礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

本庄繁の『本庄日記』には明らかにウソがある

2017-01-17 04:55:46 | コラムと名言

◎本庄繁の『本庄日記』には明らかにウソがある

 二・二六事件で襲撃され殺された渡辺錠太郎教育総監の次女である渡辺和子さん(ノートルダム清心学園理事長)が、昨年一二月三〇日に亡くなられた。おそらくそのためだと思うが、翌三一日に、当ブログの四年以上前のコラム「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」(2012・8・11)へのアクセスが急伸した。このことは、すでに、今月二日のコラム「佐川憲兵伍長を呼び出した人物すらわからない」で述べた。
 その後も、「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」に対するアクセスは、あいかわらず多い。だからというわけではないが、本日は、話題をふたたび、「渡辺錠太郎教育総監襲撃事件」に振る。
 昨年の終わりに、全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会、一九七六)を入手した。一四五〇ページの大冊である。まだ、拾い読みをしているにすぎないが、今年になって、「『本庄日記』の謎」と題された一文に注目した。これは、第二編第一章「史的展望(昭和元年より昭和十一年)」の「国家革新運動」という節にある文章である。ことによると、ここには、きわめて重大な意味を持つ情報が含まれているのではないか。
 とにかく本日は、この「『本庄日記』の謎」という文章を紹介してみたい。

 「本庄日記」の謎
 
 二・二六事件が勃発したとき、憲兵隊中央部で最も早くこの報告を知ったのは、東京憲兵隊特高課長福本亀治少佐であった。〔一九三六年〕二月二十六日午前五時頃、麹町竹平町の憲兵司今部に隣接する、福本少佐の官舎の電話が、暁の静寂を破ってけたたましく鳴った。
 飛び起きた福本少佐が電話に出ると、首相官邸の秘書官からで、
「行ってもいいのですか、行ってもいいのですか」
 という不可解な電話であった。その慌てた異常な口調に事変勃発と感じた福本少佐は、仕度をして東京憲兵隊本部に出勤し、直ちに非常呼集を命じた。
 当時、憲兵司令部は前年〔一九三五年〕の七月に近代建築の四階建新庁舍が完成し、秋にはその隣接地に東京憲兵隊及び麹町憲兵分隊の下士官、兵の官舍が建てられ、本部のボタンを押すと一斉に非常呼集ができるようになっていた。むろん司令官以下の官舎もこの一帯にあった。東京憲兵隊本部と麹町憲兵分隊の下士官、兵が、本部に集合を終るのに約十分もかからない。すると約十分後(午前五時二十分頃)に張込中の第一線の憲兵から、東京隊本部へ事件勃発の電話が入った。
 福本少佐は直ちに同じ建物の三階にある司令部へ報告すると、司令部の宿直はまだ何も知らない。そこで憲兵司令部の総務部長矢野機〈ハカル〉少将に連絡がとられ、ようやく司令部も動き出した。
 当時、憲兵司令官岩佐禄郎〈ロクロウ〉中将は病床にあったので、司令部の指揮は総務部長矢野少将が代行していた。
 一方、歩兵第一連隊の伊藤常男少尉が、週番司令山口一太郎大尉の命令で、連隊付近のハイヤーを叩き起こして、東中野の本庄〔繁〕侍従武官長私邸を訪れたのが、二十六日の午前五時頃である。このとき伊藤少尉は山口大尉から預ってきた結文〈ムスビブミ〉を、本庄侍従武官長に渡したが、この結文は山口大尉が伊藤少尉に渡す直前に筆で書いたもので、
「今出たから、よろしく頼む」
 と書いてあった。これは明らかに事前の連絡を物語っている。ところがこのときの状況を「本庄日記」は次のように記している。
「二月二十六日午前五頃、猶ホ、睡眠中ナリシ繁(本庄)ノ許ニ、歩兵第一連隊ニ週番勤務中ナル、女婿山口大尉ノ使ナリトテ、伊藤少尉周章シク〈あわただしく〉来訪シ、面会ヲ求メシヨリ、何事ノ出来〈いでき〉セシヤヲ憂へツツ会見セン処、同少尉ハ、
 連隊ノ将兵約五百、制止シ切レズ、愈々直接行動ニ移ル。猶ホ、引続き増加ノ傾向アリトノ驚クべキ意味ノ紙片、走リ書キ通知ヲ示ス。
 繁ハ驚キ、即座ニ伊藤少尉ニ万難ヲ排シテ、此ノ如キ行動ヲ阻止スべク、山口ニ伝へヨト指示セシニ、少尉ハ已ニ〈すでに〉出動済ミナルヲ告グ。繁ハ更ニ、兎ニ角〈トニカク〉、輦穀〈れんこく〉ノ下ニ許ス可ラザルノ事ナリ。猶ホ、之ガ制止ニ全力ヲ致スベク、厳ニ山口ニ伝フべク命ジ、同少尉ヲ還シ、直ニ〈たたちに〉岩佐憲兵司令官ニ此事ヲ電話シ、更ニ宿直侍従武官中島少将ニ電話シタル後チ、急ギ付近ノ自動車ヲ呼ビ、宮中ニ出勤ス」(傍線筆者)
 とある。ところがここまでに事実と異なるところがすでに五力所ある。
「伊藤少尉周章シク」とあるが、伊藤少尉は別に慌ててもいない。しかし、これはまあいいとしても、
「睡眠中ナリシ」は明らかに違う。午前五時以前に歩一〔歩兵第一連隊〕の山口大尉は本庄宅に電話をかけ、出動部隊と襲撃目標を本庄に教えている。したがって本庄侍従武官長は、すでに伊藤少尉の来訪をあらかじめ予知していたので、睡眠中ではない。また、伊藤少尉の回想では、本庄がすでに起きていたような気がするとも、袴を着けて玄関へ出て来たともいうが、これは判然としない。しかし、
「何事ノ出来セシヤヲ憂へツツ」とあるのも、本庄はすでに事件の概要を知っていた。さらに、
「引続キ増加ノ傾向アリトノ驚クべキ意味ノ紙片」は、実は「今出たから、よろしく頼む」だけである。次が
「直ニ岩佐憲兵司令官ニ此事ヲ電話シ」とあるが、伊藤少尉は本庄と会見後、約十分ぐらいで帰っている。ところが、この電話が果たして直ちに岩佐憲兵司令官にかけられたかどうか、が実は疑問なのである。
 ここで本庄侍従武官長は自動車で参内したのだが、途中、英国大使館前で、鈴木〔貫太郎〕侍従長襲撃を終えて引上げ、三宅坂へ向かう安藤中隊とすれ違っている。この時間は大体五時四十分頃である。そして参内したのが午前六時頃と書いている。
 本庄の自宅があった東中野から三宅坂まで乗用車で約二十分の距離である。自宅付近のハイヤーを呼んで出かけるまでに、約十分以上はかかるだろう。すると、本庄が自宅を出たのは早くとも午前五時十分頃である。伊藤少尉らが本庄宅を訪問したのは、恐らく午前五時少々前と思われるので、大体時間的には合っている。すると本庄が岩佐憲兵司令官に電話したのは、どうしても午前五時十分以前ということになる。もしそうならば、東京憲兵隊の特高課長福本少佐が、事件勃発を第一線の憲兵から報告を受けるより早く、岩佐憲兵司令官の官舎の電話が鳴って、岩佐から司令部なり東京憲兵隊本部へ連絡がなければおかしい。そこで、さらに推測すれば、岩佐憲兵司令官に電話をしたのがもっと遅かったのではないかということになる。【以下、次回】

 以上が、文章の前半である。文中の傍線(下線)は、原文にあったもので、この傍線(下線)は、「ここまでに事実と異なるところがすでに五力所ある」の「五力所」に対応する。
 さて、歩兵第一連隊の山口一太郎大尉は、いわゆる皇道派で、「蹶起」を支持。二・二六事件の当日は、この山口大尉が「週番司令」にあたっていた。
 また、山口一太郎大尉は、本庄繁侍従武官長の娘婿にあたっており、本庄侍従武官長に対し、以前から、「蹶起」に関する情報を伝えていたようだ。事件当日の早朝も、電話で本庄侍従武官長を起こし、あらかじめ、「出動部隊と襲撃目標」を教えていたとある。
 ただし、この文章の筆者は、山口一太郎大尉が、事件当日の早朝、本庄侍従武官長に電話を入れたとする根拠を示していない。
 いずれにせよ、本庄繁侍従武官長もまた、皇道派または皇道派シンパで、「蹶起」を容認していたと見ることができよう。山口大尉の結び文にあった「今出たから、よろしく頼む」は、「蹶起部隊は、すでに出発したので、宮中工作のほうをよろしく頼む」の意味であろう。
 その後、「蹶起部隊」は、昭和天皇の強い意向から、「叛乱軍」と見なされることになった。ここにいたって、本庄繁は、「日記」を改竄する必要に迫られたということであろう。

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