太田元知事の子分である宮城氏に話が及ぶと芋ずる式に話が脱線していくので、現代のキジムナーこと上原正稔氏と太田氏の乱闘の経緯に話を戻す。
上原氏は従来から活動を共にしていた若者集団に、沖縄の識者を「箔付け」のため参加してもらい、
1983年の12月8日、沖縄戦記録フィルム収集運動(1フィート運動)を正式に開始することになる。
マスコミの反応は凄まじく、新聞テレビは連日「1フィート運動」の発足を報じた。
だが、そのとき既に「ハーバービューの決闘」の原因となる火種が組織内部で燻っていた。
発足の当日、会場で事務局長の上原氏が用意した声明文を福地曠昭氏が読み上げていたとき、突然声明文にない文言を発言し始めた。
「上原君は若いから事務局長は誰か外の人にやってもらおう」と、宣言したのだ。 それも事前に上原氏に一言の了解もなく。
会発足の日に、突然のクーデター劇が起きて、結局上原氏は否応なく事務局長を外されてしまったのである。
後に分かったことだが、この運動に共鳴して協力的だった那覇市役所職員の宮里千里氏が、「実は福地さんから事務局長になってくれと頼まれたが断った」と告白していた。
この運動を最初から立ち上げた上原氏に事前に一言の相談もないのも不可解だが、何よりも福地氏は上原氏に依頼されて後から「広告塔」的意味合いで参加したはずだが、その「広告塔」が事務局長を追い出すというのも実に不可解である。
これは純粋に沖縄戦史を解明しようという上原氏の姿勢が何者かの逆鱗に触れた結果、会発足早々からクーデター劇に至ったのではないか。
その何者かが、会の性格をイデオロギーで染めてしまうのに上原氏は邪魔者だと判断して、強引に上原氏を排除したのではないか。
福地氏が用意された開会宣言に付け加えた文言のウソがあることでも、上原排除劇の強引さが分かる。
上原氏は当時40歳になったばかりの働き盛り。
決して若いから不適当だといえる年齢ではない。
何よりも不可解なのは福地氏が上原氏の代わりに事務局長を依頼し断られた宮里千里氏は上原氏より7歳も若いということだ。
これだけをみても上原氏の追放劇が強引過ぎると分かる。
更にこのクーデター劇の真相を示す事実が次々と判明してくる。
沖縄の新聞などで我が物顔にその偏った考えを披露している「識者」にとって、読者は馬鹿に見えるのか
読者や一般県民は無条件に自分らの考えを受け入れてくれる従順な羊のような存在だという驕りが見られる。
だが、彼らの傲慢不遜な考えに反発を持ちながらもそのはけ口のない現状に悶々としているサイレントマジョリティがいることを忘れてはいけない。
上原正稔氏を1フィート運動から追放する策謀が次々と内部告発も含め明らかにされてきたのだ。
先ず、生協(沖縄県民生活協同組合)の上仮屋貞美事務局長が「上原君にこの運動を任せると、反戦運動の映画どころか、戦争賛美の映画さえつくりかねない」との怪文書を1フィート運動の運営委員会に配っていたことが内部告発により判明する。
上仮屋氏は更に那覇市立中央図書館長の外間政昭・米子夫妻と連日のように市立図書館で上原氏の追い落とし工作を練っていた。
今から立ち上げようという1フィートの会の主導権を巡って別のグループも水面下で策動した。
沖縄の各種婦人団体の大ボスともいわれる宮里悦女史が事務局長の椅子を自分の子分の中村文子氏に与えて会の主導権を婦人連合会で握ってしまおうと動いたのだ。
一方太田昌秀氏は自分の子分の一人保坂氏(当時琉球大学助手で後に教授)を事務局長に推薦した。
トンビに油揚げをさらわれるようにして自分達が苦労して立ち上げた1フィート運動を乗っ取られた上原氏に対して、
仲宗根政善氏は「上原君、苦しいだろうが我慢してくれ」と慰めたが、太田昌秀氏は「私のメンツをつぶすな」と怒鳴った。
沖縄戦の記録を発掘し、その真相を解明するのには右も左も関係なく識者たちが一致協力してくれるものと純粋にも信じていた上原氏は、
これまで尊敬していた沖縄の識者たちが、実はイデオロギーのみならず自分の名誉欲を満足させるためには手段を選ばない我利我利亡者の集いであることに気がついた。
上原氏が遅まきながら振り返って見ると、「1フィート運動」で最もショックを受けたのは「反戦平和」を主張している文化人や団体だったのだ。
彼らは何かというと「反戦平和」を金科玉条に拳を突き上げるが、その拳は自分のイデオロギーや名誉欲達成のために天に向かって叫んでいるに過ぎないのだ。
自分達の醜悪な目的達成の為には真実の解明は犠牲にしてでも、「反戦平和」の名の下に、上原氏とその仲間を抹殺し、若者たちの純粋な夢を奪って平然としていた。
彼らの偽善に満ちた態度に、上原氏は大きな犠牲を払ったが、一つ大きなことを学んだ。
沖縄の識者が唱える反戦平和とは鬼畜米英の裏返しのお題目であり、それを美化するための単なる標語に過ぎないということを上原氏は学んだのだ。
以後、上原氏は沖縄戦の真実を解明するのに右も左も無いと公言して、いわゆる沖縄戦研究者とは離れて独自の活動をするようになる。
さて、40歳が若すぎるという理由で事務局長の座を追われた上原氏だが、
沖縄の女ボス宮里悦女史の息の掛かった人物であれば、
ご高齢の中村文子女史でも事務局長の座が務まることになり、何とかの賞までもらえるのだから、沖縄の新聞記事は相も変わらず「大文字言葉」で溢れていることになる。
以下は今では左翼集団の牙城と化してしまった「1フィート運動」を報じる記事。
「1フィート運動の会」発足当時の、名誉欲の亡者たちのドロドロとした権謀術とそのイデオロギー的性格を知る人が読めば,
「地道な活動に取り組んできた云々」の受賞理由には爆笑してしまうだろう。
地の塩賞受賞/「1フィート」の中村文子さん
2001年12月9日
地道な活動に取り組んできた女性に贈られる「白井博子・地の塩賞」の実行委員会(東京)はこのほど、第三回表彰として沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長の中村文子さん(88)に同賞を贈ることを決めた。県内からの受賞は初めて。12日午後6時から那覇市女性センターで表彰式が行われる。
同賞は平和と人権の女性誌「あごら」(東京)が中心となり、平和と女性運動に取り組んできた故・白井博子さんを記念して1999年に設立された。
中村さんは長年にわたる1フィート運動の取り組みなどが評価された。
中村さんは「引っ張られても抜けないような強い草の根のように平和を守りたいと思ってきた。地の塩も草の根と同じように大切なもの。受賞は大変ありがたく、後輩とともに地の塩の大切さを考えていきたい」と受賞を喜んでいた。問い合わせは事務局03(3354)3941。
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新報特別賞の受賞喜び合う 一フィートの会記念の集い(2005.8.12)
琉球新報特別賞の受賞を喜び合う一フィート運動の会の関係者ら=11日夜、那覇市の八汐荘
平和運動への貢献が認められ、6月に琉球新報特別賞を受賞した沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会(福地曠昭代表)は11日、那覇市松尾の八汐荘で「受賞記念の集い」を開催した。会場には50人以上の関係者が集まり、受賞を共に喜んだ。
福地代表は「戦争のことだからお祝いというよりも、評価は評価として頂き、賞に応える活動を続けていくことがわれわれの使命だと思う」と語った。
中村文子事務局長は全県民からのカンパに感謝し、「体験者が少なくなっていく中で、平和を希求する心と戦争に反対する行動力をどう育てていくのか。沖縄戦を二度と繰り返さず、沖縄、世界の恒久平和のために精いっぱいの努力を続ける」とあいさつした。(略)
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上原正稔氏を追い出して、「1フィート運動の会」の事務局長や会長職の椅子を、沖縄の識者、いや、名誉欲の亡者たちが奪い合う理由は何なのか。
その最大の理由は「1フィート運動」のいかにも地味に見える草の根運動的印象にある。
創始者の上原氏が純粋に考えた「数多くの県民から1フィートにつき100円の寄付を仰ぐ」という発想が、
この団体は地道に沖縄戦の記録を発掘するイデオロギーに無関係な識者の集いという印象を与える。
イデオロギーと名誉欲の亡者達は、自分の策謀を「1フィート運動」の世話役という中立的印象で思想ロンダリングして次々と政治的発言をしていく。
これが彼らが「1フィート運動の会」にこだわる最大の理由である。
「1フィート運動」を隠れ蓑にした沖縄の識者たちの左翼活動の例を一部拾うとこのようになる。
「つくる会」教科書の県内採択やめて/1フィート運動の会が要請
改憲阻止をアピール 「沖縄・女性九条の会」結成2006年2月15日
続く