◎伊藤博文、ベルリンの酒場で、塙次郎暗殺を懺悔
以前、大場義之さんという未知の研究者から、『大津事件の謎に迫る』(文藝春秋企画出版部、二〇〇六)という本を送っていただいた。オリジナルな考証が光る労作だと思ったが、その時は、大津事件の全体像に、変更を迫るほどの問題提起はないという印象を持った。
昨日、久しぶりにこの本を読んでみたが、これはなかなかの問題作かもしれない、と思いなおした。しかし、本日は、そのことについて解説している余裕がない。
本日は、同書の、二四六~二四七ページから、憲法調査中の伊藤博文が、ベルリンの地で、塙次郎暗殺を懺悔したことに触れているところを紹介したい。
平成一五年(二〇〇三)三月、瀧井一博氏による『文明史のなかの明治憲法』〔講談社、二〇〇三〕という好著が出版された。同書に「美しき魂の告白」なる小見出しで、幕末の長崎にいた著名な医師フランツ・フォン・シーボルトの長男アレクサンダー・フォン・シーボルトの日記が紹介されている(一三三~一三四頁)。
その中でシーボルトは、伊藤博文が語った文久二年(一八六二)一二月二一日夜の国学者塙次郎忠宝〈ハナワ・ジロウ・タダトミ〉(『群書類従』の編纂者塙保己一〈ハナワ・ホキイチ〉の息子)暗殺の一部始終を記している。
酒に酔った伊藤が自分の若い頃の軽はずみな行動をシーボルトの息子に告白したのである。しかし瀧井一博氏はなぜかシーボルトのこの日記の記述が何月何日のものであるか書いていない。
そこで私は国会図書館からこの日記の原書(Alexander von Sievolt“Die Tragebücher〔A 1866‐1892〕”Herausgegeben von Vera Schmidt・Harrassowitz Vertag・Wiezbaden/1999)を、私の住む川西市の図書館を通じて借出し、その年月日を確認した。
それは塙忠宝暗殺事件からほぼ二十年目にあたる一八八二(明治一五)年三月二一日(土曜日)の日記であった。瀧井氏の書物には出ていなかったが、その場に秘書の伊東巳代治〈ミヨジ〉も居合わせたとシーボルトは記していた。
場所はベルリンのヒラーなる酒楼である。伊藤がシーボルトに話したのはその週の火曜日か月曜日であったらしい(日記に火曜日を先に書いているので、火曜日の確立が高いということであろう。日記の一一日〈月曜日〉・一二日〈火曜日〉の欄そのものは空白である。伊藤博文の話が余りにも衝撃的で、聞いてすぐには日記に記せなかったのかもしれない)。
伊藤のこの夜の告白が、シーボルトには伊藤博文の本心からの懺悔だと思えた。彼はこれを綴った日の日記の最後の言葉を「美しき魂の告白!(Gestaendnisse einer schönen Seele!)」と結んでいる。なお、シーボルトは子供のころから父・フランツ・フォン・シーボルトについて、日本語を学んだといわれ、また、一八六三年(安政六)、一二歳のとき、父に伴われて来日している。そのため、日本語には堪能で、日本外務省の通訳などをつとめている。【以下は明日】
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