青木繁と坂本繁二郎、同時期に同じように久留米藩の下級士族の家に生まれ、家を継ぐ義務をもち、絵描きを志していた頃には、活動をともにしました。
しかし、青木はいくつかの今日も高く評価されている作品を遺しましたが、坂本が注目されるにいたったのは戦後の20年間ほど。坂本は一時、梅原龍三郎、安井曽太郎と並び称されたものの、その作品は忌憚のない眼で評価すると凡庸でした。
坂本は青木に深いコンプレックスをもち、そのことを生前は隠し続けようとしました。
著者の主張はごく簡単にまとめれば以上のようですが、著者は美術評論家でないにも拘わらず、全編を通じてその洞察力には驚かされました。
著者によれば夭折した青木の全盛期は短く、「優婆尼沙土(ウパニシャッド)」「黄泉比良坂(ヨモツラサカ)」「威弥尼(ジャイミニ)」「海の幸」「輪廻」「エスキース」「天平時代」「海」などの作品ですが、画壇や鑑賞者を意識した作品は見劣りがするばかりか、正視に堪えないものもかなりあるようです。
「わだつみのいろこの宮」も清張の評価にかかってはあまり高くないです。
青木が福田たねと恋愛関係に入り子どもまで生まれながら、家族と養育を省みず、故郷での父の死と家督を継がなければならず、しかし貧困のなかで身を持ち崩し、病に倒れ、早世しました。
青木はその天才を一時線香花火のように輝かせ、日本美術史上に必要不可欠な画家となりました。
著者による青木とその作品の分析は非常に興味深いです。青木の一部の作品に特徴的なフォービズム的傾向(p.50)、上野図書館に通って得たにわか勉強の結果としての単純なミス(pp,48-49)、青木の作品を「明治の浪漫主義」と結びつけた評価の浅薄さ(p.60)、などなど。
著者は青木の作品、生き方の対極で、坂本のそれを検証していますが、その作品に見るべきものはなく、20代に意気込んで書いた哲学的文章はドイツ哲学の自己流の非論理的な焼きなおしにすぎず、フランス留学の成果もなく、坂本繁二郎が日本美術史上から落ちても何の影響もない、と断じています(わずかに版画の作品のみ褒められています)。
問題なのは、坂本が青木に凄まじいコンプレックスをもち、結果として事実関係を歪めた表現をとったり、くだらないケチをつけたりしたこと、生前の青木の能面・狂言面・伎楽面のデッサンを秘匿し公にしなかったこと(それらは坂本の死後発見された)、また一部の美術評論家が坂本を必要にもちあげたことでした。
清張の透徹した分析力は、日本美術の分野でも健在でした。
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