礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

死ぬではないぞ、裁判に出て陛下を守るのだ

2017-08-25 16:23:13 | コラムと名言

◎死ぬではないぞ、裁判に出て陛下を守るのだ

 花見達二著『大転秘録――昭和戦後秘記』(妙義出版株式会社、一九五七)の紹介をしている。本日は、その三回目(最後)。
 一昨日は、「近衛公・悲憤の最期」の章の、「佐々木博士大いに怒る」の節を紹介した。本日は、それに続く、「不信の逮捕状来る」の節を紹介する。

  不 信 の 逮 捕 状 来 る
 箱根宮ノ下の奈良屋別館で憲法草案を練っている一方、近衛側近の富田〔健治〕、牛場〔友彦〕、松本〔重治〕、高木〔八尺〕、細川〔護貞〕らは総司令部をたずねて向うの改正意見をきいた。近衛〔文麿〕がそれを参考にして欲しいというと、佐々木〔惣一〕は怒って、
「そんなことを学者の良心がゆるすとおもうか。そんなことをいうならすぐにも御用掛をやめさせてもらう」
 と立ちあがる気配をみせた。近衛は佐々木を怒らせないために苦心した。ところが東久邇〔東久邇宮稔彦王〕内閣は突如として総辞職しなければならなくなった。それは内務大臣山崎巌〈イワオ〉に罷免の指令がでたばかりか、警視総監以下全国警察部長にも罷免の旋風が見舞ったのである。ツイ十日ばかり前にマッカーサーは東久邇宮に向って「東久邇内閣に不適格な大臣はひとりもいない」といいながらこの仕打ちである。これは本国の命令によるものではあったが、この調子でゆくと最高司令官マッカーサーの言明もいつ変るか、どこまで信用していいか、判ったものではない。これが近衛に暗い気持を投げかけた。そしてマッカーサーに対する不信の第一が生まれた。
 つぎに十月九日、幣原〔喜重郎〕内閣が成立した。そして宮中で近衛が憲法改正をやっていることに猛反対がおきた。「憲法改正の仕事は国務である。内大臣府の所管事項じゃない」という反対である。国務相松本烝治はその急先鋒であった。
 そこで十月十三日午後、近衛は首相官邸に幣原、松本をたずねて論争した。その結果、改正は天皇の勅令で発議されるのだから、内大臣府が関係するのは不自然でない、さればといって、むろん改正をやるには内閣でも調査をやるが好い、と双方の折り合いがついた。そこで内閣ほうは憲法学者清水澄〈トオル〉、美濃部達吉以下各大学の主任教授を調査委員にして改正に乗り出した。佐々木惣一にも参加をたのんだが、佐々木は「両方はできぬ」と頑として松本の懇請をハネつけた。
 そんなわけで近衛と幣原内閣の妥協はついたが、政界の一部や新聞、海外論調は近衛を非難した。これには「戦前の大物」として近衛の責任を追求する共産派もあれば、近衛を政界からシメ出そうという陰謀組もいた。しかもこの世論はあまり近衛に不利であった。弁解する立場をもたぬかれに対して攻撃の矢はきびしすぎた。戦前、あまりに花やかな近衛であっただけに集中攻撃の目標にされると割はわるかった。
 マッカーサーはこの世論を気にし出した。そしてついに「総司令部は近衛文麿に憲法改正を命じたおぼえはない」と声明した。これをウラ張りするように連合軍防諜部長の代将ソープは「日本のどんな戦犯容疑者も新政党に加入はできぬ」と声明した。これは近衛が新党運動にかつがれていることについてどうおもうか、という内外新聞記者団の質問に答えた声明だけに、近衛や近衛の周囲につよくひびいた。
 近衛のマッカーサーに対する第二の不信がここに生まれた。
 十一月半ば、箱根での憲法草案起草は完了にちかづいていたが、近衛の気持は暗澹たるものであった。そしてアメリカの爆撃調査団がいろいろ近衛を調べるので、近衛の心境には墨のように不快な黒い渦が湧いた。十一月十九日、松岡洋右〈ヨウスケ〉、荒木貞夫ら十一名に逮捕状が発せられた。元待従武官長陸軍大将本庄繁が自決した。
 憲法草案は完成した。
 十一月廿二日、近衛はこれを天皇に奉答した。天皇主権を原則とする全文百カ条で逐条ごとに理由書がつけられた。近衛はこの草案のほかに個条書的な概略書を自筆して追加奉答した。草案本文は佐々木が御進講、逐条の御説明にあたった。一切の大役をおえた近衛は、その日、公爵拝辞の手つづきをとった。拝辞の上奏文は元枢密顧問官竹越与三郎〈タケコシ・ヨサブロウ〉に執筆させた。
 占領下で不磨の大典に心ならずも改正の努力をしなければならなかった近衛は、その草案答申の日に、千三百年の家系をもつ「公爵近衛家」に対しても、みずからすすんで名門の誉れを閉じた。
 むろん、近衛が皇室をまもる気持には一片の変化もなかった。
 だが、くるものはやってきた。十二月六日、近衛、木戸伯爵酒井忠正ら九名に逮捕状が発せられた。偶然だったが、近衛は政界の長老伊沢多喜男〈イサワ・タキオ〉に会った。伊沢が近衛を励ました。
「死ぬではないぞ、裁判に出て陛下を守るのだ」
「大丈夫、お上の前に立ちはだかってお護りする」
 と答える近衛の眉宇〈ビウ〉には異様に烈しい感情の波うっているのがうかがわれた。

*このブログの人気記事 2017・8・25(5位にやや珍しいものが入っています)

 

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佐々木惣一は老顔を赤くして激怒した

2017-08-23 05:45:38 | コラムと名言

◎佐々木惣一は老顔を赤くして激怒した

 昨日の続きである。花見達二著『大転秘録――昭和戦後秘記』(妙義出版株式会社、一九五七)の紹介をしている。
 昨日は、「近衛公・悲憤の最期」の章の、「マ元帥日本を掌握」の節を紹介した。本日は、それに続く、「佐々木博士大いに怒る」の節を紹介する。

  佐々木博士大いに怒る
 マッカーサーの命令は近衛にとって青天のヘキレキであった。
 また近衛にとって最大の激励の贈り物であった。さらにいえば近衛文麿に対してアメリカは戦犯容疑者としての逮捕状は出さぬ、という証明でもあった。ひらたくいえば近衛はここで命をひろったようなものであった。
 アチソン顧問がそばからつけ加えるようにいった。
「選挙法改正の場合はナチス的な色彩をのぞくことが必要だ」
 この助言も贈り物であった。近衛はアチソンといつでも会えるよう約束した。
 総司令部を出て車を走らす近衛は緊張と興奮で頬を紅潮させていた。ゆく先は内大臣木戸幸一のところである。近衛は木戸にいった。
「憲法改正を提案しろとマ元帥がいっているが、帝国憲法は不磨の大典だ。やたらに変えるべきじゃない」
 木戸は即座に、
「それはその通りだろう。しかし事態は深刻だ。陛下にもお考えはあるとおもう。憲法を改正するかどうかも研究すべきだし、改正するとしたら、どこをどう改正するかも研究せねばならぬ」
 と答えた。木戸は改正の余儀ないことを知っていた。そこで、近衛は木戸の発意で、内大臣府御用掛となって憲法取調べの役につくことになった。明治憲法は改正の場合、まず天皇の勅命により、それから議会の協賛をうるようになっている。いわば勅命の準備行為である。近衛はそれから渋谷に細川護貞〈モリサダ〉をたずね、松本重治〈シゲハル〉、牛場友彦、富田健治、高木八尺〈ヤサカ〉らをあつめて相談したうえ、京都にいる憲法学者佐々木惣一〈ソウイチ〉に改正案を起草してもらうことにした。
 話がきまると、近衛はもうジッとしていられない気持であった。一刻も早く、改造に着手せねばならぬ。そこで内大臣府から京都府知事を電話に呼び出して佐々木博士にその意をつたえる一方、細川がすぐその晩、京都へ走った。
 佐々木は細川から出場を懇請されたが老博士はウンといわぬ。佐々木は憲法はムヤミに改正すべきでないとの意見であった。当時は憲法学者のなかでも、美濃部達吉らはやはり明治憲法を守り通すべきだと主張し、松本烝治もそうであった。金森徳次郎もそうだった。政界では幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉、吉田茂、鳩山一郎も同意見だった。
 その後、首相幣原はマッカーサーから、
「はやく憲法改正しないとソ連が共和制憲法をおしつけてくるかも知れない。そうなると天皇制はやめねばならなくなる――」
 といって、改正をいそがせられた。マッカーサーは天皇の終戦の大詔の威力を知り、無血占領上陸の有難味がわすれられなかったのだ。幣原は泣いて、これに服従した。そして英訳憲法を鵜ノミにしたのである。
 ところで佐々木の頑強な信念と態度に閉口させられた細川は前後の事情を説いて、なおも懇請をつづけた。そして博士がおもうような改正案を起草することを強調して上京をうながした。佐々木は「一晩まて!」といってその晩は熟考し、あくる朝、ともかく上京すると返事した。
 そのころ、近衛は身辺を気にして細川の家旅や学友だった後藤隆之助の世田谷の家、杉並の山本有三の家などと、転々寝とまりしてあるいていた。やはりその一軒で「わかもと」の長尾欣弥の家が世田谷の玉川ベリにちかいところにあった。近衛は佐々木をこの長尾邸に迎えいれ、半月ぐらいで改正案を作成して呉れ、とたのみこんだ。すると佐々木は老顔を赤くして激怒した。
「それは学者を遇する態度でない。一年かかるか、五年かかるか、これから考えてみねば返事はできない」
 まったくその通りで、学者は職人ではない。しかも明治憲法を不磨と信じるその人に向っていざいそく〔居催促〕式ではムリがある。近衛にしてみればそれだけ焦りと几帳面な気持に飛び立つおもいがしていたのである。
 やっと佐々木を鎮めた近衛は、佐々木を内大臣府御用掛に推した。やがて箱根の奈良屋別館に近衛、佐々木、それに佐々木の門弟磯崎辰五郎(現大阪大学教授)が助手となり、十一月末までかかって改正草案の作成に従事した。晩秋の箱根宮ノ下は寒かった。運命の人近衛と老博士佐々木は額を寄せて、さびしい灯下のもとで想を練るに苦心した。
 明治憲法草案は国民の待望のうちに神奈川県金沢八景の夏島〈ナツシマ〉で起草された。伊藤博文、井上毅〈コワシ〉、伊東巳代治〈ミヨジ〉らは、ここに籠って〈コモッテ〉感激とよろこびにあふれてこれに従事した。それにくらべると箱根の草案作成は占領下の重くるしい空気につつまれて悲しかった。虫の音がかれらの胸にこたえた。
 しかし皇室をまもるため、栄ある大業なのだ。という信念がみんなを励ました。ただここに意外なことが起ってきた。

 ここで佐々木惣一(一八七八~一九六五)は、「老博士」と呼ばれているが、当時まだ、六七歳だったはずである。
 文中に、長尾欣弥という名前が出てくるが、一九四一年(昭和一六)版の『日本人名選』(大阪毎日新聞社)によれば、「わかもと本舗栄養と育児の会」の社長で、自宅は世田谷区深沢町にあった。
 なお、文中に、「明治憲法草案は国民の待望のうちに神奈川県金沢八景の夏島で起草された」とあるが、夏島での憲法草案作成作業は、極秘で進められていたのであり、「国民の待望のうちに」と言えるかどうかは疑問である。

*次回も、『大転秘録』を紹介する予定です。ただし、都合により、明日から数日間、ブログをお休みします。

*このブログの人気記事 2017・8・23

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公爵はコスモポリタンで世界のことに明るい

2017-08-22 01:12:33 | コラムと名言

◎公爵はコスモポリタンで世界のことに明るい

 書棚を整理していたら、花見達二著『大転秘録――昭和戦後秘記』(妙義出版株式会社、一九五七)という本が出てきた。著者は、戦中に、読売新聞の記者だった人である。
 だいぶ前から持っている本だが、読んだ記憶がない。パラパラとめくって、中味を確認した。文章は平易で、随所に興味深い記述がある。しかし、情報の出どころがアイマイで、「史料」としての価値は低いという印象を持った。
 しかし、一応、その内容の一部を紹介してみよう。
 本日、紹介するのは、「近衛公・悲憤の最期」の章の、「マ元帥日本を掌握」の節である。

  マ 元 帥 日 本 を 掌 握
 昭和廿年〔一九四五〕八月十五日正午、終戦の大詔が渙発された。その前の晩、近衛師団の一部では抗戦継続のクーデター計画があった。陸相阿南惟幾〈アナミ・コレチカ〉は麹町永田町の官舎(本舍は空爆で焼失し、白アリの巣食う木造平屋の秘書官官舎を使用していた)でその砲声をきき、これを鎮撫するよう命じてから日本刀で自決した。東部防衛司令陸軍大将田中静壱〈シズイチ〉も自刃した。海軍の一部にも不穏な計画があった。しかし、大詔が下ると一切が静寂に帰した。襲来する爆撃機の来なくなった青空にむかって油ゼミが意志あるもののように悲しげに啼きつづけた。
 八月卅日、マッカーサー元帥が百五十名の部下を従えて厚木飛行場についた。その前の日、トルーマン大統領は早くもマッカーサー元帥に宛てて「日本管理政策」を命令していた。
 その第二節には
 ――天皇ならびに日本政府の権能は最高司令官に従属せしめられる――
 と明記してあった。世界歴史に初めての占領方式によって天皇も政府も議会も絶対服従下におかれるようになった。思い切った占領政策がとられはじめた。それは国民の生活ばかりでなく、精神も性格までも一変さすためにとられたものである。原子爆弾の洗礼も世界ではじめてであったが、こういう軍事占領の徹底支配をうけたのも世界で初の洗礼であった。
 九月二日、ミズーリ号艦上で降伏文書の調印がおこなわれた。なににでもひっぱり出される近衛はこの調印にも全権候補になっていたが、かれは辞退した。十一日、束条英機ら卅九名の戦犯容疑者に逮捕状が出た。東条はピストル自殺をはかって果さず、元参謀総長元帥杉山元〈ゲン〉は自決した。そのほかこの前後に多くの軍人や政治家や志士たちが自殺した。代々木原頭〈デントウ〉の大東塾十四烈士、愛宕〈アタゴ〉山上の尊攘十烈士(のちに二烈女殉死)皇居前広場の明朗会十二烈士女の壮烈な自決も人々の胸を打った。
 近衛が初めてマッカーサー横浜税関の建物に訪問したのは九月十三日の夕方。
 近衛は日本の内情を詳しく話し、自分の意見をつけ加えたが、マッカーサーはまっ向から日本の軍部に憎悪の念をあらわすだけで近衛の説明をきく気持もないらしかった。しかも、マッカーサーは五・一五事件も二・二六事件もまるで知らないらしく、妙なところへ黒竜会の話など持ちこんで、日本に対する無知をさらけ出した。第一回の会見は一時間で終った。
 片山哲〈テツ〉や風見章〈カザミ・アキラ〉はじめ近衛を新党党首におそうとする政治家や浪人が近衛をたずねてきた。これに対して、近衛を永久に政界から追放しようとする人々は、ことさら近衛を攻撃した。斎藤隆夫、川崎克〈カツ〉らは宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉を内閣首班に推そうとして反近衛熱をあげた。首相東久邇宮〔稔彦王〕は九月廿九日マッカーサーを訪問し、
「自分は皇族軍人〔陸軍大将〕である。性格的にも封建的であるが総理大臣として差しさわりがあるとおもわれるか。またいまの大臣のなかで取りかえるべき人物はいないか」
 と質問したら、マッカーサーは微笑して、
「民主主義はむしろ殿下のような封建的な人物が先に立って育ててこそ育つ。大臣中に取りかえねばならぬ人物は見あたらぬ」
 と答えた。
 近衛は十月四日、マッカーサーを総司令部に訪ねた。あらかじめ打合わせしてあったのに副官があらわれて「元帥は会えないからサザーランド参謀長と会談して欲しい」という。その参謀長がなかなか出てこない。ながいこと持っていると一室に案内された。ソファーにサザーランド参謀長とアチソン顧問がいる。だが、みれば意外にもそこには「会えぬ」といったマッカーサーが深々と腰をおろして同席しているではないか。近衛は異様なかんじで挨拶を交し、
「この前に意のつくさなかったことをお話したい」
 と述べ、
「日本が世界にめいわくかけたことは申訳ないが、皇室や財界に対してアメリカにもふかい誤解がある。これらは軍閥に対して大きなブレーキ役をも演じている」
 と前提して、近衛の信念としているマルクス主義の罪悪について日本の現状と将来の恐怖を説明した。マッカーサーはかなり興味をひらかれたらしく
「下層の兵隊にもマルクス主義は浸透したか?」「ソ連大使はマルクス主義を扇動したか?」などと膝をのり出して質問してきた。
 わかれる前、マッカーサーは近衛の顔をみながら、いかにも力をこめていった。
「公爵は封建勢力の出身であるがコスモポリタンで世界のことにあかるい。そして歳も若い。敢然、陣頭に立って下さい。公爵がもし憲法改正を天下に提案されるならば、議会もこれについてゆくだろう」

*このブログの人気記事 20178・22(4位に珍しいものが入っています)

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転形期における智識人と文学のありかた

2017-08-21 03:49:16 | コラムと名言

◎転形期における智識人と文学のありかた

 以前、岩波文庫の『十訓抄』を手に入れようとして、アチコチの古本屋に当たったが、なかなか見つからなかった。ようやく、神保町の古書展で見つけたところ、相当くたびれたもの(一九四二年初版)に三百円の売り値がついていて、さすがに、これは見送った。
 その後、某古書店の百円均一の棚で、一九五七年に出た再版を見つけて入手。永積安明〈ナガヅミ・ヤスアキ〉校訂、★★★、定価一二〇円(★ひとつ四〇円)。
 岩波文庫『十訓抄』の再版には、「解説」と「あとがき」がついている。「あとがき」の最後に、「一九五七年七月 校訂者追記」とあるので、初版には、この「あとがき」がなかったことがわかる。
 岩波文庫『十訓抄』の解説は、九ページに及ぶ。前半は、各種伝本に関する解説、著者についての専門的な考証が続く。後半に入って、校訂者の永積安明は、「十訓抄の本質」を論じ始める。校訂者独自の『十訓抄』論である。これが実に興味深い。なぜか。それは、永積安明が、『十訓抄』の性格や著者の立場を論じるかに見せながら、一九四二年(昭和一七)現在における智識人のあり方、文学のあり方について論じているからである。
 以下、「解説」の後半部を引用してみよう。原文にある傍点( 、、、)は、太字で代用した。
 なお、『十訓抄』の読みは、「じっきんしょう」または「じっくんしょう」であるが、岩波文庫の読みは、「じっくんしょう」である。

 こゝでわれわれは十訓抄の本質について約言しなければならない。
 十訓抄の名は、いはれてゐるやうに、仏典「十善業道経〈ジュウゼンゴウドウキョウ〉」が、十綱目を立てて、仏教的な教戒を試みたのから脱化〈ダッカ〉したものであらう。著者はその序において、「よき方をばこれをすゝめ、あしき方をばこれを誡め〈イマシメ〉」るため、賢愚両端にわたつて、古今の物語の数々を抄出したしいふのであるから、勧善の意図はまことに明瞭である。いはゞ文学的な方法をかりて、「少年のたぐひ」に、平易に耳近く教戒を囁かう〈ササヤコウ〉といふのである。
 だから十訓抄のとり入れた「昔今の物語」といふのは、書紀に始まる史書・鏡物の類、萬葉以下の歌集、袋草子等の歌話集であり、大和・今昔・宇治拾遣物語・古事談等の説話集等であつた。而もそれらの引用が、多くは手を入れることもないそのまゝの採録であつた事も、鎌倉時代に盛んに行はれた数多くの説話集と少しもかはることがないのである。
 鎌倉時代の説話集が、一般に懐古的な要素を少なからず持つてゐたやうに、十訓抄の説話も、多くは平安時代以降の、詩歌・管絃・芸能にまつはる佳話に対する讃歌であつた。さうしてこれらの説話を列挙しながら、教訓の辞をさしはさんでゐるうちに、著者は説話そのものの興味に圧倒されてしまふことがあつて、時に教訓の意識を全く離れた単なる説話集といってもいゝ部分が、それも亦極めて自然に生れてゐるのを読者は発見するであらう。所詮、十訓抄は説話集であつた。あの鎌倉時代の京都の公卿たちが、多かれ少かれおちこんだ精神の閉塞を、はかなくもやりすごさうとした懐古的な一連の説話集の系譜に属するものであつた。
 承久の乱によつて教くうちのめされた人々の鬱屈した心が、これらの説話集には読みとられるのであるが、十訓抄の著者は、そのくづほれた心を、単にすぎさつたものへの憧憬を以て慰めようとしたばかりでなく、実生活においても、とにかく処理してしまはうとしてゐる。さまざまの説話を配列し、それを結びつける著者の言葉に、特に主に仕へる道を説かうとするものが少くなかつたのは、「少年のたぐひをして、心をつくるたよりとなさしめん」がための心づかひによることは、序文に述べてあるとほりであるけれども、六波羅庁に仕へた著者自身の経験が、主に仕へる道を、それもきはめて実際的な道を語らせてゐるのである。更に詳しくいへば、この主は、六波羅庁によつて象徴された鎌倉精神とも云へさうである。京方のひとびとが、東の果てからたち上つて対決を迫つた新しい精神に対して、身もつて示したさまざまな心がまへの一つが、この著者においては、少年の徒に示す道にもおのづから滲み〈ニジミ〉出たといふ事も出来よう。
 少年の徒は主に仕へねばならぬ。生きねばならぬ京方は、鎌倉方に対処しなければならぬ。承久の乱以後既に圧倒的に迫つて来た力に対決しなければならぬ。六波羅庁に仕へた著者は、その力に仕へねばならぬとし、事実仕へる事によつて生きのびた人の一人である。だから十訓抄に主張された教戒は、鎌倉時代初期の貴族の精神に見えた自主的な強烈さがない。それは寧ろ妥協的な、実際的な処世訓に傾いてゐる。
 けれども、かういふ著者の精神は、やはりどこか表向きなのであつた。既に述べたやうに、何処にも鎌倉方などといふもののなかつた時代の説話の興味が、やゝもすると、著者の意図を裏切つて、教戒を忘れさせることがあるからである。実際的な処世の法を、自らの経験を通じて人に説いた著者は、それにもかゝはらず、まだ全くは仕へきれない精神を意識の下に抱いてゐたのである。さういふやりやうのない矛盾を宗教の中に溶解させてしまはうとするところにも、中世の人間らしい著者の生き方がうかゞはれるのであるが、結局は、最早とりかへすすべもなかつた王朝時代のうつくしい生活への、はるかなあこがれが、十訓抄の全巻を貫く底流でさへもあつた。何かにつけて詩歌管絃の佳話を抄入したのも、又さういふ種類の説話を盛るに最もふさはしい第十「可庶幾才能芸業事」の巻が、特別に厖大になつてゐるのも、著者の意識の下にあつて、どうにもとりけしやうのなかつた本心によるのであつた。
 たゞそれらの精神が、こゝではまことに消極的にしか主張されてゐない。而もきはめて妥協的な教戒・処世法の衣をまとつて立ちあらはれてゐる。といふよりは、寧ろ鎌倉時代の多くの説話集がさうであつたやうに、かういつた説話をたのしむといふ事は、新時代の圧力にあつて、それに積極的に参加するでもなく、又はげしく斬りむすぶでもなく、それへの対決を避けてしまつた事になつてゐるのである。さういつてみれば、この書の教戒の精神が、実際的であると同時に、妥協的でさへあつた事は、説話そのものをたのしむといふ事と、最早矛盾するわけでもなかつたことになるのである。
 十訓抄が江戸時代に多くの読者を持つたらしい事は、この時代の写本が多く残つてゐるばかりでなく、元禄以降、何回も何回も翻刻されてゐることによつて明らかであるが、この事実こそ、十訓抄の本質を解く一つの重要な鍵であるだらう。
 だから十訓抄のわれわれにとつての興味は、当然著者の意図したまゝの「教訓」・処世法にあるのではない。転形期の智識人が、時代の閉塞を感じた場合、その対決を避けることが如何に困難であり、又結局無意味なものであるかを、この書がおのづから語つてゐる点にあるのである。又文学が教化に仕へるといふことは、文学そのものの逞しさによるほかには道なく、さういふ原則を無視して、たゞ単に文学の形をかりて教化の具に供するといふことは、反対に文学を不具にすることによつて、結局本来的な教化と精神の作興とに資しえないであらうといふことをも、本書の読者は十分に注目するであらう。かうして十訓抄は今日なほ教訓的である。

今日の名言 2017・8・21

◎十訓抄は今日なほ教訓的である

 岩波文庫『十訓抄』の校訂者・永積安明の言葉。上記コラム参照。ここで言う「今日」とは、1942年(昭和17)の今日という意味である。

*このブログの人気記事 2017・8・21(1・8・10位に珍しいものが)

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『市民ケーン』のオリジナル脚本を読む

2017-08-20 02:54:29 | コラムと名言

◎『市民ケーン』のオリジナル脚本を読む

 昨日の続きである。『シナリオ「市民ケーン」(オリジナル版)』(世界映画資料別冊、一九六二年二月号)によって、映画『市民ケーン』(RKO、一九四一)のオリジナル脚本を、少し読んでみたいと思う。
 かつて、南雲堂から、「英和対訳シナリオシリーズ」というものが出ていた。その「24」、南雲堂編集部編『市民ケーン』(一九六六)が今、机上にある。読んでみるとわかるが、これは厳密に言えば、「シナリオ」ではない。つまり、映画を作るための「シナリオ」ではなく、すでに出来上がった映画作品について、その場面やセリフを再現したものである。
 一方で、世界映画資料別冊のシナリオ「市民ケーン」(オリジナル版)は、文字通りの「シナリオ」である。これは間違いなく、『市民ケーン』という映画を作るために用意されたシナリオである。
 そのオリジナル脚本から、ケーン少年(六歳)が、コロラドの田舎から都会に留学する(させられる)ことになった場面を見てみよう。

 一九八〇年
 昼。
 果しなくひろがる目もまばゆいばかりに白い雪の原野。六才のチャールズ・フォスター・ケーンのすがたが現れる。かれは、スクリーンから観客に向って雪を投げつける。
 かれは、小さい旅館の建物に向って投げている。
 それに看板がかかっている。
〝ケーン夫人の旅館。最高の食事と部屋。お問合せ下さい〟
 チャールズ・フォスター・ケーンの雪ボールが看板に当たる。テャールズは新しいボールを作る。
【一行アキ】
 客間。二八才のケーン夫人が窓か息子を眺めている。
ケーン夫人(叫ぶ)『チャールズ! 気をつけなさい』
サッチャーの声『ケーン夫人………』
ケーン夫人(窓から叫ぶ)『チャールズ、えりまきをもっときつく首にまきなさい』
 子供がかけて行くのが見える。ケーン夫人がふりむく。彼女の顔。意志のつよそうな、しかし善良そうな苦労人の顔がある。
サッチャーの声『私の考えでは、かれに言わねばなりません………』
 カメラが後退する。テーブルのかたわらにサッチャーが立っている。それは二六才の傲慢な男である。
 テーブルには、かれのシルクハットと書類が置いてあった。
ケーン夫人『私が今、この書類に署名します。サッチャーさん』
父のケーン氏の声『お前さんたちは、私が子供の親父だということをまったく忘れてしまっている』
 この声に、ケーン夫人とサッチャーは声のほうを向く。カメラはさらに後退する。父親のケーンが見える。
ケーン夫人『すべて私がサッチャーさんに言ったようになるんです』
ケーン氏『私には、しようと思えば、裁判にももち込めるんだ。父親は権利をもっている。宿賃の足りなかった客が、くずのような権利書をおいていった。もし、実際に値打ちのあるものならば、その財産は私のものでもあるんだ……。私は個人的にフレッド・グレイブスを知っている。このようなことが起ると思えば、かれはわれわれ二人にこの書類をのこしただろう』
サッチャー『しかし、書類はケーン夫人の名前だけで手続されています』
ケーン氏『しかし、かれは、宿代のかわりにわれわれ二人に置いていった。そのうえ、私は子供を銀行の後見にまかせることには賛成できないね。というのは………』
ケーン夫人(静かに)『ジム、無作法に話すことをやめてもらいたいわ』
サッチャー『少年の教育、宿舎など、すべての問題について銀行の結論は出ています』
ケーン氏『銀行とか、後見とかいう考え自身が………』
 ケーン夫人と夫の眼が合う。かれが言い出した言葉を途中でやめたことは、彼女の勝利を物語っている。
ケーン夫人(さらに静かに)『ジム、無作法はやめて頂だい』
サッチャー『われわれは、あなたのコロラドの鉱山を完全に管理します。私はくりかえして言いますが、この鉱山の唯一の所有者はケーン夫人です』
 ケーン氏は何か言おうとする。二度ばかり口を開いた、何も言いだせない。
ケーン夫人『どこに署名するのですか。サッチャーさん――』
サッチャー(指で示す)『ここです、ケーン夫人』
ケーン氏(悲しそうに)『あとで私が警告しなかったと言うな………。メリー、それが最後のお願いだ………。みんなは、私が良い夫でなかったと思うだろう……』
 ケーン夫人は、ゆっくりとかれに眼をむける。ケーンは黙る。
サッチャー『あなたとケーンさんは、生涯年五千ドルを受けとるでしょう……。のこりは………』
 ケーン夫人は書類に署名する。
ケーン氏『ふん、すべてが良くなるとでも思っているのだろう』
ケーン夫人『勿論です……。サッチャーさん続けて下さい……』
 サッチャーと話しながら、ケーン夫人は子供の声に耳をかたむける。ケーン氏は窓に近寄る
 窓にチャールズが見える。かれは雪だるまを攻撃している。雪ボールで狙って片ひざをまげる。
【一行アキ】
チャールズ『暴徒どもが戦斗を欲するなら、望みどおり戦ってやる! われわれの条件は無条件降服だ。敵に向って前進! アメリカ万才!』
 ケーン氏は窓を閉める。
サッチャー『すべてのこりの財産は――そして資本とそれからのすべての収入は、あなたの息子さん、チャールズ・フォスタ・ケーンが成人されるまで、責任もって銀行が管理いたします。かれが二五才になった暁には、かれがそのすべての財産の所有者となります』
 ケーン夫人、窓に近づき、それを開ける。
ケーン夫人『続けて下さい。サッチャーさん』
 窓にふたたびチャールズが見える。
チャールズ『おれに勝てるものか、アンディ・ジャクソン! おれは古つわもののヒッコリだ!』
 雪ボールを雪だるまに投げつける。当らない。四つんばいになって、雪だるまににじり寄る。
サッチャーの声『もう五時です。ケーン夫人……。息子さんと別れを惜しんでおかなければ……』
 ケーン夫人とサッチャーが窓ぎわに立つ。
ケーン夫人『かれのトランクは出来ています……(彼女の声が心の動揺にとぎれる) 私は二週間も前に荷物をまとめておきました』
 彼女はそれ以上話すことが出来ない。入口に行く。
サッチャー『シカゴで教師と会うことになっています。私が自分で連れて行きたいのですが、あなたは何事も秘密にしておきたいらしいので……』
 サッチャーは口をつぐみ、黙ってケーン氏を見つめる。やがてケーン夫人に続く。ケーン氏も、かれらのあとについて行く。
【一行アキ】
 雪のうえに手に小そりをもったチャールズがいる。かれはケーンの家の前で遊んでいる。それは、木製屋根の古びた二階建てである。
小ケーンは、かれに近づいてくる母親たちを注意深く見つめている。
チャールズ『ねえ! ママ! ママ、見える? (雪だるまをさし示す) 僕はその口からやっとパイプを引き抜いたよ。雪が降り出したらまた、くわえさせるよ」
ケーン夫人『坊や、家に入ったほうがいいわよ。お前の支度をしなければなりません……』
サッチャー(チャールズにちかづく)『チャールズ、私はサッチャーだよ……』
ケーン夫人『サッチャーさんですよ。チャールズ』
サッチャー『はじめまして、チャールズ』
ケーン氏『このひとは……東のほうからおいでになった……』
チャールズ『ハロー、ハロー、パパ!』
ケーン氏『ハロー、チャーリー』
ケーン夫人『チャールズや、お前は今夜サッチャーさんと旅に行くのよ。十時の汽車で乗って行くの』
ケーン氏『それは火を吐くあの汽車だよ』
チャールズ『それでママは行くの』
サッチャー『ママは一緒に行きません、チャールズ……』
チャールズ『どこへ行くの』
ケーン氏『お前はシカゴやニューヨークを見るんだ。きっとワシントンもだぞ。ねえ、サッチャーさん』
サッチャー(心から)『勿論そうです。生れてはじめてこんな旅行のできる少年が、私にはうらやましい』
チャールズ『ママ、何故一緒に行かないの』
ケーン夫人『パパとママはここにのこらなければいけないの、チャールズ』
ケーン氏『お前は、今からはこのサッチャーさんと生活するんだ。チャーリイ! そして、金持ちになるんだ。ママはお前のことを考えている。つまりええと、ママと私は、ここでお前の教育をしてはいけないと決心した。きっとお前は、アメリカでも屈指の金持ちになるだろう。そしてお前は………』
ケーン夫人『お前は淋しはらないわね、チャールズ……』
サッチャー『われわれは陽気に生活するさ、チャールズ……うまく行くだろうよ……』
 少年はかれをじっと見る。
サッチャー『チャールズ、握手しよう』
 チャールズは相変らずかれを見つめている。
サッチャー『私はまだそんなに年とっていない。握手しよう! 君は何を言いたいんだね』
 チャールズの手をとろうとする。ひとことも言わずに、小そりでサッチャーの腹を打つ。サッチャーは身をさける。呼吸が苦しそうである。
サッチャー(笑顔をつくろいながら)『チャールズ、足でけらないのかい。そりはなぐり合いの道具じゃない。そりはすべるためのものだ。ニューヨークに行ったら、チャールズ、小そりを買おう……』
 ふたたび、少年の肩に手をかけようとするが、チャールズはその時、足でサッチャーをける。
ケーン夫人『チャールズ!』
 少年は母親にかけより、彼女にだきつく。ケーン夫人も、息子をだきしめる。
チャールズ(狂気のように)『ママ! ママ!』
ケーン夫人『何でもないのよ。チャールズ。何でもないのよ……』
ケーン氏『サッチャーさん、お願いです。この子をなぐってやって下さい』
ケーン夫人(反ぱつする声で)『あなたはそう思うの、ジム』
ケーン氏『そうだ』
 夫を見すえながら、ケーン夫人ははっきりと言う。
ケーン夫人『だからあなたの干渉できないところでかれを教育するのだわ』
【一行アキ】
 古い型の寝台車の車輪がレールを回転してゆく。
【一行アキ】
 夜。
 汽車。
 列車の仕切座席。サッチャーは、チャールズのベッドのかたわらに立っている。かれは黙って少年を眺めている。かれの眼は、いらだちと同情と自己の無力感をあらわしている。
 チャールズは顔を枕にうづめている。胸も張りさけるように号泣している。
【一行アキ】
チャールズ『ママ! ママ!』
 
 この部分を読んだあと、DVDで、映画の当該部分を観てみた。いろいろ気づいたことがあったが、あえて挙げない。一言だけ言えば、「ケーン夫人」(ケーン少年の母)に対する印象が、ほんの少し変わった。

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