楽家話

2001年11月30日 | 暮らし

実は昨夜、楽家に行ってました。
会社で5時間際に残業をしてくれといわれた。
新しい製品を出荷したところ不良が発見され、
翌日出荷するものを全部検査するという。
結局8時まで仕事をし、家に帰ったのが9時前だった。
女房が新宿のエル・フラメンコに行っちゃったので、
晩飯がなかった。
いつもは息子と自分の食べるものを
買って帰るのだが、
昨日は「何か適当に食べてくれ」と息子に電話しておいた。
台所に息子が食べたカップメンの容器があった。
買い物する気もしないので、私は楽家に行ったのです。

楽家にたどり着くと、
Kさんが帰るところだった。
私を見ると、それじゃもう1杯飲むか、となった。
私は、Kさんのメールマガジンの感想を話した。
古代史のこと、教育のこと、生活のこと、
Kさんのやさしい眼差しの行き届いた
メールマガジンなんです。
週間で発行しているのがすごい。
「ホームページにすれば」と私がいうと、
「知らない人に読まれるのはちょっと…」という。
あれがホームページになれば、
絶対アクセス数の多いものになると思う。
この春にパソコンを始めたKさんは、
口述入力で文章を書いている。
口述入力ソフトがなかったら、
パソコンをやる気にならなかった、とKさんはいう。
そんな話を脇で聞いていたTさんとマスターが、
「おれたちパソコンの話に入れない」と拗ねていた。
「ケータイでもホームページが見られるよ」
と私がいい、九想庵のURLを教えた。
そこでさっそく見てみることにした。
私もケータイで見たことはなかった。
Tさんは、「おれよく分かんないんだよな」
といいながら操作をすると、出てきました九想庵が。
ちょっと小さい画面だと見づらいが、
九想話を読めなくもない。
これでまたひとり、旅人が増えるか…ナ。

Kさん、Tさんが帰り、客は私だけになった。
私も10時前には帰ろうと思っていたが、
帰りずらくなってしまった。
九想話を書かなければならないし、
月末投句締め切りの俳句も作りたかった。
しかし、ママとマスターだけにするのはしのびなく、
なんとなく焼酎のお湯割りを飲んでいた。
マスターが私の隣に坐り、飲む。
楽家の現在までのことを話しはじめた。
最初の頃は、ビデオの映画なんかをかけていた。
すると、客は映画に夢中になり、
注文はしないし、客同士が話をしない。
これはまずい、と気がつき、ビデオはやめた。
すると客たちは話をして、仲良くなり、
いい雰囲気になった、という。
私が初めて楽家に行った去年の5/20(私の誕生日)、
井上陽水のライブのビデオがかかっていた。
それでこの店面白いな、と思って通い始めたのだ。
半年ほどして、Sさんと文学の話をして、
楽家の常連になることを決めた。

楽家には、
人生を、暮らしを楽しむことを知ってる人たちが集まる。
つまらない愚痴話はない。
競馬、パチンコの賭事の話もない。
出るときもあるが、明るい話題としてだ。
おそらくそれなりの哀しみを、
真っ正面に味わったことのある人たちだからだろう。
マスターがそういう人だ。
彼は30代で、新宿のクラブの経営者になり、
天下を取ったような気分で生きていたそうだ。
世の中がバブルで有頂天だったときだ。
そしてバブルがはじけ、
会社の交際費で来ていた客が来なくなった。
クラブは経営が破綻し、莫大な借金が出来た。
傾いた店を手放し、マスターは自己破産。
そう以前、楽家の閉店後に聞いたことがあった。

「『人間万事塞翁が馬』だよね」とマスターがいった。
私は、深く頷いた。
11時過ぎ、客が来たので、
やっと私は帰ることが出来た。
家に着き、シャワーを浴び、日本酒を準備し、
パソコンを立ち上げたら眠たくなり、
電気も入れずにコタツに横になった。
寒さで目覚めたら、4時を過ぎていた。
もうすべて何もしたくない気分だったが、
あんな九想話を書いて寝た。
今夜も楽家に行きたかったが、
悲しいことにお金がなかった。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

11月の九想話

11/1  カレンダー
11/2  へんな忘年会
11/3  初舞台
11/4  友人からの電話
11/5  息子の定期演奏会
11/6  うつ
11/7  欠陥車
11/8  ながいつきあい
11/9  朝の踏切で
11/11 浜松での2日間
11/12 憧れのマンボウくん
11/13 コーヒー夜話
11/14 しみじみ思う健康のこと
11/15 今年も出ました
11/16 ばかやってる
11/17 昨日の楽家
11/18 空がすっきり
11/19 風のなかの虫
11/20 スニーカーサンダル
11/21 坊主頭
11/22 鍋料理
11/23 音楽を聴く
11/24 前に出る相撲
11/25 志ん生を聴きながら
11/26 人減らし
11/27 一本歯のヒビさん
11/28 ふたつの青空
11/29 睡眠不足
11/30 楽家話

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睡眠不足

2001年11月29日 | 暮らし

こう毎日寝る時間が少ないと、
さすがにだめです。
今、気がついたら(11/30 AM4:20)、
コタツに寝ていた。
それも電気が入っていないコタツに。
寒い。
知らない間に寝ていたようです。
体が震える。
今日はもう、寝ます。

息子の部屋で麻雀をやっている音がする。

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ふたつの青空

2001年11月28日 | テレビ

工場の前に、坐るとこがブルーのよくあるベンチがある。
他の人と時間がずれた休憩時間にひとりで坐って、
煙草を吸いながら空を眺める。
左側には工場の建物があり、
右側にはウィンドウガラスの製品を入れる
台車が高く積んである。
その間に空はあるので狭い。
道路の先には、自衛隊の広い敷地がある。
ときどき若い隊員たちが訓練をしているときもある。

このところ天気がいいので、
よく澄んだ青空です。
こんな狭い青空ですがいいですね。
仕事でこころがすさんでいても、
青空に煙を吐いてるときは、
少しおだやかな気持ちになる。

4年前の今頃、私は山梨にいた。
資材部の倉庫の前にベンチがあって、
そこで、甲府盆地の上に広がる青空を見ていた。
左を見れば、“腰巻き富士”が見えた。
なぜ“腰巻き富士”なのか、これは私が名付けた。
富士山の下半身を甲府盆地の山々が、
腰巻きのように隠しているからです。
あの頃、山梨暮らしを早く終わりにしたい、
と願っていて、“腰巻き富士”も憎かったが、
今となっては、また会いたい。

山梨の青空は広かった。
遠くには八ヶ岳や穂高連峰があり、
“腰巻き富士”もおだやかにそびえていた。
なんなんだろう、
あの頃が無性になつかしい。
釜無川の土手で、またケーナを吹きたい。

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一本歯のヒビさん

2001年11月27日 | 友人

ヒビさんとは、私が20歳のときに会った。
私はこれまでいろんな人とつきあってきたが、
これほど変わった人はいない。
ヒビというのは本名ではない。
ほんとの名前は知らない。

いつも一本歯の下駄を履いていた。
髪の毛は背中の中ほどまで伸ばしていて、
いつもは紐でゆわいていた。
顔は面長で髭をはやしていて、
まるで田舎侍のようだった。
歳は、私より2、3上だった。
ある漫画家の
アシスタントをしてたこともあったようだ。
その頃、仕事はしてなかったように思う。
私のアパートに来ると、
「キュータロー飲みに行こう」と、私を誘う。
(私のことを、キュータローと呼んでいた)
誘うが、お金は出さない。
だって、金がないんだもの。
そして別れ際に、
500円とか1000円貸してくれという。
私もお金がなかったが、
そのぐらいの金額なので貸していた。
貧乏な私なので、これが重なると辛かった。
お金を返してもらったことはなかった。
でも、ヒビさんといると楽しかった。
話題が豊富だった。
いろんな話をして私を飽きさせなかった。
新宿なんかをヒビさんと歩いていると、
みんなが振り返って見た。なにしろ一本歯だ。

あるときアパートに帰ると、ラジカセがなかった。
独身のとき私は、部屋に鍵は掛けていなかった。
「ちょっと借りる」とヒビさんの手紙があった。
おそらく質屋に入れたんだろう。
その後、私にとってすごいことがあった。
ヒビさんの“へんな”プレゼントだった。
そのあと、ヒビさんは来なくなった。
今はどんな暮らしをしているんだろう。
会いたい。

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人減らし

2001年11月26日 | 会社・仕事関係

11/24(土)の朝日新聞の一面に
「人減らし 吹き荒れる」
という記事があった。
主な企業の人員削減計画が載ってますが、
すごい数ですね。
ここに載ってない会社でも、
テレビやラジオのニュースなどで人員削減を
聴かない日はない。
これらの会社の仕事をもらっている
中小、零細企業を含めたら
いったいどのくらいの数字になるのだろう。
自然退職や子会社への転籍などもあるのでしょうが、
多くの人が失業者になるのでしょうね。
今でも失業者が多くて、
受け入れる会社がないというのに、
いったいこれからの日本は
どうなってしまうのだろう。

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志ん生を聴きながら

2001年11月25日 | 演芸

毎週土曜日の深夜(日曜日のAM1:10)、
ラジオ深夜便では演芸を放送している。
落語が多いが、漫才、浪曲、講談もやる。
いつもはだいたい九想話を書いてる頃で、
ほとんど聴けないが、
昨日は、なんか“いい予感”がして、
早めに九想話を書き終えて、
簡単なストレッチをして、1時過ぎに蒲団に入った。
この、蒲団に体をもぐり込ませたときというのは、
なかなかいい心持ちですね。
おふくろは、小さい私によくいっていた。
「かあちゃんはァ、寝っときがァ、
 い~じばん(一番)幸せだァ」(茨城弁で)
今の私は、かあちゃんのこの言葉がよく分かる。
ふか~い言葉です(ドコガ…)。
昨夜の深夜便のアンカーは、加賀美さんだった。
このひとの声を聴くと、ほっとする。
そのやさしい声がいった。
「今日の演芸は、志ん生の落語です」
いや~、私はそれを聴いて蒲団の中で小躍りした。
「あなどろ」と「たいこばら」だった。
最初の「あなどろ」は穴に入った泥棒の話で、
私は初めて聴く噺だった。
江戸時代の庶民の大晦日のまくらから、
三両を工面するのに苦労してる男の話が始まった。
金に困ってる男の表情が目に見えるような
志ん生の話し方だった。
裏木戸が開いていた家に上がり込み、
宴会の終わった座敷で、
ひとり残った酒を飲んでいる男に、
その家の小さな子が来る。
これに話しかける男のようすがよかった。
志ん生も、小さかった志ん朝に
こんなふうに話しかけたのかな、
なんて思ってしまった。

「あなどろ」の最後のほうは、
寝てしまったのかあまり記憶がない。
「たいこばら」はほとんど夢の中。
惜しいことをした。

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前に出る相撲

2001年11月24日 | Weblog

今日、武蔵丸の優勝が決まった。
会社からの帰りのラジオで知った。
優勝インタビューで武蔵丸がいっていた。
「ただ、前に出る相撲、
 自分の相撲を取ろうと思ってました」
このセリフは、
多くの力士がインタビューでいう。

私はこの頃、すべてに自信がなくなっている。
今の職場の仕事に自信がなく、
収入が少ないので家庭では立場がなく、
生きる支えと頼りにしている夢、
小説を書くことにも自信がなくなっている。
生きていることが不安でしょうがない。
「職場で、家庭で、
 そして社会の変化に大いに悩む49歳」
(ある雑誌にあった記事です)
そのものになっている。
私も、「49歳なぜキレれる」という九想話(4/8)を
書きましたが、現在の私は“キレ”そうです。
他人は殺せませんが、
自分なら殺してしまえそうです。

そんな私は、
「ただ、前に出る相撲」という言葉に救われた。
そうなんだ、今は、
ただ、前に向かって歩くしかない。

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音楽を聴く

2001年11月23日 | 音楽

今日は、所沢のパソコン通信仲間と飲んだ。
7時に所沢駅に集合して、
それからいつもの場所で飲んだ。
9時頃、新所沢に来て楽家に行った。

いつものようにいろんな話をした。
今日は特に、クラシックの話を長く話した。
そういえばこの何年かクラシックを聴いていない。
つくづく私はテレビを観ている時間が多いと思った。
明日から、テレビはなるべくやめて、
音楽を聴こうと思った。
そしていろんなことを考えたり、
読書をしたり、文章を書いたりする。
そういう時間を多く持とうと考えた。

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鍋料理

2001年11月22日 | 料理

今日の夕食は、なべだった。
鮭や野菜を入れたから石狩鍋っていうのかな。
味噌味で、私が大好きな鍋料理です。
ここのところ1週間に1度は鍋料理だ。
女房は簡単だからという。
買ってきたものをただ鍋に入れて煮るだけだから
いいのだろう。

Uは夕食の時間にはまだ帰っていなくて、
Kと3人だった。
といっても女房は雑用をしていて、
食卓には坐っていない。
Kは昼間はほとんど寝ていたようだった。
あいつにとっては、朝飯だったのだろう。
そうとう腹が減っていたようで、
ご飯のおかわりを2回していた。
私は、ビーシュを飲みながら、
かなり鍋の中のものを食べた。
豚肉のショウガ焼きもうまかった。

コタツで「オール讀物」を読んでいるうちに、
いつのまにか私は寝てしまった。
何時頃か、Uが帰ってきて食事をしていた。
11時頃、私が起きて、
いつものように台所の換気扇の下で煙草を吸っていると、
「これ見て、Uが全部食べてくれた」
と女房がUに小分けしておいた小さな鍋を指していう。
亭主がどれだけ食べようが、食べまいが、
無頓着でいるのに、
息子のこととなると、そのことだけで一喜一憂する。
「Uはほんとうにキノコが好きなのね。
 最初にキノコから食べるよ」
「えみさんに、似ていてよかったね」
うちの女房はキノコが大好きだ。
私は嫌いではないが、それほど好きでもない。
彼女がキノコが好きなことを知ったのは
何年前のことだったろう。
5、6年前のことか、
なんか気がつくとキノコ料理が多いな、と思った。
女房に訊くと、
「私、キノコが大好きなんだ」という。
私は結婚してからそれまで、
女房がキノコが好きだなんて知らなかった。
おでんの中で竹輪麩が好きだとは、
かなり前から知っていたが…。
じつは、女房が酒が苦手というのも知らなかった。
飲める方だと思っていた。
しかし、彼女にとって、
酒なんてこの世になくてもいいと思っている
と知ったのは2、3年前だった。
私は女房のことで知らないこと、
まだまだあるような気がしてならない。

明日の朝、雑炊が楽しみだ。

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坊主頭

2001年11月21日 | Weblog

私は高校生のとき、坊主頭だった。
校則で長髪が禁止されていたのです。
高校に入学する1週間ほど前に、
床屋で五分刈りにしたときは悲しかった。
バリカンで刈られた髪の毛が、
頭から下に落ちるのを
私は目の前の鏡をとおして見ていた。

坊主頭は高校生活を暗くした。
それでなくても劣等感の塊の私だった。
この頃のことを私はあまり覚えていない。
なにもいいことがなかった。

なぜか私の高校の校則は、
3年になったら長髪にしてもいいとなっていた。
その理由が分からない。
「社会に出るから」ということをきいたことがある。
ということは、社会では坊主頭はおかしい、
と学校側が考えていたのか。
だったらなぜ、長髪禁止にしたのだ。
3年になると、誰もが髪を伸ばした。
私も伸ばした。
クラスでの男子の会話は、
整髪料は何がいいかとか、どこの床屋がいい、
なんていう話題になった。
髪を伸ばして、いくぶん気持ちも明るくなった。

しかし、1、2年生だけ長髪禁止ということには、
どういう教育的効果があったのだろう。

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