ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「海南小記」 (角川ソフィア文庫1972年改版)

2018年02月06日 | 書評
南の島の生活研究から日本人の宗教・信仰をさぐる民俗学の出発点 第7回

1) 「海南小記」 (その6)

1-25) 赤蜂鬼虎
八重山諸島の石垣島の八百神伝説を述べる。赤蜂本瓦は八重山の独立派であった。それに反対したのが長田太主派であったが、尚真大王が八重山を征服した。赤蜂滅亡後半世紀して鬼虎の反乱が起き、西表島の祖納堂もまた古英雄であった。与那国を打ち取った武人である。赤蜂は八重山ではアカブザーと呼ばれ、酋長を意味するカワラであった。赤蜂・鬼虎・祖納堂・仲宗根豊見親・美宇底獅嘉殿らが神話の戦国時代を戦った。赤蜂征伐軍(64隻の中山軍)は久米島の巫女の長を舳先に立て、石垣島の大浜に上陸した。この戦いに勝利した大阿母(巫女の頭)の下で、聞得大君の神道に統一された。

1-26) 宮良橋
八重山の神代は15世紀の終わり、宮古の豊見親が沖縄本島の兵船を誘導して石垣島に上陸した時代まで遡る。赤蜂の乱はその動乱の始まりであった。その時代に石垣島には新しい歌が起った。これを受け継いだ若殿原は、琴、三線で島を慰問した。当時には職業的歌人・踊り手がいなかったが、歌舞は士族にあらざるは古曲に触れることは許されてなかった。ユカルビト(上流階級)でも女性は三線・琴に手を触れなかった。舞うのは美しい平民百姓の娘たちであった。その歌には八重山の悲しい響きに満ちていた。

1-27) 二色人
八重山諸島石垣島宮良にあるナビントウという洞窟で、毎年6月にプーリ祭りが行われ、赤又と黒又の神(二色の神という意味で、二色人ニイルピトと呼ぶ)が宮良の家々を回って励ましや寿ぎの詞をかけて歩く祭りである。神の衣裳は茅や草の葉を身に覆った人が恐ろしい形相をした面を被るのである。初春の門付け行事である春駒、鳥追いとは違って、家の人は本当に神の詞と信じていて、他人には言外しないことである。宮良の二神は新城の島から渡来した。大海鳴りの後小島から移住させられた民が持ち込んだ祭りで、小浜、新城、古見にも同じ祭りが存在する。石垣島には川平、桴海にもよく似た儀式がある。これを「マヤの神」となずけている。マヤとは猫のことで猫の仮面をかぶって現れるという。

(つづく)