新所沢の花見2024

2024年04月01日 | 友人




3月30日(土)は、私がむかし住んでいた新所沢の友人たちとの花見だった。
この連絡を受けた3月の上旬のときは、ちょうど花の見ごろかな?と、思っていた。
ところが今年の3月は雨が降ったりして寒い日が続いた。
東京の桜の開花も遅かった。
新所沢の中央公園の桜は、この程度しか咲いていなかった。

12時半からという予定でしたが、私は12時前に花見のところに着いた。
参加者は7名です。
20年ほど前に、楽屋という飲み屋で知り合った飲み友だちです。
2001年04月05日九想話「らくやの花見」を見て下さい。
私が初めて、花見に参加したときのことが書いてあります。
このときはかなりの人が参加した。
あのとき私は48歳だった。
みんな元気だった。
楽屋のマスターとママは、がんで他界してしまった。
客で来ていた人も、何人かが亡くなっている。
その日に来ていた1人は肺がん、2人が膀胱がん、
去年は来たが今年は来られない人が肝臓がんということだ。
その日に来ていた5人が70歳をこえていた。

花見で桜はほとんど咲いていなかったのですが、
友人たちと話していて楽しくて私は飲み過ぎてしまった。
私だけが飲むための日本酒が用意してあったのです。
その上にウイスキーも飲んでしまった。
ケーナも吹きました。
夕方になり公園から友人宅へと移動した。
夜まで飲みました。
最近こんなに飲んだことはありません。
楽しかったです。
友人がいることがありがたかった。
来年も花見ができるといいです。
そのときは、あまり飲み過ぎないようにします。

2023年03月27日九想話「令和5年のシントコの花見
去年は3月27日に桜が満開でした。
ところが雨で、桜の下では花見ができなかった。
2022年は、コロナで花見というものがやれなかった。

それなりに動画を撮ったのですが、やはり今の私には、
顔のぼかしをすることができないのでYouTubeへのアップは断念しました。

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龍彦の亡くなった日

2023年12月08日 | 友人

今日12月8日は、真珠湾攻撃の日・ジョン・レノンの亡くなった日ですが、
私にとっては、龍彦の亡くなった日です。
1975年12月8日に、備前焼の備前市の病院で23歳で亡くなった。
2020年12月08日九想話「龍彦の写真
2022年12月08日九想話「龍彦が死んだ日
今日は、龍彦のことを偲んで過ごしている。

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花火の思い出

2023年07月30日 | 友人

4年ぶりの隅田川花火大会 観客は過去最多100万人超
(テレビ朝日)

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/tvasahinews/nation/tvasahinews-000309446


昨夜、隅田川花火大会がありましたね。
今日のニュースでいろいろ取り上げられていました。
花火は見たいけど、うちからは遠くて見に行くのはムリです。

昔、軽井沢に住んでいたときに所沢の友人たちが遊びに来た。
その日の夜がちょうど長倉神社の花火大会だった。
隅田川花火大会とは比べものにならないかも知れないが、いい花火大会でした。
あのような夜を友人たちと過ごせたのは幸せでした。

2016年07月18日九想話「所沢から軽井沢

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令和5年のシントコの花見

2023年03月27日 | 友人

昨日は、新所沢での花見の日でした。
なのに朝から日本中に雨が降っていた。
朝、友人から電話があった。
「雨なので**さんの家でやるよ」
ということなので、私は10時半に家を出た。
11時45分に新所沢駅に着いた。
私は、1985年から2009年まで新所沢に住んでいた。
シントコで暮らしていたときによく行っていたパルコが、
来年2月で閉店するというので行ってみた。
驚いたのは、2階の多くの売り場を占めていたユニクロがなくなっていた。
新所沢にパルコがなくなるということは、街がさびしくなると思う。

**さんの家に行く前に中央公園に行ってみた。
雨でなかったら、そこで花見をやっていたところです。

桜は咲いていた。
この桜の下で花見をしたかった。
**さんの家に行くとみんながいた。
料理はそれぞれが昨日から準備して、持ってきてくれたそうです。
酒を飲み、いろんな話をして、楽しい時間を過ごした。
昨年は、コロナ禍のために花見を中止した。
来年は、どのような花見になるのだろう?

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龍彦が死んだ日

2022年12月08日 | 友人

12月8日は、1975年に龍彦が23歳で死んだ日です。
多くの人は、12月8日はジョン・レノンの命日だと思うでしょう。

その年の8月に龍彦は、駒込の私のアパートに女性と2人で来た。
その人と結婚したいと龍彦は私にいった。
龍彦と彼女は、萩焼きの窯元で一緒に働いていたらしい。
萩の窯元からその春に2人で抜け出して、九州のほうを旅したらしい。
私の知り合いの福岡にある九想窯(きゅうそうがま)にも行ったという。
九想窯は、私の友人のお兄さんの窯で、私は26歳のときに新婚旅行で訪ねている。
そこから龍彦と彼女は、東京の私のアパートに来た。
その夜、3人で飲んだ。
龍彦は、彼女と結婚したいと私にいった。
私は龍彦に、「おまえがちゃんとした仕事についたときに結婚しろ」といった。
翌日、私のアパートから出て行った2人のその後を、くわしくは知らない。
9月になって龍彦の母親から、備前で病気になり入院していると手紙が来た。
龍彦は、女性とは結婚しないで備前焼きの窯元に弟子入りしたということだった。
そこで働いているときに倒れて病院に入院したらしい。
私は有給休暇をとってすぐ備前に行った。
最初に龍彦が働いていた窯元に行って、私は彼が働いていたロクロを見せてもらった。
あいつがひねった茶碗などがいくつか置いてあった。
それから病院に行った。
龍彦は、喉に人工呼吸器をつけられて寝ていた。
龍彦の病気は、脳髄炎といわれた。
(あの東京に一緒にきた彼女は、大阪から何度も看護に行っていたらしいです)
その夜私は、弟に代わって龍彦のベットのわきに深夜3時間ほどいた。
「喉からへんな音がしたら、痰が喉にからまっているからなので、
 この機械でバキュームして下さい」と弟にいわれた。
龍彦の喉から痰がからまった音がしたとき、人工呼吸器の管を外し、痰をバキュームした。
あのときの痰をバキュームした音が今でも忘れられない。

12月8日に龍彦は亡くなった。
私は彼の葬式に山口県まで行った。
龍彦のふるさとは、錦帯橋の架かる錦川の上流にあるところだった。
龍彦の遺体は、石の上で焼かれた。
そのときその土地には、火葬場というものはなかった。
茨城の私のところでも、墓場の隅で藁などを燃やして火葬をしていた。

龍彦が好きでよく歌っていた井上陽水の「紙飛行機」を聴いて下さい。
あいつがボクシングをやめてから、私がギターを教えた。
それまでクールファイブの前川清の歌しか歌わなかった彼が、一番好きだった歌です。

井上陽水 紙飛行機 (ライヴ)

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亀屋のよっちゃん

2021年09月22日 | 友人

私は暴力は嫌いです。
争いは出来るだけ避けます。
それはただ私が臆病なだけなのかも知れません。
映画やドラマを観ていても、そういう場面は苦手です。
そういう私が、51年前の秋にひとりの男を殴りました。

そのとき私は高校3年の18歳でした。
吹奏楽部の部長をしていた。
同じ中学校の吹奏楽部から一緒にやってきた高2の後輩が、
「吹奏楽部を辞める」と言った。
そのときの詳しい状況を、今の私は何も覚えていない。
(今日、高校3年のときの日記を読んだが、見つけられなかった)
その日の夜、私は彼の家に行っていた。
彼が、どうして吹奏楽部を辞めたいのか訊こうとして行ったのだと思う。
その理由を彼から聞いたのかどうなのか、それもはっきり覚えていない。
確実に覚えているのは、彼を殴ったことです。
「わがった、おめが吹奏楽部辞めんのはあぎらめる。でもおれの気がすまねぇ。
 おれはおめを殴る」
そう言って、私は彼の頬を殴った。
他人(ひと)を殴ったことなどない私は、うまく殴れなかったと思う。
へたくそな殴りかただったでしょう。

先週、茨城の兄と電話で話したときに、
「亀屋のよっちゃんが、がんで死んだよ」と言った。
亀屋というのは屋号で、うちは伊勢屋という屋号だった。
昔、物を売る店をやっていたようです。
亀屋は宿(しゅく)の下(しも)で、伊勢屋は宿の上にあり500mほど離れていた。
よっちゃんというのは、私が高校3年のときに殴った後輩です。
今日は、よっちゃんの告別式でした。

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友人の写真が最優秀賞

2021年09月06日 | 友人

さきほど友人のFacebookを見たら、次のようなことが書いてあった。

>SONY 月例フォトコンテスト自由部門「路傍の花」で最優秀賞を頂きました。
>十日町から六日町へ抜ける道路沿いの光景を撮影したものでした。
>そして下の方へスクロールしていただいてテーマ部門【テーマ「空気」】の
>「沸き立つ」(上から8枚目)で優秀賞とWで選んで頂きました。
>審査員は並木隆さんで、コメントがうれしいです。
>ピンクの花はシモツケ草ということですが、マンションの管理人さんに教え
>ていただきました。
>花の名前は苦手ですので(;^_^A

ソニーマーケティング主催
MONTHLY OPEN PHOTO CONTEST
第8回月例オープンフォトコンテスト 【結果発表】

彼(甚四郎さん)とはインターネット以前のパソコン通信からだから、25・6年の付き合いです。
彼の写真は素晴らしいと思う。
これからもどんどん素敵な写真を撮ってもらいたい。

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シントコからまた1人いなくなった

2021年06月06日 | 友人


> お疲れ、6月初め**に引っ越しました。
> 新所沢を離れるのは辛く寂しかったです。

私が新所沢駅の近くに住んでいた頃に、よく飲んでいた友人からのLINEが22:06に届いた。
私は、すぐ無料LINE電話をかけた。
元気な友人の声が聞こえてきた。
友人の住んでいた新所沢の家の家賃は高かった。
部屋が沢山あり、夫婦2人で住むにはもったいないな、と私は思っていた。
ただ、それは他人の私から友人には言えなかった。
たわむれにそんな話を向けると、新所沢に対する愛を友人は語ってくれた。
私だって、“シントコ”に対する思いは負けない自信がある。
しかし2009年、私が長野県で仕事をすることになり、女房は清瀬市に、私は軽井沢に引っ越した。
現在私は、新所沢から1時間はかかる所に住んでいる。
池袋に行くのには、1時間半はかかる。
出来れば池袋から40分ほどの新所沢に暮らしていたいと、私はむかし考えていた。
しかし、私の収入を考えたらそれは無理だった。
なので終の棲家として、今住んでいる家を手に入れた。
家の近くに居酒屋はなく寂しいところです。
でも、庭は広く、女房とリフォームしたのでキレイな家になった。
4月にテレビ東京の「インテリア日和」という番組に出たので素敵なソファーや観葉植物をいただいた。
そのおかげでそれまでとは違う素晴らしい家の環境になった。
友人は今、西武新宿線のある駅から行く住宅に住んでいるという。
これでまた、1人がシントコからいなくなった。
寂しいですが、しかたないですね。

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2人だけの送別会

2018年08月30日 | 友人

今週の月曜日から私は、あるマンションで仕事をしています。
水曜日までの3日間は、研修でした。
前任者から仕事の引き継ぎをしていた。
そして昨日でそれが終わりました。
前任者は30・31日は有給休暇で休みで、8月いっぱいで退職します。
それで昨日は2人で送別会をした。
駅前の安い居酒屋で飲み、彼が通っていたというカラオケ喫茶に行った。
私は“カラオケ喫茶”というところに初めて行った。
彼はこれまで昼間に行っていたという。
土曜日が半日勤務で午後に歌いに行っていたらしい。
1100円でソフトドリンク1つと歌い放題だということです。
夜は、1800円に上がります。
私は久しぶりのカラオケで、たくさん歌いました。
他の客はいなくて、貸し切り状態でした。
居酒屋で彼のものすごい半生を聞き、それで飲まずにいられなくなりました。
九想話に書きたいのですが、遠慮します。
私は帰りの電車で寝てしまい、自分の降りる駅に降りられず、
戻ってきたときにはバスはなくなり、タクシーもないので歩いて帰った。
1時間半歩いて家に帰ることになりました。
それでも楽しい送別会でした。

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ホントは明るい

2002年07月17日 | 友人

今日、バンドの練習が終わって、
いつものように楽家で飲んだ。
こんどの日曜日にCDのための録音をする。
そういう意味では、
“本番”に向かう最後の練習だった。

今日、なんか練習に行くのがかったるかった。
おれの吹く曲は少ないし、
ケーナで一曲といわれて譜面に起こして
持っていった「ひまわり」が
なぜかボツになった。
そんなことであまり燃えていないおれだった。

10分遅れて、7時40分に新所沢公民館に行った。
最初はおれのケーナが参加する
「最後の昼下がり」という曲の練習になった。
これは亡くなったEさんのことを、
飲み友だちだったS根さんが書いた曲だ。
今日は、今までとは違う感じで吹けた。
ちょっと気分が良かった。

それなりにすべての曲の練習して、
9時半に終わった。
みんなは楽家に、
おれとS谷さんは、おれの家に行った。
S谷さんのウクレレの伴奏で
おれがケーナを吹くことになった。
S谷さんのウクレレをパソコンに録音した。
これでおれが練習をする。
日曜日までにそれなりの曲を作って、
ウクレレに合わせて吹けるようにする。

それから楽家のみんなと合流した。
いろんなことわいわいがやがや話して楽しかった。
だいたいが“下”の話題だ。
ここに書きたいが、われわれの名誉もあるので書かない。
でも、“上”の話もした。
音楽のこと、文学のこと、映画のこと、
素敵な話をした。
S原さんが、
久しぶりに山本周五郎のことを熱く語った。
山本周五郎の小説の話で、
おれとS原さんは楽家で親しくなった。
S谷さんは司馬遼太郎を深く語る。
あらためてきっちりしたものを読んでみたい。

KIMさんがいった。
「Oさんがこんなに明るいとは思わなかった」
そうなんです。
おれはたいがい、初対面のときには暗いんです。
親しくならないうちは、
暗いイメージを出して付き合うやな性格です。

でも、今夜思った。
明るい性格を前面に出して生きよう、と。
“暗さ”は“逃げ”の姿勢だ。
カラっと明るく生きよう。

昨日の深夜というか今日の早朝、
これを書いてUPしないで寝てしまった。
そうとう酔っ払っていたようです。

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