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<北朝鮮による 日本人拉致 超リアル ルポ>「前篇」飯塚繁雄の、隠された素顔。そして、 実は、曽我ひとみの実母は、あの時、死んでます

2022-03-12 22:12:49 | ニュース

 ≪ 2014・9・24 掲載記事 ≫

 ≪ 2016・9・30 再掲載 ≫

 ≪ 2019・6・30 追記掲載 ≫

 これ以上、あいまいにしておいても、仕方ないと思い、思い切って書きます。

 今年8月頃から、舞台裏では、北朝鮮政府がキチンと正式な確約言明もしていないのに、「日本人拉致被害者の、再調査報告書」が、この9月上旬にも日本に伝えられるはず・・・という、極めてあやふやな情報に、関係者や、当事者たちや、マスコミが連日振り回されてきた。

 両国が、というより、日本の無能官僚が、勝手に都合良く誤解したのは、次なる言い回し。

 <夏の終わりか、秋の始めに報告が出来るようになれれば、望ましい

 その言葉すら、北朝鮮から指命を帯びて交渉の席に着いた者が、自ら言ったとは、とても考えにくい。日本側が、そう言った言葉に、北朝鮮が頷いたとは、とてもとても、この20年余のていたらく振りを想うと、考えにくい。

 それが、すでに9月中旬を過ぎ、すぐ下旬。やがて、10月にずれ込んで・・・か。

 と、思っていたら、9月19日。日本側が照会を求めたところ、昨日までに、こんな回答があったそうな。

 <特別調査委員会は、すべての日本人に関する調査を、誠実に進めている。調査は、全体で1年程度を目標としており、現在は初期段階にある。現段階では、この段階を越えた説明を行なうことは、出来ない

 なめられっぱなしの、日本。

 デタラメほざいていた、ニッポン政府。

 この、上記の文言さえ、北朝鮮のソン・イルホによれば、違うらしい。「日本側に、真意をただしたい!」と、息まいていて、怒り顔。

 どっちが、どう、都合の良い、ウソを言ってるのやら。それとも、どっちも、狸のだまし合いの如く、自分たちのでっち上げたねつ造言葉をぶち上げているのかも。さながら、魑魅魍魎・・・・。

 置き去りにされ、打ち捨てられているのは、いまだ還らぬ拉致被害者と、日本にいる、その家族だ。

 それにしても、やっぱり、「秋の始め」なんて、飽きが来たウソだったか!

 いい加減にしろよ、てめえら!秋の始め? ウソ八百並べやがって! 何度、だませば、気が済むんだ! わしの堪忍袋は、もう切れたぞ!! 晋三、えり子。このヤロー! これからも、一日千秋の想いで、待ちわびる、わしら被害者家族を、口先でだまくらかしていくつもりなのかよ!?

 ふざけんなよ! 無能政治屋!少しは、本気になって、この問題に取り組んでみろよ!馬鹿野郎!!!!

 ・・・・・なんてこたあ、じゃがいも顔の、飯塚繁雄は、腐っても言わない。腹ん中に、例え、有っても言わない。そんな性格じゃない。

 ひたすら、オカミにすがるだけ。

 代表になって、自分が、偉いヒトになったかのように、勘違いしてしまい、すっかり、ふんぞり返っている。

 自分で、調べない、動かない。

 2重スパイの、蓮池薫に、聴きもしない。

 今まで、何度も何度も、口先三寸でだまされてきて、馬鹿でも分かる学習を重ねてきたのに、じゃがいも顔は、言わない。家族会も、面と向かって、言わない。

 交渉する世界中の相手国に、必ず最初から”お土産”を手に持って行く「害務省」のお役人が、やってること。交渉能力皆無。期待なんぞ、しない方が良いのに・・・・。

 我々がやっとの思いで支払っている「酷税」を、湯水の如く、ばらまきまくる。

 23日も、安倍晋三は、コロンビア大学へ、8万ドルをプレゼント。また、岸田外務大臣も、エボラ出血熱大量死に対して、5億円を緊急支援。今後も、さらに追加支援をするつもりと、伝えられている。

 官僚の言われるまま。ただの無能ロボット、あやつり人形。

 日本国民1人当たり900万円弱の借金抱えている計算になるのに、外国へ出かけて行っては、大金ばらまいてる馬鹿晋三筆頭の大臣ら。

 今日もいまだに仮設住宅で辛い思いしている三陸沖大津波の被災者にばらまくなら、まだしも・・・・・。

 自分のカネじゃないから、いつも、大盤振る舞い。もしこれが、安倍晋三。自分のカネだったら、出すか!? おう? こら!

 カミさんと、これ見よがしに、お手てつないで、今日も、国民の税金ばらまき外遊。

 世耕弘成(せこう・ひろしげ)が、チームを作って、番記者に向けての安倍のイメージ戦略を中心に、見事に、手足と、クチをあやつりまくり、安倍の背後で、よしよしと、うなづいている。

 キャッチ・フレーズ政治に、すぐ喰いつく、お馬鹿政治部記者連中。

 なのに、「家族会 代表」の飯塚繁雄は、代表就任前から、コロコロ変わりゆく、時の政府権力者にすり寄る性格がのぞいていた。

 そして、こう、平然と、胸そりかえして、言ってのけたこともあった。

 「私はねえ。名刺を持っていないヒトはねえ、信用しないことにしているんだ」

 たまたま、この男にコメント求めた時に、名刺切らしていたのだが、その時、飯塚自身は名刺持っていなかったし、その後、自ら出しもしなかった。

 代表になるや、横田夫妻並みに、ことあるごとにマスコミに囲まれ、政府関係者に儀礼的にアタマを下げられ、歴代ソーリに会っていくうちに、まるで自分自身が偉くなったかのように、日ごとに勘違い。

 その姿には、あきれ果て、閉口するしかなかった。

 自分こそが「代表」なのに、その性格ゆえに、マスコミは飯塚繁雄を嫌い、すぐ、ハナシ、聴きやすい、元代表の、横田夫妻に聞きに行く、

 いつも、いつも無視されて・・・・

 飯塚、終始、ムスッとしていた

 自分の尊大な、悪しき性格が、マスコミ全員を、そうさせてしまったということを、気付きもせずに・・・・・

 政府・お代官様にお頼み申し上げまする性格は、あのじゃがいも顔を見るたびに、嫌になるほど、痛感してきた。この先、運動と拉致被害者帰還は、飯塚の力量では、進展は難しい。

 冒頭の北朝鮮のコメントが透けて見えたはずなのに、この9月13日(土)には、日比谷公会堂で、「国民大集会」を、関係者・支援者・聴衆、計1800人(公称)を集めて開かれた。

 よりにもよって、飯塚らしく、と言うべきか。安倍晋三だけでなく、確かに担当大臣になっちゃったけれど、山谷えり子まで平気で列席させちゃった。

 山谷。その思想は、昔から極めて右寄り。ましてや、北朝鮮とは、100どころか、150%相容れない,お考えの持ち主。あわてて釈明したけれど、な~に言ってんだか。「在特会」とは、すでに親しいご関係。

 この先、どう転んでも、一番、北朝鮮に難癖付けられやすいお人。

 それを、拉致被害者担当大臣に抜擢する愚かな晋三。

 よりにもよって、山谷とは! 9月4日、夕方。政治屋として無能以前に、まさに不適任な人間を選んだことに、びっくらこいた!

 いくらなんでも、あんばい(安倍)悪い!

 興味のある方は、彼女の政治屋に成りあがる前からの、講演、主張、言動などを読み進めると良い。それが、良く分かるから。

 Dscf8037 (ニュース映像より)

 さて、その席上では、「早期解決を!」と叫ぶ一方で、「中途半端な結果なら、いらない」と言う声も聞かれた。

 「結果」なんて、出すわけも無いのに・・・・・。何年にもわたって「学習」してない面々。独自に、動きにくいのは、分からなくもないが。

 カネにデタラメで、公私にわたってズサンな、アントニオ猪木に事情を聴く手もあるのだが,おそらくアタックもしていないはず。

 そして、曽我ひとみ(写真上)は、テロップ表示通り「もう時間がありません」と、支援者と聴衆に訴えた。

 後を追うように、娘2人や夫が、「帰国」してからでも、すでに丸10年が過ぎ去った。

 すでに、55歳ものトシを数えるまでになった、曽我ひとみ。母のミヨシが、他界させられた年齢から、9歳も重ねた。

 母・ミヨシが、娘(長女)の自分とともに、新潟県の佐渡島(佐渡ヶ島と表記されることが多い)真野町(まのまち)の海岸から、北朝鮮の実行犯たち4人によって強引に小舟に連れ込まれ、北朝鮮に向けて小舟を日本海をひた走らせて、途中で大きな舟に乗り換えさせられ、拉致されたのは、彼女がまだ19歳の時。当時、彼女は看護学校生。母のミヨシは、46歳(当時)。

 時は、昭和53年8月12日。週末の、土曜日。暗くなりかかった夏の午後7時。今から36年前の事件であった。

 そんな「事件」があったと知ったのは、国民的気運が盛り上がった2000年の数年前。

 20年余りの時が、すでに流れ去っていた。

 そして、蓮池夫妻地村夫妻とともに、曽我ひとみが、「帰国」を果たしたのが、2002年10月(写真下。最上段)。

Dscf8107 ピンボケ写真で申し訳無いが,12年後の今と、すっかり風貌が変わったことは、お分かりになるだろう。

 Dscf8105 左の写真の、一番左側が、拉致された当時の、彼女の顔。中央が、帰国直後。

  帰国後の彼女は、見た目でもすぐわかった、歯並びの悪さの治療と矯正を果たしている。     

 実は、ひどいことを書くなあと、思われることを覚悟の上で書きますが、北朝鮮による拉致被害者とされる、曽我ミヨシは、すでに死亡して、この世におりません。

 その動かしがたい事実は、曽我ひとみ自身が,実はうすうす知っているはず

 その大要を知ったのは、彼女、曽我ひとみや、当時、日本の情報を探れという「スパイ」としての命を北朝鮮政府から受けて、自分のかつての母国に還って来た男などが帰国した直後の12年前。

 日本中と、マスコミが湧きかえっていた時。

 他の4人は、日本にいたときから、恋人関係だった者同士。

 一方の曽我ひとみだけは、母との帰還かなわず。そのうえ、詳細な拉致の状況は、分からず。

 それ、実は12年後の今に至るも、よく分かっていない。「救う会」も、「家族会」さえも。少なくとも、断片的には聞いているが、公的には、秘匿、秘匿。

 というより、気を遣って、突っ込んで聞いていない。そのまま、時だけは、いたずらに過ぎた。

 2年前になって、ようやく、断片的に曽我ひとみ自身が、母ミヨシを救い出す意図の会合の席で、西岡力(つとむ)に聞かれて話し始めた。しかし、点と線が、きれいにつながらない。

 まだまだ、その具体的内容にも、首を傾げざるを得ない。

 その内容は、のちに書く。

 今を去ること、12年前。帰国するなり、すぐさま滞在先の、今は無き「赤坂プリンスホテル」で、その詳細を5人に供述させたのは、実は日本の公安警察の担当者たち。

 5人の警護を装いながら、詳細に聞きまくっていた。いわゆる、最終的に秘匿する目的の「情報収集」ってやつ。

 そのデータを、隠したまま、なんと当事者と言って良い「家族会」にも、拉致被害者の実情や現状を調べていた特定失踪者問題調査関係者にすら、一切、教えていない。

 関係者の、あまりの「気遣い」過ぎには、当時現場にいて、少々あきれた。

 ならばと、「先生」と呼ばれていたスパイと目された夫と妻のホテルでの食事を待って、直撃しようとしたら、その階のエレベーター前に、公安とおぼしき背広組が目を光らしていた。

 夫婦は出てきたが、声を掛けてもシカト・無言。近づこうとした途端、背広組が手こそ出さないものの、立ちはだかり、ぶ厚い壁に。

 それは、もう1組の夫婦。そして、単身帰国の曽我ひとみも、同様。

 大宴会場で開かれた記者会見でも、肝心な、そのことは話さず、短く話し、すぐ一挙に消えた。

 疲れていますから、という気遣いで。

 その後、それぞれが、故郷に戻り、完全自由の身になったかといえば、違う。

 現地へ飛んで、インタビューや、独自コメントを取ろうとした記者たちに聞くと、「ダメだあ。外出すると、公安とおぼしき人間たちが、張り付いていて、玄関にさえ行けないよお。地元の制服(警官)もいるし」

 今に至るも、その2年後に帰国した「家族」さえも、異常とも言うべき「特別」な扱い。

 やがて、拉致の詳細手口や、北朝鮮での暮らしぶりさえ、断片的にだけ、まるで「お下げ渡し」のように、許可を得た者しか、知ることが出来なくなってしまっている。

 なんとも、おかしな「厳状」。

 「帰国」「帰還」以来、、我々の税金から、「生活給付金」が曽我家には毎月、支払われている。

 それが、来年3月末で切れる予定だが、ひとみは、生活不安を政府に訴えている。加えて、のちに書くが、夫のジェンキンスの介護のおカネも必要だと言う。

 それにしても、あの横田夫妻ですら、孫娘とめぐみの夫と自称する親子とおぼしき2人と面談した内容の「全容」を話さないまま、クチを閉ざす始末。むろん、会話は、すべて盗聴されていた。かといえ、断片的に小出しにされてもなあ・・・・・。

 ある一時期。北朝鮮は、横田夫妻がこちらに来て住む覚悟があるのならば、めぐみに会わせ、一緒に暮らせなくもない・・・・という条件を水面下で、ひそかに提示してきたことがあった。

 迷った末、火中の栗を拾う覚悟を決めた夫妻。残り少ない命。めぐみ探しに人生の半分を駆け抜けてきた。まさか、北朝鮮。私たちを殺しはしないだろう、と。

 だが、それでは敵の策謀に乗ることになるではないか?という反対意見に加え、家族会の「顔」と言うべき存在がいなくなるのは、会の存続にも影響してしまう。個人として、親としての気持ちは、よく理解出来るけど・・・思いとどまって欲しいなどなど、意見、本音、相次ぎ・・・・結局、そのハナシは、やがて立ち消えとなった。

 もし、もしも、行っていたら・・・・・その方が、横田夫妻にとっては博奕ではあったが、幸せではなかったのではないだろうか・・・・・

 帰還前からの、内紛、意見の違い、方針の違い、左右の思想の違い、金銭を巡る問題などなど、取材を続けながら、見聞きしてきた。

 本音で、且つ、正直に話して下さる家族もいたし。

 そして・・・・・・・・。

 5人の喜びの帰還後、それまで会議にも記者会見にも出席していた蓮池、奥土、地村、濱本、4人の親族たちが、たちまち、1人欠け、2人欠けし、ついには、マスメディアに多く登場していた蓮池透(当時・東京電力 柏崎原発地元民土地購入買収担当)までもが、欠席。

 喜びと共に、安堵する家族。一方で、激しく落胆する家族。2分された。

 悲喜こもごも、渦巻くなか、裏で、方針や意見の食い違いがあったとはいえ、4家とも、次第に顔すら出さなくなった。

 なんともはや、ゲンキンなもん。

 自分たちの家族・兄妹・我が子さえ帰ってくりゃ、あとは知~らない。行く必要、無いもんね。サヨナラ、さよなら、バイバイ・・・・か・・・・・・。

 現在は、わずかに、濱本家からたった1人、濱本七郎が、この9月13日の集会に参列したのみ。

 実は、七郎だけが、家族会の役員として、名前が残っているためというのが、その背景にある。だから、出席。

 確かに、4家にとって、この20年以上に渡って行方不明の、あてども無い捜索活動は、大変なご苦労があったと思う。

 福井、新潟、両県警は、まったく動いてくれなかった。そんな状況のなか、自力で呼びかけ続けた。

 ごく普通の家庭。裕福とは、ほど遠い。

 東京に出向く旅費、宿泊費は、各自、自腹。都営地下鉄の駅から、めちゃ近い徒歩30秒の宿舎。

 雨の日は、傘無しでも、助かった

 会議室があった建物の上階にある、元々安い設定の宿泊費の部屋に泊まっていたが、それでも夫婦で行くと成ると、毎回10万円近い出費。

 毎月。それが、数年間。

 怪しい売名行為団体やら、有象無象の輩が、寄付を申し出て来ていた。

 交通費や、宿泊費に加え、当時、特定失踪者の、さらなる調査費用も必要ではあったが、すべてキッパリと断っていた。会は、身ぎれい、この上なかった。

 それでも、ブルーの端切れを渡して、カネをもらう、会が認めてもいない、街頭募金詐欺が相次ぎ、私も奴らを徹底的に追い詰め、当時、記事化した。

 だが、家族会などは、刑事告訴などには、動かないまま。なんともはや、鷹揚、寛容・・・・。

 家族会、連絡会など、私的団体の財政は、いずれも潤沢とはほど遠く、自腹はやむおえなかった。

 だから、もう行く、通う必要が無い。目的は遂げたのだから、と考えても仕方が無かったのかも知れないが・・・・。どこか、やりきれない想いが残った。

  さらに突っ込んだ裏話を書くつもりはない。

 家族会、連絡会の運営資金は、今でこそ潤沢。1個500円で、ブルーバッジも販売。3年半過ぎたが、三陸沖超津波による未曾有の東北太平洋沖の震災に対しても、320万円の支援が出来るまでになった。

 さて、焦点は、佐渡ヶ島の、曽我ひとみと、母だ。

 時計を12年前に巻き戻す。

 先ほど、蓮池家など、4人の家族のことを書いたが、実は、曽我家からは、一度も出席を果たしていない。

 たった1度、ひとみが帰国時、妹、富美子が来ていた記憶もおぼろげながら有るが、その前後数年、来れないのではなく、来ない。そう、想った。ましてや、父・曽我茂(しげる)は、ただの1度も参加せぬまま。

 それは、「事件」に関わる背景が、絡む。

 5人の帰国時。取材を続けながら、新潟県から来た、地元の記者に思わぬことを聞いた。

 「実はですねえ、こっちも書けない、報じることはしずらいままなんですが、佐渡ヶ島の曽我さんね。拉致された時の、いきさつ。何か、知ってます?」

 「いえ、さほどは・・・・」

 そう答えるしかなかった。

 ただ、ああ、あの佐渡ヶ島の海岸線の道路、舗道の暗がりでは、暗闇に潜む人影は、まったく気付かれないだろうなあ、ということは、実感として、分かっていた。

 ましてや、バッと後ろから飛びかかられて、目とクチにガムテープを巻かれ、アタマからすっぽりとすぐさま大きな袋をかぶせられたら、テープをはずせたところで、叫べど、泣こうが、パラパラとしか点在していない家の周囲には、声も音も聞こえないだろうなあ。

 それは、実感として、理解出来ていた。

 というのも、実は、「事件」のあった昭和53年前後。私は、1週間ほどかけて、佐渡ヶ島をのんびりと一人旅をしていた。

 それも、外海府、内海府、島の周囲の海岸線を旅していた。

 カタカナのエというか、英語のZというか、そういうカタチをした島の、韓国・北朝鮮寄りと、真反対側の新潟県寄りの海岸線は、カタチも波の荒さも、海の色も、まったく違う。

 むろん、中間に位置する真野町も訪ね歩き、泊まった。

 小さな神社の、のどかな秋祭りも見た。

 にぎやかなのは、大型フェリーの乗降場と、観光土産物店だけ。それすら、夕方以降は、ひっそり。店という店は閉めてしまう。

 ましてや、薄暗いなか、「買い物に母子して連れだって行ったときに、拉致された」という、曽我ひとみの証言には、ハナっから、疑問を感じていた

 というのも、民宿や、ホテル、ユース・ホステルに泊まり歩いていた時、夜、何かジュースやお菓子でも買いにと、海岸線の幹線道路にでたら、当時、ロクに街灯も無く、どこもかしこも真っ暗。

 そのうえ、店がどこに行っても明かりも消し、閉まっていたのに、驚いたという、強烈な記憶が残っていた。

 もう、昼間のうちに、飲み物、食べ物、買い込んで宿へ行かなければ大変な想いをするな、と思ったほど。

 夜、明かりと言えば、時折り、忘れた頃に脇を走り去る車のヘッドライトだけ。ましてや、海岸近くともなると、潮騒の波の音こそ聞こえるものの、どこが砂浜で、どこからが海か、どこが崖か、うっすらと、月明かりでしか分からなかった。

 そんな佐渡ヶ島の海岸近くを、なんで、それも店が閉まりかけの時刻に「買い物」に行ったのだろうか?

 それも、母子2人して・・・・・。

<前篇終了>