世界の生態系は病んでいる、しかし生態系(エコシステム)ってよく分らない 第1回
エコという言葉であふれている。環境問題とは生態系を破壊する人間の行為によって発生したものである。自然に任せていては処理できないほどの汚染物質負荷を与える事、自然では分解できない物質を放出する事はわかりやすいエコである。しかし人間の開発行為による地球温暖化問題や生態系の破壊となると、その影響は事前に予知することは難しいし環境事前評価ほどいい加減な物はない。行政や開発者は過小評価し、被害者は過大評価するものである。要するに科学的に計算することは不可能であるということだ。なぜ難しいかというと、規模のおおきな生態系は掴みようがない事から来ている。要因が多くて、その相互関係もまだ定量化されていない。分からないと言った方が早いかもしれない。だから勝手なことを言っても真偽の確かめようがないのである。多変数関数の境界条件不定の連立方程式を解くようなもので、科学的解は見つからないのが普通である。そもそも「生態学」は大学では理学部の生物学科で研究されていた自然科学か人文科学か良く分からない分野であった。京都大学理学部の今西錦司氏らの活躍が有名であるが、魚の棲み分けや猿の社会学からはじまり、ついには京大人文科学研究所では文学部と同居して、梅棹忠夫氏らの「文明論」というスケールになった。もうこうなると人文科学である。自然科学ではない。地域に固有な観察記述学問(ルポ科学)でしかないという宿命を持っていた。したがって生態学が科学になるには特殊性から一般性を抽象する必要があり、かつ普遍性と再現可能性が要求される。しかし生態学には本来そのような特性があるとはいえない。実験ができないため、観察結果の見解は結果論であってその理由はいくらでも捏造?できるのである。一人が意見を言えば反対意見が百と出てくるのである。言葉の魔術を弄して、「この事はこう見るのだ」という天才的な見解(ダーウイン「種の起源」やドーキンス「利己的な遺伝子」などをさす)が支配する学問の世界であると私は理解している。だからというかしかしというか、生態学は全体的な(総合的な)面白い学問である。
エコという言葉であふれている。環境問題とは生態系を破壊する人間の行為によって発生したものである。自然に任せていては処理できないほどの汚染物質負荷を与える事、自然では分解できない物質を放出する事はわかりやすいエコである。しかし人間の開発行為による地球温暖化問題や生態系の破壊となると、その影響は事前に予知することは難しいし環境事前評価ほどいい加減な物はない。行政や開発者は過小評価し、被害者は過大評価するものである。要するに科学的に計算することは不可能であるということだ。なぜ難しいかというと、規模のおおきな生態系は掴みようがない事から来ている。要因が多くて、その相互関係もまだ定量化されていない。分からないと言った方が早いかもしれない。だから勝手なことを言っても真偽の確かめようがないのである。多変数関数の境界条件不定の連立方程式を解くようなもので、科学的解は見つからないのが普通である。そもそも「生態学」は大学では理学部の生物学科で研究されていた自然科学か人文科学か良く分からない分野であった。京都大学理学部の今西錦司氏らの活躍が有名であるが、魚の棲み分けや猿の社会学からはじまり、ついには京大人文科学研究所では文学部と同居して、梅棹忠夫氏らの「文明論」というスケールになった。もうこうなると人文科学である。自然科学ではない。地域に固有な観察記述学問(ルポ科学)でしかないという宿命を持っていた。したがって生態学が科学になるには特殊性から一般性を抽象する必要があり、かつ普遍性と再現可能性が要求される。しかし生態学には本来そのような特性があるとはいえない。実験ができないため、観察結果の見解は結果論であってその理由はいくらでも捏造?できるのである。一人が意見を言えば反対意見が百と出てくるのである。言葉の魔術を弄して、「この事はこう見るのだ」という天才的な見解(ダーウイン「種の起源」やドーキンス「利己的な遺伝子」などをさす)が支配する学問の世界であると私は理解している。だからというかしかしというか、生態学は全体的な(総合的な)面白い学問である。