今夜のファミリーヒストリー「角野卓造~夢と信念に生きた家族たち~」を観た。
それなりに興味深かったものを観せられた。
私は20歳のときに役者に憧れて、その勉強をしようとした。
そのときに私はどういう道をたどったら演劇界で生きられるか知らなかった。
私は、いくつかの素人の演劇グループに入った。
私は26歳まで7・8回、いくつかの劇団で演じた。
それらの劇団の経験で、私は演劇から離れてしまった。
角野卓造という役者が好きです。
今夜のファミリーヒストリー「角野卓造~夢と信念に生きた家族たち~」を観た。
それなりに興味深かったものを観せられた。
私は20歳のときに役者に憧れて、その勉強をしようとした。
そのときに私はどういう道をたどったら演劇界で生きられるか知らなかった。
私は、いくつかの素人の演劇グループに入った。
私は26歳まで7・8回、いくつかの劇団で演じた。
それらの劇団の経験で、私は演劇から離れてしまった。
角野卓造という役者が好きです。
友人からメールが来た。
演劇集団水無月が8月9日に佐久市で公演するという。
私は、すげぇなと思った。
私は20代の前半のときに大宮(今のさいたま市)で演劇をしていた。
4・5回舞台には出ていたと思う。
26歳で結婚してから、演劇から離れてしまった。
そのあと大宮に演劇集団水無月が生まれた。
私が一緒に演劇をしていた友人たちがその劇団を作ったのです。
大宮の倉庫を借りてそこに稽古場を作った。
そこが演劇集団水無月の公演活動の場となった。
私は、水無月稽古場で公演があるたびに、そのとき住んでいた所沢から観に行った。
芝居が終わってから稽古場で飲み会になり、そこに泊まって飲みあかした。
多くの若者が演劇集団水無月で芝居をし、スタッフになり、演劇を学んだ。
多くの人間関係が生まれ、その中で結婚をした男女もいた。
私が50代の中頃、演劇集団水無月を主宰していた友人が、佐久市で仕事をするようになった。
それから演劇集団水無月の公演活動の場が、佐久市が主になった。
2009年、私も友人に誘われ佐久市の施設で仕事をするようになった。
私がその施設を2016年に辞めて埼玉で暮らすようになってからも、
演劇集団水無月は佐久市で公演をしていたと思う。
私は2020年に膀胱がんになり、その治療のために水無月の公演に行けなくなった。
友人のメールでは、今年で演劇集団水無月の公演は最後になるだろう、と書いてあった。
私は、なんとしてもこの公演を観に行きたいと思った。
しかし、現在勤務している職場の勤務の日と重なる。
なんとか職場の人間と勤務日を調整して水無月の芝居を観たいと思う。
今日も鳩山町は暑かった。
39.6℃とテレビに映っていた。
庭の〝畑〟には、ミニトマトとゴーヤが実っていた。
ゴーヤはまだ小さかったがつるの近くが黄色くなっていた。
こうなると実の全体が黄色くなってしまうので、小さいけれど収穫した。
鳩山町のこのほぼ毎日日本一の気温が、植物にも影響を与えていると思う。
佐久市で咲いていたヘブンリーブルーの花が、鳩山の暑さ?で小さくなった。
そのタネをまいて育てても今年は、花も咲かなくなってしまった。
私の住む鳩山町は、これからどうなるのだろう?
今夜、「news23」を観たら、野田秀樹と高橋一生がインタビューを受けていた。
現在公演中の #NODA・MAP 新作舞台「兎、波を走る」の話をしていた。
私が22・3歳の頃、東大生協駒場店で働いていたときに、
仕事が終わってから野田秀樹が公演していた芝居を観たことがあった。
駒場キャンパスの野外でやっていた舞台で、たしか唐十郎の書いた芝居だった。
私は、野田秀樹の演技にものすごい気迫を感じた。
あのとき彼は、東大の学生だった。
まだ「劇団夢の遊眠社」はつくっていなかったと思う。
その頃私も、素人の劇団で芝居をしていた。
今朝の6時40分ぐらいからのサタデーエッセイ(NHKラジオ第一)は仲代達矢だった。
(「サタデーエッセイ仲代達矢」という九想話は、今回で2回目になります)
「無名塾2021~2022 仲代達矢役者七十周年記念作品『左の腕』」の公演が終わった。
全国公演中、仲代達矢が89歳の誕生日を迎えたといっていた。
コロナ禍なので1人で誕生日を迎えたそうです。
89歳ですか、すごいですね。
私は69歳です。
私は、がんを煩っているのであと数年しか生きられないと思う。
仲代達矢の強靱な身体が羨ましいです。
私は、20代の頃から仲代達矢が好きでした。
映画で彼を知り、舞台も観に行った。
2009年には、能登演劇堂まで無名塾の「マクベス」公演を観に行った。
(2009年10月21日九想話 無名塾の「マクベス」)
素晴らしかったです。
サタデーエッセイの最後に、ウクライナの戦争のことを話した。
戦争が早く終わってほしいといっていた。
今の私も、願うことはそれだけです。
劇団をやめない、と決めたものの私は辛かった。
なにしろ茨城の訛りはそう簡単に直せない。
芝居の稽古中は、しょっちゅう茨城訛りでK坂さんに怒鳴られていた。
それでも月日は進み、10月の公演の日がきた。
土曜日、喫茶店が閉店してから、劇団全員で喫茶店の中を劇場に変えた。
たしか午後10時だったかな、イスやテーブルなどを外の所定の場所に置いて、
用意しておいた芝居の小道具・大道具を手早く喫茶店の中に入れた。
みんなでワイワイガヤガヤと楽しかった。
少なくとも私は芝居をやっているより、舞台作りが面白かった。
芝居の公演時間は、午後1時からと、夜6時からの2回だった。
上演時間の短い「最後の金時計」が先で、「バーサよりよろしく」が最後だった。
私は午後1時からの公演に、昔同じアパートにいて、
そのときは横浜に住んでた友人夫婦を招待していた。
その最初の芝居で、私と共演する劇団最高齢のMさんが大失敗をした。
「最後の金時計」のクライマックスは、年老いた営業マンが、
昔の業績のよさで社長からいただいた金時計を若い営業マンに見せる場面だった。
ところが、Mさんがあるセリフをいい忘れて、そのシーンが吹っ飛んでしまった。
私がなんとかとっさにアドリブで芝居をつないだが、
なんともしまらない舞台になってしまった。
なにしろ「最後の金時計」という芝居で、
その金時計を出せずに芝居が終わってしまったのだ。
観ているお客さんは、芝居の意味がわからないだろうと思う。
それでも友人夫婦は「キューちゃん、よかったよ」といって帰っていった。
夜の公演では、Mさんは台本どうり演じてくれた。
どっちが新人なんだかな?
私は、その公演が終わってから正式に中野Kを退団した。
私はもう芝居はやらない、と決めたのに、そのあと、
埼玉の大宮の友人たちと5回ぐらい芝居をやった。
26歳で結婚した私は、そのあと1度も舞台には立ってない。
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7月の九想話
7/1 喉が痛くてツライ
7/4 若いと思っていたのに
7/7 夏風邪その後
7/8 風邪と体重
7/9 風邪と酒
7/10 日々平和
7/11 ブログ開設から5000日
7/11 「100点満点の1000点」はやぶさ2号
7/12 ヘブンリーブルーが咲いた
7/13 ツバメさん、待ってます
7/14 久しぶりに、ドラムをたたく
7/15 冷蔵庫を買う
7/17 ペシミスティック
7/17 いんげん
7/17 グリーンカーテン
7/18 電気工事の日
7/20 宮迫博之さんと田村亮さんが会見で謝罪
7/21 今日のヘブンリーブルー
7/21 スチームオーブンレンジ
7/21 ジャガイモを掘る
7/25 タワラヨーデルポテトサラダ
7/25 バナナケーキ
7/25 この梅雨
7/26 演劇をしていた頃-1
7/27 演劇をしていた頃-2
7/28 孫が来た2019夏
7/29 演劇をしていた頃-3
7/30 演劇をしていた頃-4
7/31 演劇をしていた頃-5
劇団中野Kをやめるつもりだと、劇団で一番仲の良かったK塚に話した。
彼は、もう1つの芝居「バーサよりよろしく」の
セントルイスの娼婦バーサの恋人を演じていた。
背は高く頭は天然パーマでカッコよくて、声がよく通った。
彼がバーサの恋人ということには、まったく違和感がなかった。
それに比べて私は“アメリカの茨城人”だった。
「キューさん、そんなこといわないで公演まで一緒にやろうよ」
私は、劇団では“キューさん”と呼ばれていた。
そりゃせっかく役も与えられたんだから、本番までやりたい気持ちはあった。
しかし、稽古のときにいつも演出のK坂さんに怒鳴られていては、
芝居をすること以前に、生きていることが厭になっていた。
他の団員からも「やめないで」といわれた。
10月公演なのに9月で私がやめては、
公演そのものが出来なくなるかも知れない、という話もあった。
そんなことになっては他の劇団員に申し訳ない、と思った。
それで私は、“恥を忍んで”続けることにした。
私の心の中で“アメリカの茨城人”でもいいんじゃないか、と居直る気持ちも出てきた。
アメリカドラマの黒人の吹き替えなど、田舎の言葉で喋るものがあった。
公演までできるだけ茨城弁にはならないようにしようとがんばってみるが、
茨城訛りが出てしまったらそれはそれでいいんじゃないか、と私は考えた。
何が何でも芝居の公演までは劇団をやめないで続けようと覚悟を決めた。
-つづく-
私がやる「最後の金時計」という芝居の相手役の老営業マンは、
劇団の最年長のMさん(40歳ぐらいだったかな)だった。
演劇歴は長く、過去にヨーロッパのある国で芝居をやったこともある人だと教えられた。
私はそのことだけでも気後れしてしまった。
その芝居には、最後のほうでレストランのウエイターが出るのだが、
セリフも少ししかないので、稽古には参加しないで、Mさんと私だけでやった。
30分ほどの芝居なのですが、2人だけなのでセリフが多かった。
私はまず、全部のセリフを覚えられるかな、と不安だった。
でも稽古をして、家や電車の中で台本を読んでいるとセリフはなんとか覚えられた。
芝居の稽古をしていてなんといっても辛かったのは、私の“茨城訛り”だった。
茨城の人間の話し方の一番の特徴は、語尾が上がることです。
私がどんなに気をつけてセリフを言っても、茨城のイントネーションと訛りが出てしまった。
演出のK坂さんに、演技のことよりもいつも茨城訛りのことを注意された。
「茨城訛りのアメリカ人なんていねぇだろう!!」
いつも芝居の稽古中には、k坂さんに怒鳴られていた。
それまでの暮らしで、あんなに他人から怒鳴られることはなかった。
人間やめたくなった。
緊張すればするほど、茨城弁になった。
週に2回の稽古が9月から3回になった。
9月に入り、私は芝居をやめようと決意した。
芝居の公演は10月だった。 -つづく-
今朝のNHKラジオの「サタデーエッセイ」は、仲代達矢(84歳)だった。
毎年、ニューヨークに行っていて、
今年も時間が空いたので行ってきて、芝居を10本観た。
マーティン・スコセッシ監督(だったと思う)と会って1時間ほど話したという。
今年は、10月から「肝っ玉おっ母とその子どもたち」(ブレヒト作)の芝居をやる。
この芝居は、21年前に亡くなった仲代の妻宮崎恭子の演出で過去に上演した。
そのときの膨大な演出メモが残っていて、それで今回の芝居はやるそうだ。
初めてこの芝居をやったときは55歳で、初めての女役だった。
仲代は、今80歳を過ぎているが、
こんどの「肝っ玉おっ母」を70代の感じでやれればいい」といっていた。
彼からいわせると、60代は青年期だという。
65歳の私は、その言葉を聴いて、身が引き締まる感じになった。
私はいつも「もうおれは65歳だ~、前期高齢者なんだ」と落ち込んでいる。
80代の仲代達矢ががんばっていたら、私だってがんばらなければ、と思った。
この芝居が最後になるんではないかという。
「肝っ玉おっ母とその子どもたち」を観てみたい。