狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄戦の女装の少年、地元紙も知らなかった女装の謎

2009-04-03 06:50:44 | ★集団自決

 

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■「集団自決」で沖縄の識者がすべて同意見ではない■

「集団自決」に関し沖縄戦の学者や研究者が、皆同じように「軍の命令や強制」を肯定しているように報じられている。

だが、これはマスコミの恣意的報道であり事実を伝えていない。

2005年(平成17年)の8月を境に、それまで軍命令に否定的意見を主張していた良識派の論者たちが黙して語らなくなっただけである。

その一方、「軍命あり派」の論者が我が物顔に連日紙面を賑わしているのは周知の通りである。

では、2005年には一体何があったのか。

そう、「集団自決訴訟」がその年の8月5日付で大阪地裁に提訴されている。

提訴以前や、更に遡って沖縄返還前には、地元紙も現在ほどイデオロギーに捉われることなく、比較的公平な視点でこれら良識派論者の沖縄戦論を掲載していた。

軍命を否定し、『ある神話の背景』(のちに『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』に改題)を高く評価していた仲程昌徳琉球大学教授などの学者がその後沈黙を守っているが、

早い時期に渡嘉敷島の聞き取り調査をし、それを雑誌「青い海に」発表した作家の星雅彦氏や芥川賞作家の大城立裕氏も、当初は左翼学者に反対の論を張っていた。

だが、彼らも提訴以後沈黙してしまっているのが現状である。

沖縄返還の3年後の1975年、大城立裕氏は雑誌「新沖縄文学」(沖縄タイムス刊)の特集「沖縄・戦後30年」の対談で、今では考えられないことだが、沖縄タイムス史観を激しく批判している。

対談相手のタイムスの川満記者や『鉄の暴風』の著者の一人牧港篤三氏が、沖縄戦で侵攻して来たアメリカ軍は親切で解放軍といった感じであったのに対し、沖縄住民は日本軍に虐げられたので、砲弾を避け壕から壕へと逃回るときも日本軍にしめつけられている感じがした、と沖縄タイムス史観丸出しの発言するのに対して次のように反論していた。

大城: 川満さんが言わんとすることは、それらの圧迫感は日本帝国主義、或いは天皇制のために苦労させられたている、ということでしょう?それはないですよ、私の記憶だとそれはアメリカのお陰によって苦労させられているんだ、という気持ちが強かったな・・・。(略)天皇制のためという気は全然なかったですね。ところが、戦後になって全く逆にひっくり返ったわけですよ、すべてが天皇制による暗黒であったと。そして、それから解放されたんだなぁというわけです。

沖縄タイムスの先輩、後輩両記者を相手に、大城氏は諸悪の根源はすべて日本帝国主義や天皇制のせいだとする、沖縄タイムス史観を痛烈に批判している。

沖縄タイムスもこの対談の20年後に「集団自決訴訟」が提訴されるとは夢にも思わなかったのか、その頃までは比較的公平に反対論者の意見を自社発刊の雑誌に掲載する大らかさが残っていたようだ。

 

■「うつろな目の少女」-オカッパの少年の謎

沖縄タイムスは三年の間をおいて、同じ沖縄体験者を二度も特集記事にしているが、記事の目玉ともなるドラマチックなエピソードが最初の記事からは欠落している。

三年も時間が経過すれば新しい事実が出てきて、二件の記事が異なっても不思議は無いという意見はもっともだが、沖縄タイムスの二件の記事の違いは素直に首肯しかねる。

記事の主人公は、太田昌秀著記録写真集『これが沖縄戦だ』(1977年)の表紙に「うつろな目の少女」として紹介され有名になった大城盛俊氏である。

だが、2005年の記事には日本兵の暴行を避ける為オカッパの少女の姿をした大城少年のいたいけない女装については一行も触れていない。

記事はもっぱら残虐非道な日本兵の暴行により、右目失明や肩の脱臼の被害を受けたと言う記事と、それが援護法の対象にならなかった憤懣を記している。

長くなるが二回にわたる2005年の記事を全文引用しておく。

沖縄タイムス<2005年3月13日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](11)
適用拡大
日本兵が暴行 右目失明
43年目に障害年金申請

 大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、沖縄戦の最中、日本兵による暴行で右目を失明した。母親もまた日本兵にスパイ容疑をかけられ、惨殺されている。

 戦争当時、十二歳。玉城国民学校に通う元気な少年の人生が、そのけがで一変した。

 右目が見えないため、米軍基地のハウスボーイや、土建業のお茶くみ、穴掘りといった単純な仕事しか就くことができなかった。

 敗戦六年目の一九五一年、大阪へ働きに出た。「いつか、日本兵を見つけて、敵討ちしたい」という憎しみを抱いて旅立った。

 大城さんが去った沖縄では、五三年に援護法適用、五九年には一般住民も「戦闘参加者」として、適用拡大。遺族年金や障害年金が支払われていった。

 四五年三月。十二歳の大城さんは、玉城村に養父母と住んでいた。三月二十三日に港川沖の水平線をびっしりと米艦隊が埋めた。翌日から激しい艦砲射撃が始まり、一家は同村親慶原にあるワチバル壕へ避難した。

 昼は攻撃を避け壕で過ごし、攻撃がやんだ夜に壕を出て、畑を耕した。

 そんな状態が二カ月続いた五月下旬。首里から撤退してきた石部隊の日本兵が、壕に来て「民間人はここを立ち退くように」と命令した。大城さんらは、家財道具や食糧を抱えて、玉城城跡にある壕に移らざるを得なかった。移った先で惨劇が起きた。

 六月上旬、球部隊の日本兵六人が壕にやってきて、食べ物があるか聞いた。大城さんが「ない」と否定しても持っていたリュックサックを奪い取ろうとした。

 リュックの中には、家族のための食糧が入っていた。日本兵は、「これは渡せない」と再び拒んだ大城さんの襟首をつかみ、近くの畑に引きずっていって、投げ飛ばした。意識がもうろうとする中を無理やり立たされ、顔を殴られた。倒れこむと今度は軍靴でけり飛ばされた。

 「こんな子どもに何をするのか」。追いかけて抗議した父親にも、兵隊は暴力を振るおうとした。だが、リュックをあさっていた兵隊が食糧を見つけると、暴行を加えた兵隊は用が済んだとばかりに、立ち去って行った。

 大城さんの右目は充血し腫れあがり、右肩は脱臼。体中に傷や打撲傷を負う瀕死の重傷だった。

 その後、捕虜になり、米軍の診療所で手当てを受け、傷は癒えた。しかし、その時、既に右目の視力回復は難しいといわれた。戦後に治療を受けたが回復しなかった。

 五一年、大阪に渡り、工場勤めをした。「日本兵に殴られんかったら、目も見えて、仕事もできた」。心の中では怒りを持ち続けた。沖縄を差別する同僚を懲らしめようとしたこともあった。

 七五年に転職で沖縄に帰郷。援護法の障害年金が一般住民にも支給されることを知った。

 大城さんが援護法適用を申請したのは八八年。戦後四十三年もたっていた。

 

<2005年3月17日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](12)
審判
日本兵暴行は「規定外」
裁判できず泣き寝入り

 一九七五年、大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、新しい仕事を得て二十四年ぶりに、沖縄へ帰郷した。その時初めて、沖縄戦で「戦闘参加者」と認定されれば、一般住民にも遺族年金や障害年金が支給されることを知った。

 県が実施した援護法の巡回相談を訪れた時のこと。大城さんは担当職員に、日本兵に暴行を受け失明した状況を説明した。

 「あなたを殴った兵隊はいるのか」。担当職員は、事務的に質問をした。

 いや応なしに沖縄戦に巻き込まれて、味方の日本兵に暴行された。十二歳だった大城さんが何一つ自分で選んだことではない。なのに、それを証明するのは自己の責任でと言われる。

 あまりに理不尽な問いに、大城さんは激怒した。「戦闘中だから、その日本兵が誰かは分からない。じゃあ、艦砲射撃でけがをした人は、撃った米兵を特定しないといけないのか」

 相談に訪れていた戦争体験者のお年寄りたちも「やんどー、やんどー(そうだ、そうだ)」と加勢してくれた。

 沖縄で援護法が適用されてから、すでに三十年たっていた。「できるだけ多くの人を救う」。初期の援護担当職員によって、そうやって運用されてきた援護法は、時の流れとともに、住民の戦争体験を審判するものに変わっていた。

 それでも、大城さんは、友人らの助けを借りながら当時の証言を集め、八八年に、申立書を申請した。

 しかし、厚生省は九二年、日本兵の暴行による障害は「援護法の規定外」として、申請を却下した。

 沖縄の一般住民が、援護法の「戦闘参加者」として認定されるためには、「日本軍への協力」が前提だ。住民が、戦争で受けた被害を補償するものではなかった。

 大城さんは、支援者らとともに、三万人余の署名を集め、厚生省に援護法適用を認めるよう要請した。却下に対して不服申し立てをしたが、九四年に再び却下された。

 後は裁判しか道は残されていなかった。「何年かかるかと弁護士に聞いたら、十年から十五年という。年も取るし、費用もかかる。結局やめてしまった」。大城さんは悔しそうに振り返った。

 九一年に娘らが育った本土へ移り、現在は伊丹市に住む。「沖縄のことをみんなが考えてくれたらありがたい」。そう思い、ボランティアで沖縄戦の語り部として、講演活動で訴える。「沖縄の戦後は終わっていない。私のように、泣き寝入りをさせられている人はたくさんいるはずだ。日本の国は、沖縄への戦後補償をしていない」

 「軍への協力」が前提となる援護法では、一般住民が沖縄戦で受けた被害は救えない。

 「住民を守る軍隊が、沖縄では、沖縄人に銃を向けた。沖縄の人一人ひとりが、沖縄戦が何だったのかもっと考えてほしい」

                   ◇ 

筆者が、オカッパ頭の少女に変身した少年のドラマチックな話を初めて知るのは、

この記事から二年後の2007年の琉球新報のスクープ記事によってである。

そのときの驚きは、2007年の「うつろな目の少女」の秘密!で書いた。

沖縄出身で長年沖縄に在住する筆者でも、「うつろな目の少女」の写真は知っていたが、その少女が、日本兵の暴行を避けるため女装した少年であったという衝撃的事実は知らなかった。

念のため知人・友人およそ20名にこの話をしてみたが、やはり知る者は一人もいなかった。

だが、何よりも驚くのは、この手の沖縄戦のエピソードには飛びついて大騒ぎするはずの沖縄タイムスが2005年に本人にインタビューしていながら、肝心の「オカッパの少年」については記事にしていない事実である。

そのインタビュー当時本人の大城氏が太田昌秀著『これが沖縄戦だ』の表紙に自分の写真が使用されていることに気がついていなかったということもある。

だが事実はそうではない。

タイムスのインタビューの約20年前の1984年、与那原町でクリーニング店を営んでいた大城盛俊氏は、内臓病で入院中、隣のベッドの患者が広げた地元紙にのっていた自分の少女姿の写真を見ていたのだ。

そして『これが沖縄戦だ』の著者太田氏を自宅に訪ねて感動的対面をしているのだ。

だが、なぜか沖縄紙が垂涎のはずのこのドラマチックな話は、その後どの沖縄メディアにも報道されなかった。

少なくとも沖縄タイムスは2005年の時点では、この「おいしい話」を知らなかったことになる。

 (続く)

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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