礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

内大臣府は1945年11月24日に廃止

2017-08-28 03:57:15 | コラムと名言

◎内大臣府は1945年11月24日に廃止

 磯崎辰五郎著『統治行為説批判』(有斐閣、一九六五)から、〝佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について〟という論文(初出は、新教育懇話会叢書第八集『佐々木惣一博士の「帝国憲法改正考査」について』新教育懇話会、一九六一)を紹介している。本日は、その二回目。

 佐々木博士の考査着手
 佐々木〔惣一〕先生はそれから一たん京都に帰り、色々な準備をされて〔一九四五年〕十月の二十一日に再度東上、箱根宮の下の「奈良屋旅館」というのに泊られて、その仕事をなさることになったのであります。爾来、先生は非常に熱心に研究され、着々とこの考査の仕事を進めていかれるのでありますが、勿論これは近衛〔文麿〕公と共同の建前〈タテマエ〉になっておりますので、近衛公もしばしば箱根に来られ、佐々木先生と共同研究、打ち合せをされました。ここで一寸〈チョット〉申し上げておきたいのは、その当時、近衛公などが内大臣府で憲法改正の考査を始めるということが新聞などで公けにされた時に、政府側、これは幣原〔喜重郎〕内閣で、御承知の通り松本烝治国務大臣が憲法関係を担当されたのでありますが、その松本国務大臣とか、東大の法学部の教授だった宮沢俊義氏などから、憲法改正のことは内大臣府がやるべきではなく、政府がやるべきものだ、という意見が公にされておりました。佐々木先生はそれに対して、十月二十一日付毎日新聞に、「内大臣府と憲法改正の考査」と題した一文を発表されましたが、それは、帝国憲法には国務大臣は天皇を輔弼〈ホヒツ〉するとあり、内大臣府官制には内大臣は天皇を輔弼するとあり、どちらも天皇を輔弼することになってはいるけれども、しかしながら両者の間には性質上の差異がある。即ち政府の輔弼は、天皇が国務として或る行為を現実に行わせられるべきか、行わせられるべきでないかという事を進言する。内大臣府の輔弼というのは、常時輔弼といって天皇が、国務に関すると否とを問わず、御行動をお取りになられる際の御判断の参考のために意見を上ることである。だから憲法の改正に関して、天皇が現実の行為を行われることについて輔弼することは勿論政府でなければ出来ない。けれども天皇が憲法の改正の問題について御行動されるときの御判断の御参考までに、勅命を受けて内大臣府においてこれを考査し意見を上るということは、内大臣府の当然の職責であって憲法違反でも何でもない、それをそうでないように言うのは、二つの輔弼の性格を混同しておるからだ、という見解を公けにされました。
 ところで、内大臣府の仕事に刺戟〈シゲキ〉されたか、政府の方でもやはり松本国務大臣を中心にして、「憲法問題調査委員会」というものを作り、その総会又は委員会がぼつぼつ始まるようになりました。佐々木先生にもこの憲法問題調査委員会の顧問の一人になってくれるよう政府から依頼があったそうです。しかし先生は、内大臣がやっておる仕事を政府が憲法違反だというような態度を改めないのに、自分がそれを引き受ける訳にはいかぬ、というので、はっきりお断わりになっているのであります。
 考査の打切と佐々木博士の奉答
 それはともかく、こちらの箱根の方ではだんだんと仕事を進めておられたのでありますが、十一月二十日に近衛公が見えまして、「いよいよ内大臣府はこの二十四日に廃止になることに決まった」という報告がなされました。これは、内大臣府が現に憲法改正の考査を始めておるにもかかわらず、それが何時〈イツ〉済むかというような事について何の相談もせずに、一方的に内大臣府を二十四日に廃止してしまうと、こう決まってしまったのでありますから、ある意味に於いては内大臣府の仕事を打ち切らす魂胆だというようにも受け取られます。
 この報告をお聞きになった時に、佐々木先生は非常に憤慨なさった一幕もあるのでありますが、やがてその感情を押えられて、近衛公と話し合って、近衛公は要綱的な簡単な奉答をする、佐々木先生は兎に角〈トニカク〉或る一つのまとまった文書になったものを急いでこしらえて奉答するということになり、それでまず二十二日に近衛公はその要綱的な奉答をされ、次いで翌二十三日に佐々木先生は大急ぎでまとめた文書を以て奉答されたのであります。二十日までは割合にゆっくりとやって来られました。大体十二月一ぱいにこの仕事を終ればよいと考えておられた様ですが、右に述べ.た通り十一月二十日になって、急にその二十四日に内大臣府廃止というのですから、二十三日中に何んとしてでも奉答しなくてはならないことになりまして、これからその両日間の佐々木先生のお働きというものは全く驚歎のほかありませんでした。夜を日に次いで先生のぺンは走りつづけたのであります。
 われわれは、―われわれと言いますのは京大の大石義雄教授、現在は京大ですが、その時は東淀川高工の校長をしておられましたその大石教授と、それから私とでありますが、われわれ二人が清書する訳ですけれども、二人の清書の方が追いつきかねる有様でした。これはやはり常日頃〈ツネヒゴロ〉十分に研究を積み、蓄えるところが非常に多くなければこういうふうにうまくはいかないだろうと、改めて先生の学識というか蘊蓄〈ウンチク〉というか、そういうものの深さをしみじみと感じ入った次第であります。それで、佐々木先生の奉答が二十三日にやっと間に合いまして、それから二十四日に佐々木先生は宮内庁で天皇陛下に御進講申し上げました。
 このようにして一応大任を果された。尤も細かに言いますと、なお後に述べますが、理由書というものがどうしても間に合わなかったものですから、それは後から差し出すという事になり、御進講を済ませた後二、三日かかってこの理由書を書き上げ、それでいよいよ先生が任を果されて京都へお帰りになったのが十一月二十八日。こういうことになっております。
 ここで一寸余計な事ですけれども、佐々木先生がその当時作られた俳句の二、三を御紹介しておきましょう。
 まず「箱根山居」と題して、「寒冷の秋にこもりて任重し」。奉答書を捧呈した時の句は「山を出て御所へいそぐ日小春なる」。それから御進講を終えた時のほっとしたお感じですが「さがり来て漸く感ず寒さかな」。御進講を済ませての帰りに先生は明治神宮へお参りされました。その時「明治神宮参拝」と題しまして、「から風や社頭に祈る老一人」の句があります。なお二十八日にいよいよ先生が京都に帰られるというその前日の夜に、宿のお上さんの頼みにより記念帳に書かれましたのは、「皇国新興道如何、按法在此老書生」という文字でした。
 それはともあれ、政府の方の憲法の調査も、総会とか委員会がぼつぼつと開かれておりましたが遅々として進まず、いわゆる松本四原則の発表とかいろいろな経緯がありまして、漸く翌年(二十一年)の三月六日になって、政府の憲法草案要綱が出て、初めて帝国憲法をどういうふうに変えるかという具体的な政府側の構想が明かになった訳であります。【以下、次回】

 この箇所を読むと、近衛文麿、佐々木惣一による「憲法改定」の作業を補佐したのが、大石義雄と磯崎辰五郎の両名であったことがわかる。
 礒崎によれば、「われわれ」の役割は、佐々木博士の文章を清書するというものだったという。しかし、これは過度に控え目な言い回しと言うべきであろう。実際のところは、両名とも、佐々木博士に協力する形で、「憲法改定」の作業に深く関与したと理解するのが自然である。

 
 
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