発⇒徒歩20分⇒宜野湾市民会館着

*小旗を用意しております。国旗の持参は大歓迎*300人程度の参加を予定しております。

 

◆記念大会 

5月12日(土)会場:宜野湾市民会館 

入場料:500円 会場1200席

     学生以下は無料!

オープニングセレモニー:13時30分 

県内外の有識者挨拶

特別提言:ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大教授「我が祖国チベットと沖縄」

基調講演:津川雅彦(俳優)
       「日本人の誇り―沖縄県祖国復帰40周年を迎えて」

琉球・国まつり太鼓 若手30人による演舞

閉会16時

※祖国復帰四十周年記念大会 告知動画第二弾!

http://www.nicovideo.jp/watch/sm17645327

http://www.youtube.com/watch?v=2geSvyROrm4

◆祝賀レセプション

16時15分より

会場:ジュビランス(宜野湾市民会館向い)

会費:4,000円(検討中)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

主催:沖縄県祖国復帰40周年記念大会実行委員会

連絡先:波の上宮内 090-6831―0989 坂本まで

          Fax098(868)4219

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