礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

転形期における智識人と文学のありかた

2017-08-21 03:49:16 | コラムと名言

◎転形期における智識人と文学のありかた

 以前、岩波文庫の『十訓抄』を手に入れようとして、アチコチの古本屋に当たったが、なかなか見つからなかった。ようやく、神保町の古書展で見つけたところ、相当くたびれたもの(一九四二年初版)に三百円の売り値がついていて、さすがに、これは見送った。
 その後、某古書店の百円均一の棚で、一九五七年に出た再版を見つけて入手。永積安明〈ナガヅミ・ヤスアキ〉校訂、★★★、定価一二〇円(★ひとつ四〇円)。
 岩波文庫『十訓抄』の再版には、「解説」と「あとがき」がついている。「あとがき」の最後に、「一九五七年七月 校訂者追記」とあるので、初版には、この「あとがき」がなかったことがわかる。
 岩波文庫『十訓抄』の解説は、九ページに及ぶ。前半は、各種伝本に関する解説、著者についての専門的な考証が続く。後半に入って、校訂者の永積安明は、「十訓抄の本質」を論じ始める。校訂者独自の『十訓抄』論である。これが実に興味深い。なぜか。それは、永積安明が、『十訓抄』の性格や著者の立場を論じるかに見せながら、一九四二年(昭和一七)現在における智識人のあり方、文学のあり方について論じているからである。
 以下、「解説」の後半部を引用してみよう。原文にある傍点( 、、、)は、太字で代用した。
 なお、『十訓抄』の読みは、「じっきんしょう」または「じっくんしょう」であるが、岩波文庫の読みは、「じっくんしょう」である。

 こゝでわれわれは十訓抄の本質について約言しなければならない。
 十訓抄の名は、いはれてゐるやうに、仏典「十善業道経〈ジュウゼンゴウドウキョウ〉」が、十綱目を立てて、仏教的な教戒を試みたのから脱化〈ダッカ〉したものであらう。著者はその序において、「よき方をばこれをすゝめ、あしき方をばこれを誡め〈イマシメ〉」るため、賢愚両端にわたつて、古今の物語の数々を抄出したしいふのであるから、勧善の意図はまことに明瞭である。いはゞ文学的な方法をかりて、「少年のたぐひ」に、平易に耳近く教戒を囁かう〈ササヤコウ〉といふのである。
 だから十訓抄のとり入れた「昔今の物語」といふのは、書紀に始まる史書・鏡物の類、萬葉以下の歌集、袋草子等の歌話集であり、大和・今昔・宇治拾遣物語・古事談等の説話集等であつた。而もそれらの引用が、多くは手を入れることもないそのまゝの採録であつた事も、鎌倉時代に盛んに行はれた数多くの説話集と少しもかはることがないのである。
 鎌倉時代の説話集が、一般に懐古的な要素を少なからず持つてゐたやうに、十訓抄の説話も、多くは平安時代以降の、詩歌・管絃・芸能にまつはる佳話に対する讃歌であつた。さうしてこれらの説話を列挙しながら、教訓の辞をさしはさんでゐるうちに、著者は説話そのものの興味に圧倒されてしまふことがあつて、時に教訓の意識を全く離れた単なる説話集といってもいゝ部分が、それも亦極めて自然に生れてゐるのを読者は発見するであらう。所詮、十訓抄は説話集であつた。あの鎌倉時代の京都の公卿たちが、多かれ少かれおちこんだ精神の閉塞を、はかなくもやりすごさうとした懐古的な一連の説話集の系譜に属するものであつた。
 承久の乱によつて教くうちのめされた人々の鬱屈した心が、これらの説話集には読みとられるのであるが、十訓抄の著者は、そのくづほれた心を、単にすぎさつたものへの憧憬を以て慰めようとしたばかりでなく、実生活においても、とにかく処理してしまはうとしてゐる。さまざまの説話を配列し、それを結びつける著者の言葉に、特に主に仕へる道を説かうとするものが少くなかつたのは、「少年のたぐひをして、心をつくるたよりとなさしめん」がための心づかひによることは、序文に述べてあるとほりであるけれども、六波羅庁に仕へた著者自身の経験が、主に仕へる道を、それもきはめて実際的な道を語らせてゐるのである。更に詳しくいへば、この主は、六波羅庁によつて象徴された鎌倉精神とも云へさうである。京方のひとびとが、東の果てからたち上つて対決を迫つた新しい精神に対して、身もつて示したさまざまな心がまへの一つが、この著者においては、少年の徒に示す道にもおのづから滲み〈ニジミ〉出たといふ事も出来よう。
 少年の徒は主に仕へねばならぬ。生きねばならぬ京方は、鎌倉方に対処しなければならぬ。承久の乱以後既に圧倒的に迫つて来た力に対決しなければならぬ。六波羅庁に仕へた著者は、その力に仕へねばならぬとし、事実仕へる事によつて生きのびた人の一人である。だから十訓抄に主張された教戒は、鎌倉時代初期の貴族の精神に見えた自主的な強烈さがない。それは寧ろ妥協的な、実際的な処世訓に傾いてゐる。
 けれども、かういふ著者の精神は、やはりどこか表向きなのであつた。既に述べたやうに、何処にも鎌倉方などといふもののなかつた時代の説話の興味が、やゝもすると、著者の意図を裏切つて、教戒を忘れさせることがあるからである。実際的な処世の法を、自らの経験を通じて人に説いた著者は、それにもかゝはらず、まだ全くは仕へきれない精神を意識の下に抱いてゐたのである。さういふやりやうのない矛盾を宗教の中に溶解させてしまはうとするところにも、中世の人間らしい著者の生き方がうかゞはれるのであるが、結局は、最早とりかへすすべもなかつた王朝時代のうつくしい生活への、はるかなあこがれが、十訓抄の全巻を貫く底流でさへもあつた。何かにつけて詩歌管絃の佳話を抄入したのも、又さういふ種類の説話を盛るに最もふさはしい第十「可庶幾才能芸業事」の巻が、特別に厖大になつてゐるのも、著者の意識の下にあつて、どうにもとりけしやうのなかつた本心によるのであつた。
 たゞそれらの精神が、こゝではまことに消極的にしか主張されてゐない。而もきはめて妥協的な教戒・処世法の衣をまとつて立ちあらはれてゐる。といふよりは、寧ろ鎌倉時代の多くの説話集がさうであつたやうに、かういつた説話をたのしむといふ事は、新時代の圧力にあつて、それに積極的に参加するでもなく、又はげしく斬りむすぶでもなく、それへの対決を避けてしまつた事になつてゐるのである。さういつてみれば、この書の教戒の精神が、実際的であると同時に、妥協的でさへあつた事は、説話そのものをたのしむといふ事と、最早矛盾するわけでもなかつたことになるのである。
 十訓抄が江戸時代に多くの読者を持つたらしい事は、この時代の写本が多く残つてゐるばかりでなく、元禄以降、何回も何回も翻刻されてゐることによつて明らかであるが、この事実こそ、十訓抄の本質を解く一つの重要な鍵であるだらう。
 だから十訓抄のわれわれにとつての興味は、当然著者の意図したまゝの「教訓」・処世法にあるのではない。転形期の智識人が、時代の閉塞を感じた場合、その対決を避けることが如何に困難であり、又結局無意味なものであるかを、この書がおのづから語つてゐる点にあるのである。又文学が教化に仕へるといふことは、文学そのものの逞しさによるほかには道なく、さういふ原則を無視して、たゞ単に文学の形をかりて教化の具に供するといふことは、反対に文学を不具にすることによつて、結局本来的な教化と精神の作興とに資しえないであらうといふことをも、本書の読者は十分に注目するであらう。かうして十訓抄は今日なほ教訓的である。

今日の名言 2017・8・21

◎十訓抄は今日なほ教訓的である

 岩波文庫『十訓抄』の校訂者・永積安明の言葉。上記コラム参照。ここで言う「今日」とは、1942年(昭和17)の今日という意味である。

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