Hのこと

2001年08月31日 | 友人

 8月16日に死んだ友人Hのことを、あれからいろいろ考える。
 彼とは小学、中学、高校と一緒だった。すごく仲がよかったというわけでは
ないが、けっこう付き合ったほうだった。
 Hは、小学の低学年のとき母親が亡くなった。そのせいなのか、性格に暗い
ところがあった。でも、どっちかというと、ひょうきんで、人前ではいつもお
どけていた。それは、寂しさの裏返しではないか、と私は思っている。
 彼の家はお寺です。小学生の頃よく遊びに行った。庭の枇杷の木に登って、
黄色い枇杷を採ったことを思い出す。
 小学4年までの分校時代はよく遊んだが、5、6年の本校に行くようになる
と、あまり付き合いはなくなった。
 中学生になって、Hはサッカー部に入り、私はブラスバンド部だった。クラ
スが別なので、ほどんど話すことはなくなった。
 高校に入って彼はラグビー部に入った。私は同じくブラスバンドだ。住む世
界が違うという感じでそれほど接触はなかった。
 それでも、なぜかHと会うと、話をした。彼にはなんともいえない親しみや
すさがあった。人を出し抜くとか、人を騙すとかが出来るタイプではなく、い
つも人のうしろにいて、にこにこしている男だった。
 高校2年になった頃、学校の行き帰りに一緒になることがあった。私たちは
自転車通学だった。麦畑の畦道で自転車を停め話をした。やはり小学からの同
級生の柔道部に入ってるUも一緒で、そいつが煙草を持っていて、3人で吸い
ながら学校の噂話などをのんびり話した。
 高校3年の修学旅行から帰った次の日、Hの家に行き、3人でウィスキーを
飲んだ。本堂の裏にあった彼の部屋は狭く散らかっていたが、高校生が煙草を
吸い、酒を飲むにはいい環境だった。サントリーレッドのデカイのを空にして、
我々酔っぱらい高校生は、オードバイで街に出た。よく覚えていないが、私は
Uの250CCのうしろに乗っていったと思う。街といっても私の町は小さな
町です。
本屋の前で、私が中学のとき好きだった女の子に会った。酔っぱらっていた私
は、彼女に何を話したのか…。何も覚えていない。
 高校を出て1年もしないうちに、Uは交通事故で死んだ。彼とは高校3年の
とき同じクラスだったので、私が友人代表で弔辞を読んだ。
 あのときサントリーレッドを飲んだ3人のうち、2人が死んでしまった。

 高校を出て、Hは埼玉県の川口の消防署に勤めた。同じく川口の会社に勤め
ていた分校時代の友人がいて、私はよく川口に行って、3人で酒を飲んだ。
 戸田ボートが近いので競艇に何度か行った。私は競艇のことは何も知らない
ので教わりながら、船券を買った。予想が当たったり外れたり(ほとんど外れ
だった)、楽しかった。競艇はスタートした順番がそのままゴールに入るのが
普通なんだ、なんてことをそのとき知った。20歳の頃の私たちは、なんか楽
しかった。Hも活きいきしていた。
 あるとき酒を飲んでいると、Hがこんなことを話した。
「ある家が火事になり、おれたちは出動した。家はほとんど燃えている。消火
活動をしているとき、ドアの前を通りかかったら、中から『助けてー』と叫ぶ
声がしたんだ。ものすごい悲惨な声でいっているんだ。おれ、中に入って助け
なくちゃならないのに、おっかなくて入れなかった。入ったらきっと火の海だ
もんな。おれも死んじゃうかもしれない。わるいけどドアを開けられなかった
よ。ドアの前でその声の人に頭を下げたよ。おれ、それから、あの悲鳴のよう
な『助けてー』という声が聞こえてきて辛いんだ。おれには消防士は出来ない
よ」
 おそらく私も、その状況にいたら、Hと同じ行動をとったと思った。私は、
Hに対して慰めの言葉もかけられなく、煙草を吸い、酒を飲んでるしかなかっ
た。
 Hは、10年ほどで消防署を辞めた。
 私は、20歳ぐらいから東京にも友だちが出来て、川口に行かなくなってい
た。友だちの話では、競艇や競馬でサラ金からの借金が大きくなり、消防署を
辞めた退職金で全部精算して、田舎に帰ったということだった。
 4、5年前、Hと飲んだ。そこは私の住む地域に1軒だけある食堂だった。
鄙びた薄暗い店で、他に客はいなかった。
 私たちは痛飲し、いろいろ話した。彼は、まったく子どもの頃と変わらず、
やさしい目で私を見た。気の弱いくせに男気のあるH。彼といると私は、子ど
ものときから安らぎを覚えた。
 それとなくHに、消防署を辞めたことを訊くと、「そのとおりだよ」といっ
た。まるで自分を嘲るように。
 そのあと、盆踊りなどで会うが、挨拶だけで別れるようになった。

 Hが死んだことを、ある友人にメールで知らせた。彼も分校時代からの友で
す。中学の頃、Hと同じサッカー部にいた。彼から長いメールが返ってきた。
 その中に、Hのサッカー部でのことが書いてあった。
 Hのポジションはフォワードなのに、ある試合で、味方の陣地のゴールライ
ン付近でプレーしていた。通常そこは、フルバックかハーフバックが守るべき
地域で、フォワードがいるような場所ではない。しかも、相手の攻撃がやむと、
そのまま何事もなかったように自分のポジションに戻っていったらしい。
> そんな姿を見れば、「感動的」なのです。
 と、書いてあった。
 今年の同窓会でメールアドレスを知った女性にもHのことを知らせた。
 すると、「中学のとき、Hが友だちと私の家に来たことがある」とメールの
返事がきた。友だちが彼女を好きで、2人の間をとりもとうということで、H
は行ったらしい。
 この2人のメールで、私が知らないHの別な面を知った。
 Hは、消防署を辞めたわけは、借金返済のためだけじゃないんじゃないかと
思った。ドアの向こうで叫ぶ人を救えなかった。そのことでいつまでも自分を
虐めていたのではないか。賭事で借金をつくってしまったのも、そのことも少
しは影響があるのではないか。
 独り身を通し、社会の片隅でひっそりと酒を飲みながら、死んでいったH。
 私の想いは、感傷的すぎるでしょうか。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

8月の九想話

8/1   久しぶりにラジオ深夜便
8/2  昨日の訂正
8/3  楽家の“先生たち”
8/4  居酒屋「ひょっとこ」
8/5  インターネット的を買う 
8/6  つまんない
8/7  たった2日
8/8  同姓同名
8/9   無洗米
8/10 エアコン求めて、夏
8/11 想い出のメロディー
8/12 肉体の長編小説
8/13 自殺者3万人
8/14 蚊帳色の私
8/15 帰郷
8/16 Hsashiの死
8/17 もうすぐ1年
8/18 疲れてる
8/19 「不良中年」は楽しい
8/20 反省の夏休み
8/21 年配女性の会話
8/22 台風襲来?
8/23 がん特集の再放送
8/24 扇風機
8/25 粗忽女房
8/26 息子のそうめん
8/27 リストラの嵐
8/28 快老のすすめ
8/29 楽家の初孫
8/30 1日3枚以上
8/31 Hのこと



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1日3枚以上

2001年08月30日 | 家族

今夜の「にんげんゆうゆう」は、
「作家・眉村卓〝がんの妻のため書き続ける〟」だった。
平成9年、奥さんががんで入院した。
「病気になった妻のために、自分は何ができるだろう」
と、眉村卓は考えた。
「自分は書くことしかできない。
 毎日ショートショートを書いて読ませよう」
それから毎日、1日3枚以上書いて、
奥さんに読ませているそうです。
これまで1500ぐらい書いた。
ということは、1500日書いてきたことになる。
それらは、「日課 1日3枚以上」
という名前で自費出版している。
かなりの冊数だった。
これはすごいことをしているな、と私は感心した。
毎日書くために、
アイディアを書く手帳をいつも持っていて、
いろんなことをメモしている、といっていた。
書くことがなく、苦しいときもあるが、続けている。
「書かしてもらう権利」
「暮らしの一部、常態」
といっていた。
私も眉村卓のこの言葉を自分のものとして、
「九想話」を書いていこう。

奥さんは読むと、
それなりの感想をいってくれるそうです。
面白いとか、よくないとか、
いい夫婦関係だな。
うちなんか、女房は「九想話」を読んでくれない。
読まないことをいいことに、
女房の悪口書いてます。

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楽家の初孫

2001年08月29日 | 家族

今夜、女房がフラメンコの練習日で晩飯がない。
息子たちにもメールが入っていたようで、
それは知っていた。
勝手にそれぞれ好きな物を買うようにいって、
おれは楽家に行った。

楽家では、たいへんなことになっていた。
本日、赤ちゃんが誕生したという。
マスターの初孫だ。
来る客来る客にそのことを話す。
初孫って、そんなに可愛いのか。

マスター夫婦はどちらも45歳。
26歳で結婚したという。
現在19歳で来月20歳になる娘さんが、
赤ちゃんを産んだのです。
40代でおじいちゃん、おばあちゃんだ。
負けた(勝ちたいとも思わないが)。
もうおれは、40代で孫は持てない。
いますぐ息子のどちらかが結婚して、
子供を産むなら間に合うが、
それは、ちょっと無理な話だ。
(今、指を折って計算したが、
 早産でもしないと、不可能だと分かった)

マスターは、今鼻の下と顎にある髭を剃るという。
「孫に頬ずりして、嫌われるのがイヤだ」
というのがその理由です。
勝手にしろ。

おれは、7時半に楽家に行った。
1時間ぐらいで帰ろうと思っていたのに、
結局10時過ぎまでいてしまった。

孫の可愛さを今は分からない。
でも、想像はつく。
息子たちをあれほど可愛がったおれだ。
孫が可愛くないわけがない。
でも、今はそんなことを考えるのはよそう。
息子たちから解放され、女房からも逃げて、
自分の暮らしを見つめているところだ。
自分のこれからの生き方を、
真剣に考えよう。

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快老のすすめ

2001年08月28日 | テレビ

昨日の「にんげんゆうゆう」(NHK教育7時半)は、
「永六輔が語る〝老いても夢を忘れるな〟」だった。
家に帰るのが遅く、途中から観た。

孫のために、
70歳で空中ブランコを始めたひとのことを話していた。
その話をしながら、永六輔は涙ぐんでいた。
「この話をするとこうなってしまう、話を変えよう」
と次のようなことを話した。

ある老人ホームに、
昔、船乗りだった粋な老人が入所した。
そのひとは、いつもきちっとした服装をしていた。
例えば、麻の白のジャケットに赤い蝶ネクタイ、
という感じで、
他の男たちの着てる物とは違っていた。
すると、それまで化粧もしなかった
おばあちゃんたちが化粧をし、着飾り始めた。
その元船乗りが、
老人ホームの花壇の前にあるベンチに坐っていると
おばあちゃんたちが、かわるがわる寄っていき、
話しかける。
そうすると、男は花壇の花を折り、老女たちにあげる。
それを見ていた他のおじいちゃんたちは面白くない。
その花壇は、そのおじいちゃんたちが作ったものなのだ。
その普通の老いた男たちが老人ホームの所長に直訴した。
「おれたちの育てた花を折らないように、
 あの男にいってくれ」と。
元船乗りは花を老女たちにあげなくなった。
楽しみを奪われたおばあちゃんたちは、
自分たちで花壇を作り、花を育てた。
あのダンディーなおじいちゃんに、
花をもらいたいために。
元船乗りは、なにかの事情で老人ホームを出た。
そこは、もとの活気のないどこにでもある
老人ホームになってしまった。
所長が永六輔に、
「ああいうおじいちゃん、どこかにいませんかね。
 あのひとがいたとき、ここは活気があって楽しかった」
といったそうだ。
永六輔は、今の仕事ができなくなって、
老人ホームに行くことになったら、
絶対そういうおじいちゃんになる、
といっていた。
(私もそうなりたい)と思ったが、
着ている物は、いつもジーパンにTシャツだ。
ダンディーにはほど遠い。
永六輔がアナウンサーにいっていた。
「あなたの歳の頃から、
 そういうものを着ていないとだめだよ」と。
ああ…、私には無理だ。

「老人になったら、
 若い頃に憧れた夢を紙に書き出して、
 その中から、これからでもできそうな夢を
 実現させよう」
と永六輔が最後にいっていた。
私は、まだ老人になってはいないが、
夢に向かって走ろう。

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リストラの嵐

2001年08月27日 | 会社・仕事関係

富士通    電子機器・部品事業を縮小  1万6千人
NEC    DRAMから撤退        4千人
松下電器産業 早期希望退職を導入       5千人
東芝     社内カンパニー制の強化   2万人規模
ソニー    70工場を55以下に集約    ーーー

8/25の朝日新聞に載っていた
電機メーカーの主なリストラ策です。
この他に、日立製作所も
大がかりな組織改編とともに人員削減をするそうだ。
これらの大手メーカーに関係する
中小、零細企業への影響も大きいでしょうね。
私の前の会社は、この何社かがお得意さんだった。
4、5年前、メモリーの価格が下がったなどの影響で
半導体業界の設備投資が抑えられたことと、
韓国の経済がおかしくなってしまったことで、
注文の少なくなった会社はあっというまに消滅した。
現在、親会社がかわり、
社名もかわったあの会社はどうなっているのか。

うちの会社もこの秋かなりの人員削減をするという。
とりあえずは派遣社員からになるらしいが、
そのうち…。

うちの会社の場合、なんの経営努力もしない。
例えば、役職の人たちの駐車場が10台分ある。
これはそれぞれ停める所が決まっている。
一般社員、派遣社員の駐車場に
その10人ぐらいが停めるスペースが空いている。
だからまず、役職の駐車場をなくせばいい。
先月、会議に必要だからと何十万もする機械を買った。
パソコンの画面をスクリーンに映すものだ。
その操作が分からないと、
会議の前に右往左往している。
買ったのなら、その使い方を勉強しろ。
しかし、そもそもそんなものいらない。
ホワイトボードに5分で書いてしまえば
それで終わりという粗末な資料なのだ。
いろいろやって、
最後に人員削減をやればいいと思うのだが、
客からの注文が少なくなると、即、人減らしです。
それしか方法が考えられない、
あの人たちなのです。
あの方々を減らして欲しい。

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息子のそうめん

2001年08月26日 | 家族

今朝、いつものように女房は寝坊して、
けたたましく出かけていった。
恵比寿までフラメンコの練習にです。

しばらく蒲団でうつらうつらしていると、
Kが、「そうめん、ゆでていい?」という。
「ああ」とおれがこたえると、
「食べる?」ときく。
「お、いいね。Kのゆでたそうめんなんて」
おれは起きて、居間のテーブルの前に坐った。
テレビをつける。
息子が鍋でお湯を沸かしている。
「どれぐらいゆでたらいいかな」
「とりあえず、一束ぐらいやれば…」
おれも、どれぐらいで一人前になるか知らない。

ベランダで煙草を吸って、下界を眺める。
うちは5階、そこそこ眺めはいい。
左のほうは、駅前通りが見える。
右手には中央公園。
盆踊りのやぐらから、
四方に提灯がぶらさがっている。

居間に戻ると、
皿にのせたざるの上にそうめんがあった。
そうめんに氷を2、3個のせてあるのが憎い。
「一束だとそのぐらいだから、もう少しゆでるね」
とKがいう。
「こういうことも経験しないとわかんねェよな」
おれは、Kの用意してくれたつゆで、
そうめんを食べた。
うまかった。
息子がゆでたそうめんを食べるなんて、
初めてのことだ。
追加してゆでたそうめんを持って、
Kがテーブルに坐り、食べ始めた。
いい日曜日の朝だ。

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粗忽女房

2001年08月25日 | テレビ

本日、休出して、
仕事が片づいたので3時で帰ってきた。
髪の毛がのびてうるさくなってきたので、床屋に行く。
いつものように髭を剃ってもらっているとき、
熟睡してしまった。
あそこまで寝てしまうと、損したような気分です。
うつらうつらしながら、
剃刀のあたる感触を味わいたかった。
耳を掃除されているときを楽しみたかった。
家に帰ると5時だった。
となりの中央公園は夏祭りで、
明るいのにかなりの人が出ていた。

6時頃電話が鳴る。女房だった。
「夜の練習、人が集まらなくてなくなったんだって。
 受付の人にそういわれちゃった。
 今から帰って、それから食事の用意するね」
またあいつは間抜けなことをしでかした。
なんでそんなこと前に確認しとかないのか、
あいつのルーズさに呆れ返る。
でも、そのいい加減さで救われてることも多いのだが。
今日の午前中と夜、それに明日、そして来週。
ある団体主催の「クルシージョ」というフラメンコの
短期講習みたいなものに行くことになっていた。
場所は恵比寿なので、家に着くのは7時半頃か。
「今日はメシがないから、何か買うように」
と会社から帰ったときにUにいっといた。
部屋を見るといない。
おれは急いでUにメールをうった。
「ママが今から帰ってくる。弁当買わなくてもいいよ」
しばらくして、Uが戻ってきた。
手にはコンビニの袋をぶらさげている。
「しょうがないママだよな」
しかし、わが息子は何もいわない。
これも、こころが広いのか、ただボーっとしてるのか。

おれは楽家に行った。
女房が戻ってくるまで我慢ができない。

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扇風機

2001年08月24日 | テレビ

今、足下で扇風機が回ってる。
いや、扇風機の羽根が回っている。
扇風機は、首を振っているだけです。
扇風機が回っていたら怖い。

この扇風機は、もう30年使っている。
おれが東京の駒込の3畳のアパートに
住んでいた19歳のとき、
兄が東京に来て買ってくれたものだ。
この扇風機は、
おれの30年の夏の暮らしを見てきた。
あらためて掃除もしていないので、
30年間同じ汚れた姿で、暑い空気をかき回している。
女房は暑いとすぐエアコンをつけるが、
おれ1人のときは、どんなに暑くても、
この扇風機が友人です。
上半身裸になって、扇風機の風に当たっている。
それでビーシュなんか飲んだら最高です。

この扇風機も、
いつか動かなくなるときがあるのだろうな。
そのときおれ、泣いちゃう…かな。
いや、扇風機ごときで泣くことはないだろう。
この夏が終わってしまうとき、
掃除してやるかな。

   三十年想い出まわる扇風機

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がん特集の再放送

2001年08月23日 | テレビ

5/7に書いた九想話「がんからの生還」を、
書くもとになった番組(にんげんゆうゆう)が、
今週の月曜日に再放送された。
「がんからの生還 作家日野啓三さんの闘病記」です。
あらためて観て、胸を打たれるものがありました。

火曜日は、「医師ががんになった時」だった。
これは今回初めて観た。
胃がんになった外科医は胃を4分の3摘出した。
患者さんのお腹を触診し、
自分の腹も出して指でたたき、
「ガスがある」なんていっていた。
「このキズはどのぐらいで、そうなるかな」
20年前に自分が胃がんの手術をした患者さんから、
がんとのつきあいかたを教わっていた。
「自分は患者さんのがんの苦しみを、
 知っていたつもりだったが、
 自分でなってみて、
 初めてがん患者の苦しみが分かった」
というようなことをいっていた。

水曜日は、「三浦洋一さんのがん闘病記」。
三浦洋一のことも、
2000年5/17の九想話に書いていた。
1999年9月に食道がんが発見されて、
2000年5月14日に亡くなった。
奥さんが出演して話していた。
三浦洋一の入院中のノートのメモに、
「がんになって、夫婦の絆が深まった」
というふうなことが書いてあった。
享年46歳。若すぎる。

木曜日の今日は、
「大切な人ががんになった時△告知の苦悩」でした。
これは5月の放送のとき観ていた。
むずかし問題です。
でも、私と女房は、
互いに「告知してくれ」といっている。
いざそうなったら、
告知できるかな。

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台風襲来?

2001年08月22日 | 家族

本日、台風が関東にやってくる、ということで、
わが社の唯一の客である車メーカーが、
休みになった。
それで私の職場も休みになった。
強制的に有給休暇をとらされた。
私なんか有給休暇をいつも消化できないからいいが、
少ない人は困るだろうな。
派遣社員の人は大変だ。
それでなくても8月は休みが多いのに。

朝9時頃起きてテレビを観ると、
台風情報で大騒ぎだった。
今朝は雨風それほどすごくなかったが、
テレビでは、3時頃関東に台風が来て、
夕方には台風が大暴れするだろう、
なんてことをいっていた。
それで、女房もパートを休みにした。

昨日録画した「プロジェクトX」を観る。
「リーダーたちの言葉」として、
これまで放送した番組を編集したものだった。
世の中には、素晴らしい人間がいるんだな、
とあらためて思った。
へたなドラマより、感動した。
涙、なみだでした。

こんな日に映画なんか観る人は少ないだろうと思い、
「千と千尋の神隠し」を観に行った。
甘かった。11:55からのに行ったら、
もぎりの女の子に、「立ち見ですけど…」といわれた。
チケット千切ってからそんなことをいう。
中に入って予告編が始まった暗い館内を探すと、
幸運にも通路側に1つ座席が空いていた。
私はほっとして、外で買ってきた缶コーヒーを飲んだ。
小さい子がたくさんいた。
ときどき可愛い声がする。
宮崎監督の発想の素晴らしさに感心した。
絵もきれいで動きがいい。
ただ、私との感性にずれがあり、
映画に深く沈めなかった。

映画を観てから、女房に電話して、
最近できた「スタバ」でコーヒーを飲んだ。
「おいしいけど、高いから、もう来ないね」
と女房は何度も繰り返しいっていた。
そのあと、女房がケータイの機種変更をした。
前から折りたたみ式に憧れていたのだ。
9,200円だった。
私は今のを使い続ける。

それにしても、台風はどこにいった?
雨もやみ、風もふつうだ。
パートを休んだ女房は複雑な想いのようだった。
私はのんびりできてよかったが…。

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