礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

佐々木惣一は老顔を赤くして激怒した

2017-08-23 05:45:38 | コラムと名言

◎佐々木惣一は老顔を赤くして激怒した

 昨日の続きである。花見達二著『大転秘録――昭和戦後秘記』(妙義出版株式会社、一九五七)の紹介をしている。
 昨日は、「近衛公・悲憤の最期」の章の、「マ元帥日本を掌握」の節を紹介した。本日は、それに続く、「佐々木博士大いに怒る」の節を紹介する。

  佐々木博士大いに怒る
 マッカーサーの命令は近衛にとって青天のヘキレキであった。
 また近衛にとって最大の激励の贈り物であった。さらにいえば近衛文麿に対してアメリカは戦犯容疑者としての逮捕状は出さぬ、という証明でもあった。ひらたくいえば近衛はここで命をひろったようなものであった。
 アチソン顧問がそばからつけ加えるようにいった。
「選挙法改正の場合はナチス的な色彩をのぞくことが必要だ」
 この助言も贈り物であった。近衛はアチソンといつでも会えるよう約束した。
 総司令部を出て車を走らす近衛は緊張と興奮で頬を紅潮させていた。ゆく先は内大臣木戸幸一のところである。近衛は木戸にいった。
「憲法改正を提案しろとマ元帥がいっているが、帝国憲法は不磨の大典だ。やたらに変えるべきじゃない」
 木戸は即座に、
「それはその通りだろう。しかし事態は深刻だ。陛下にもお考えはあるとおもう。憲法を改正するかどうかも研究すべきだし、改正するとしたら、どこをどう改正するかも研究せねばならぬ」
 と答えた。木戸は改正の余儀ないことを知っていた。そこで、近衛は木戸の発意で、内大臣府御用掛となって憲法取調べの役につくことになった。明治憲法は改正の場合、まず天皇の勅命により、それから議会の協賛をうるようになっている。いわば勅命の準備行為である。近衛はそれから渋谷に細川護貞〈モリサダ〉をたずね、松本重治〈シゲハル〉、牛場友彦、富田健治、高木八尺〈ヤサカ〉らをあつめて相談したうえ、京都にいる憲法学者佐々木惣一〈ソウイチ〉に改正案を起草してもらうことにした。
 話がきまると、近衛はもうジッとしていられない気持であった。一刻も早く、改造に着手せねばならぬ。そこで内大臣府から京都府知事を電話に呼び出して佐々木博士にその意をつたえる一方、細川がすぐその晩、京都へ走った。
 佐々木は細川から出場を懇請されたが老博士はウンといわぬ。佐々木は憲法はムヤミに改正すべきでないとの意見であった。当時は憲法学者のなかでも、美濃部達吉らはやはり明治憲法を守り通すべきだと主張し、松本烝治もそうであった。金森徳次郎もそうだった。政界では幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉、吉田茂、鳩山一郎も同意見だった。
 その後、首相幣原はマッカーサーから、
「はやく憲法改正しないとソ連が共和制憲法をおしつけてくるかも知れない。そうなると天皇制はやめねばならなくなる――」
 といって、改正をいそがせられた。マッカーサーは天皇の終戦の大詔の威力を知り、無血占領上陸の有難味がわすれられなかったのだ。幣原は泣いて、これに服従した。そして英訳憲法を鵜ノミにしたのである。
 ところで佐々木の頑強な信念と態度に閉口させられた細川は前後の事情を説いて、なおも懇請をつづけた。そして博士がおもうような改正案を起草することを強調して上京をうながした。佐々木は「一晩まて!」といってその晩は熟考し、あくる朝、ともかく上京すると返事した。
 そのころ、近衛は身辺を気にして細川の家旅や学友だった後藤隆之助の世田谷の家、杉並の山本有三の家などと、転々寝とまりしてあるいていた。やはりその一軒で「わかもと」の長尾欣弥の家が世田谷の玉川ベリにちかいところにあった。近衛は佐々木をこの長尾邸に迎えいれ、半月ぐらいで改正案を作成して呉れ、とたのみこんだ。すると佐々木は老顔を赤くして激怒した。
「それは学者を遇する態度でない。一年かかるか、五年かかるか、これから考えてみねば返事はできない」
 まったくその通りで、学者は職人ではない。しかも明治憲法を不磨と信じるその人に向っていざいそく〔居催促〕式ではムリがある。近衛にしてみればそれだけ焦りと几帳面な気持に飛び立つおもいがしていたのである。
 やっと佐々木を鎮めた近衛は、佐々木を内大臣府御用掛に推した。やがて箱根の奈良屋別館に近衛、佐々木、それに佐々木の門弟磯崎辰五郎(現大阪大学教授)が助手となり、十一月末までかかって改正草案の作成に従事した。晩秋の箱根宮ノ下は寒かった。運命の人近衛と老博士佐々木は額を寄せて、さびしい灯下のもとで想を練るに苦心した。
 明治憲法草案は国民の待望のうちに神奈川県金沢八景の夏島〈ナツシマ〉で起草された。伊藤博文、井上毅〈コワシ〉、伊東巳代治〈ミヨジ〉らは、ここに籠って〈コモッテ〉感激とよろこびにあふれてこれに従事した。それにくらべると箱根の草案作成は占領下の重くるしい空気につつまれて悲しかった。虫の音がかれらの胸にこたえた。
 しかし皇室をまもるため、栄ある大業なのだ。という信念がみんなを励ました。ただここに意外なことが起ってきた。

 ここで佐々木惣一(一八七八~一九六五)は、「老博士」と呼ばれているが、当時まだ、六七歳だったはずである。
 文中に、長尾欣弥という名前が出てくるが、一九四一年(昭和一六)版の『日本人名選』(大阪毎日新聞社)によれば、「わかもと本舗栄養と育児の会」の社長で、自宅は世田谷区深沢町にあった。
 なお、文中に、「明治憲法草案は国民の待望のうちに神奈川県金沢八景の夏島で起草された」とあるが、夏島での憲法草案作成作業は、極秘で進められていたのであり、「国民の待望のうちに」と言えるかどうかは疑問である。

*次回も、『大転秘録』を紹介する予定です。ただし、都合により、明日から数日間、ブログをお休みします。

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