礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ポツダム宣言に対し政府は沈黙を守る方針でいた

2017-08-10 04:36:24 | コラムと名言

◎ポツダム宣言に対し政府は沈黙を守る方針でいた

 本日は、高木惣吉著『終戦覚書』(弘文堂書房、一九四八年三月)〔アテネ文庫12〕によって、一九四五年(昭和二〇)の「今ごろ」を振りかえってみたい。
 この本は、本文わずか六一ページしかないが、記述は、簡潔かつ客観的で、諸書に引用される機会も多い。「あとがき」によれば、初出は、雑誌『世界』だという(未確認)。
 目次は、次の通り。

その一 マリアナ敗戦余燼………………三
 一 運命の六月…………………………三
 二 東條内閣の退陣……………………六
その二 決戦か終戦……………………一二
 三 連立内閣…………………………一二
 四 鈴木内閣の悩み…………………二〇
 五 天王山はいずこ…………………二八
その三 悲しき終止符…………………三五
 六 舞の裏表…………………………三五
 七 国策の宙返り……………………四三
 八 最悪の事態に……………………四九
 九 悲しさ終止符……………………五二
あとがき…………………………………六一

 このうち、本日は、「八 最悪の事態に」を紹介することにする。

  八 最 悪 の 事 態 に
 六月十八日、辛うじて最高戦争指導会議構成員の和平提談がきまつたので、〔東郷茂徳〕外相は翌日、広田〔弘毅〕を訪ねて、重ねてマリク大使との折衝を頼んだ。そこで広田、マリク会談は六月二十四日、二十九日と開かれたが、その後はソ連大使病気の故と称し、またも停頓してしまつた。一方、沖縄の陥落が時間の問題と考えられるようになつた五月下旬頃から、陸軍の本土決戦論はヒステリックな調子を帯びはじめ、鈴木〔貫太郎〕は例によつて、決戦もよし、和平も結構という天意一任で、高松宮〔宣仁親王〕までが終に我慢できなくなられたと見え、一体総理は終戦の時機はいつが最善と考えるか、と訊ねられた。すると総理は取り澄して、兵力による反撃の可能性のある時期、即ち只今がよろしいと思います、と答えたが,具体的にその方向に一歩進めようとする素振りは少しも示さなかつた。
 七月七日、陛下は鈴木を召されて、対ソ交渉の経過をきかれ、腹を探るといつても、機を失しては宜しくないがら、この際端的に和平仲介を頼むことにし、親書を持たせて特使をだすことにしてはどうか、との御催促があつた。
 特使派遣となつたはじめは、総理、〔米内光政〕海相は東郷自ら出馬することを望んでいたが、マリク大使との交渉を依頼したところから、東郷自身は広田を考えていたらしいが、六月から七月には入ると、近衛〔文麿〕をつよく主張しだした。七月十日構成員会議で、特使派遣のことが正式に決定され、十二日、重臣懇談会のために帰京した近衛は、親しく陛下からソ連特派の御言葉をいただき、感激してその大任をひきうけた。
 特使派遣のことは外相から早速、十二日佐藤〔尚武〕大使に訓令を電報した。十三日大使はモロトフ外相に面会を申しこんだが、ロゾフスキ次官が代つて、ソ連首脳部はポツダム会談に出かけるため、回答はおくれるとの返事であつた。外相としては、ポツダム会談の後では時機を失するから、なるべく早く回答をとりつくるよう督促した。すると十八日夜になつてロ次官から佐藤大使に、日本の申出は抽象的にすぎて諒解しにくいから確答しにくい旨の返答があつた。そこで折返し二十一日に、近衛特使の使命はソ連政府の斡旋により、和平をはかる目的を以て具体的意見を述べ、併せて日ソ提携関係の樹立につき談合する、旨の電報を送つた。
 ところがその後杳〈ヨウ〉として大使の電報は絶え、わが申入れに対するソ連の反応も、印象も、大使以下の所見も何一つ聞くことができなかつた。
 特使内定の前後から、国内はわきかえる混乱をいやがうえにも加えた。和平反対、内閣打倒、特使反対の策動が猛火のように拡がつた。
 これと同時に、大本営移転の議論が一段と人々の頭を迷わせた。陸軍では前々から松代〈マツシロ〉に大きぼの防空壕を作つて移転先と予定していたのであるが、軍令部でも移転説が有力で、対内統治、終戦の狙いからは心痛にたえない不安があつた。特に総理がどちらでも成行き次第という態度は、いつまた六月八日の反覆がないともいえなかつた。
 七月二十六日になつて突然、所謂ポツダム宣言が発表された。トルーマン、チャーチル、蒋介石の連名で、スターリンの名が見えぬので希望的憶測もあつたが、常識から推してもソ連側の内通は当然のことで、シベリア方面に対する軍隊の輸送もその頃は終つて、総兵力百五十万、飛行機四千九百、戦車三千七百と推定され、冬営準備もせずに八月から十月までの間に侵入する姿勢は一目瞭然であつた。
 この三国共同宣言に対して政府は差当り、沈黙をまもる方針であつたところが、統帥部では反駁声明をだした上で、大号令を発すべきだとの意見がわきだした。政府の態度宣言は穩かに発表する閣議の決定であつたが、総理は記者会見のとき、黙過する意味の黙殺を、念入りに、政府はポツダム宣言を黙殺する、と大見得をきつてしまつた。このために連合国側は日本政府の正式拒絶と認め、原子爆弾の使用とソ連参戦の口実をムザムザと提供してしまつたのである。
 幾たびかソ連側の回答を促したが、冷たいソ連の態度は微動もしなかつた。東京では一刻千秋の思いでモスコウの返事を待ち侘びた。すると八月六日午前、僅かに三機で攻撃した敵機は唯一発の爆弾で、ほとんど広島を潰滅した。翌七日のト大統領の声明と、調査団の報告で、広島市の約六割の面積を一挙に破壊したのは原子爆弾であつて、恐るべき威力であることが判り、追加報告は何れも酸鼻を極め、聞く者は期せずして内心、処置なし!  の感を深くした。
 越えて九日早暁、同盟特電はソ連が対日宣戦をしたとのモスコウ放送と共に、夜半から既に国境をこえてソ連軍が満洲に侵入していることを伝えた。八日午後五時モロトフ外相の佐藤大使引見は、待ちくたびれていた回答ではなく宣戦の通告だつたのである。

 高木惣吉(一八九三~一九七九)は、海軍軍人で、最終階級は海軍少将。戦中、東条英機首相暗殺計画に関与したことがあるという。戦後、様々な文章を発表している。その一部は、当ブログでも紹介したことがある。
 反骨精神に富み、明晰にして知的な文章を書いた。上に紹介した文章には、鈴木貫太郎首相の言動に対して、きわめて厳しい批判がある。これは、類書には、まず見られない視点であり、同時に、いかにも高木惣吉らしい捉え方と言えるだろう。

*このブログの人気記事 2017・8・10(2・8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする