ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文藝散歩 和辻哲郎著 「日本精神史研究」 岩波文庫

2010年08月15日 | 書評
時代に固有の精神はあらゆる分野に影響する 第2回

飛鳥・奈良時代の政治的理想

 和辻氏の飛鳥奈良時代の政治論は、「祭りごと」や「祀る神」から始まる。古事記神話時代のことであるが、君主=神=祭司という定義である。支配と被支配の関係は最初から敬遠されている。「支配」はなく「統率」という事実であると云うのだが、古事記によっている限りそういう意図で書かれているからそうなのだという論理である。支配と言う事実を隠蔽してきれいごとで皆が望んだからという論理は支配者の論理である。明治の朝鮮植民地のときも朝鮮民衆が望んだからという論理で、大量の軍隊を導入し、国妃を殺し旧王朝を解体した上で銃口を突きつけて、平等自主的な契約関係であるという如きである。和辻氏は「民衆の福祉への欲望が、権威や統率関係の設定として自覚された。統率者と被統率者との対抗もない、君臣一致は字義通りの事実だった。」というオブラートでくるんでいるが、今時こんな社会学は頂けない。確かに飛鳥時代までは天皇家の力は弱体で、大臣大連という豪族の連合政権であった可能性はある。葛城氏、物部氏や蘇我氏を打倒した天皇政権はまた兄弟同志が血で血を洗う抗争とクーデターを繰り返して、天智、天武系皇統が中央集権の権力(支配)を確立した。古事記はその皇統の正当さを主張するための歴史書であったことは、現代の常識となっている。聖徳太子の「十七条憲法」とは道徳的理想を説いているが、大臣大連という豪族の連合政権の時どれだけの価値を持ちえたのだろうか。大化の改新以後天皇権力は「大宝令」を発布して中央集権制の政治体制を敷くことになる。この「大宝令」、「養老令」という政治改革は土地人民の私有禁止、班田収授の法は国家社会主義に近いもので、民衆に男女を問わず5歳以上に口分田を給する。もちろん「調」、「庸」という租税や労働賦役がある。特権階級には「位田」、「功田」、「賜田」「食封」、官僚には「職田」を与える。この制度がどの程度実現されたか、その後急速に土地の私有化が進んだのはなぜかという疑問に対して、津田左右吉氏はこれを「一種の空想にすぎないこの共産主義的制度はそもそも長続きするものではなかった」といっている。ただ奈良時代の政治はこの社会主義制度を、中国の唐の中央集権的政治制度を見習って引き写したとしても、たしかに大宝・養老律法があったことは事実である。現実と理想の二重構造が平然として並存するところが日本人のいい加減さの特徴かもしれない。
(つづく)

読書ノート 舛添要一著 「舛添メモ」 少学館

2010年08月15日 | 書評
厚労官僚との闘い 752日 第5回

2) 医療改革 (1)
 
 2007年8月29日奈良県で「妊婦たらい回し事件」が起きて、11件目の受け入れ先の高槻市へ搬送の時、救急車が事故を起こして妊婦は流産した。この間3時間であった。医療は国民の安心の根幹であると舛添氏はいう。問題の根本は「医師不足」にある。病院勤務医の数はこの10年で14%ほど減少している。今日本の医師のそ総数は約26万人で、人口10万人あたりの医師の数は200人で、OECD加盟国の平均310人を下回っている。医師不足からいわゆる病院勤務医には過重労働となって病院をやめる医師が増え、高度医療の中枢である病院の「医療崩壊」となった。現場の医師の声はJMM編集 「現場からの医療改革レポート」に詳しいので参照してください。日本の医療問題の骨格が見えてきます。そして最近は新型インフルエンザ対応での厚労省医系技官の迷走振りと国内医薬品業界との癒着ぶりが良く見えます。医療改革の背景となる厚労省の伝統的政策と医師会、病院の現状などについて本書は紹介しているが、それは省略して、ここでは舛添大臣の医療改革について述べる。医師不足が始まったのは1997年橋本龍太郎内閣の時、財政構造改革の一環として「医学部の定員削減」を閣議決定した。舛添大臣は08年1月に医政局に指示して「安心と希望のビジョン委員会」を設置した。ところがこの医政局が曲者だった。医政局は医系技官の巣窟で「医療行政のトップは医師でなければならない」という思想が生まれ、事務官を排除して医系技官(医師免許を持っているが臨床経験が乏しいか全く無いいわゆるペーパードクター)で占めて、独善的、特権意識に引きずられ、国民の目線から乖離した政策が進められてきた諸悪の根源である。医師不足問題が表面化してからも、医政局は「問題は不足ではなく、地域や診療科の医師の偏在である」という屁理屈をこねていた。08年6月舛添大臣は「安心と希望の医療確保ビジョン」を発表し、97年の閣議決定を変更する医師を表明した。そして医師不足の解消は、福田内閣において「2008年骨太の方針」に明記された。6月27日骨太の方針が閣議決定されたので、97年の閣議決定は消え去った。
(つづく)

読書ノート 亀山郁夫著 「罪と罰ノート」 平凡社新書

2010年08月15日 | 書評
形而上学的殺人にドストエフスキーは救済を考えたのか 第13回

第3部 「ナポレオン主義 母殺し」 7月14日

 第3部と第4部は7月14日に起きた一連の出来事を記述する。第4部はその日の夕方から夜の出来事である。14日の朝、友人ラズミーヒンは母と娘の二人をラスコーリ二コフの下宿に案内する。その前に医師ゾシーモフがラスコーリ二コフを診察したが、パラノイア的な兆候があると言った。友人ラズミーヒンは母と娘を旅館に戻して、ラスコーリ二コフと話し合った。ラスコーリ二コフは時計と指輪を金貸し老女に質入したことを、予審判事ポルフィーリーに話すべきかどうか友人ラズミーヒンに相談した。二人は連れ添って警察にある予審判事ポルフィーリーのところへ出かけた。予審判事ポルフィーリーはラスコーリ二コフの論文「犯罪論」について言及した。彼は犯罪論にある「ある種の人間は法に触れることなく犯罪を犯す権利がある」と云う哲学を批判した。友人ラズミーヒンもラスコーリ二コフの選民思想には驚かされる。警察から帰った後ラスコーリ二コフは「人殺し」と名指しされる幻想や金貸し老女が生きている悪夢をみた。そこへアルカール・スヴィドリガイロフが訪問してくるところで第3部は終る。

 ドストエフスキーは謎かけに長じた作家である。謎めいた行動を示したあとに、その裏づけを行うという手法をとる。ラスコーリ二コフの「ナポレオン主義」は「罪と罰」の前年度に刊行されたナポレオン三世の「ジュリアス・シーザー伝」やカーライルの「フランス革命史」から大きな影響を受けている。人々を大きく二分法する。第1階層は選民である非凡人で、第2階層は凡人である。ラスコーリ二コフははたして無神論者かというと、そう簡単ではない。かれは「新しいエルサレム」を「社会主義者がその目的として希求する新しい生活秩序で、普遍的幸福が実現するはず」と考えている。予審判事のポルフィーリーは彼の思想に「空想主義的社会主義」の匂いをかぎつけるのである。永遠の革命を主張するアナーキズムの父プルードンに原型を求める事もできる。犯罪は環境から発生するという点では社会主義であり、個人が犯罪を犯すという点ではラスコーリ二コフは英雄主義・ナポレオン主義、悲劇性である。ラスコーリ二コフは「俺は老婆を殺したのじゃない。主義を殺したんだ」とつぶやく。ナポレオン主義の理屈に従って金貸し老女を殺し、偶然にリザヴェータを殺したラスコーリ二コフの行為は「母殺し」である。ラスコーリ二コフの復活の鍵を握るのは娼婦ソーニアの大地信仰である。リザヴェータとソーニアは十字架の交換によって肉体的にも結ばれている。ドストエフスキーは女性同士の一体性を執拗に模索している。ソーニャとアリョーナ、リザヴェータを通じて母なるものの殺害を暗示しているようだ。
(つづく)

月次自作漢詩 「銷夏舟行」

2010年08月15日 | 漢詩・自由詩
山接青霽溯碧流     山は青霽に接し 碧流を溯れば

白鴎飛立荻蘆洲     白鴎飛び立つ 荻蘆の洲

繋舟橋畔涼風起     舟を橋畔に繋げば 涼風起き
     
清夜波心新月浮     清夜波心に 新月浮かぶ

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(韻:十一尤 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

グスタフ・マーラー 「交響曲 第9番 、亡き子を忍ぶ歌、リュケルトの詩による歌曲」

2010年08月15日 | 音楽
グスタフ・マーラー 「交響曲 第9番 、亡き子を忍ぶ歌、リュケルトの詩による歌曲」(CD2枚組)
カラヤン指揮 ベルリンフィルハーモーニー管弦楽団
クリスタ・ルードビッヒ
ADD 1975 ドイチェ・グラモフォン

交響曲第9番は「死の恐怖」を描いたもので、比較的クラシック形式に則った交響曲である。低音の響きが凄まじい。亡き子を忍ぶ歌、リュッケルトの詩による歌曲は2つともリュッケルトの詩による1905年の作品。