◎死ぬではないぞ、裁判に出て陛下を守るのだ
花見達二著『大転秘録――昭和戦後秘記』(妙義出版株式会社、一九五七)の紹介をしている。本日は、その三回目(最後)。
一昨日は、「近衛公・悲憤の最期」の章の、「佐々木博士大いに怒る」の節を紹介した。本日は、それに続く、「不信の逮捕状来る」の節を紹介する。
不 信 の 逮 捕 状 来 る
箱根宮ノ下の奈良屋別館で憲法草案を練っている一方、近衛側近の富田〔健治〕、牛場〔友彦〕、松本〔重治〕、高木〔八尺〕、細川〔護貞〕らは総司令部をたずねて向うの改正意見をきいた。近衛〔文麿〕がそれを参考にして欲しいというと、佐々木〔惣一〕は怒って、
「そんなことを学者の良心がゆるすとおもうか。そんなことをいうならすぐにも御用掛をやめさせてもらう」
と立ちあがる気配をみせた。近衛は佐々木を怒らせないために苦心した。ところが東久邇〔東久邇宮稔彦王〕内閣は突如として総辞職しなければならなくなった。それは内務大臣山崎巌〈イワオ〉に罷免の指令がでたばかりか、警視総監以下全国警察部長にも罷免の旋風が見舞ったのである。ツイ十日ばかり前にマッカーサーは東久邇宮に向って「東久邇内閣に不適格な大臣はひとりもいない」といいながらこの仕打ちである。これは本国の命令によるものではあったが、この調子でゆくと最高司令官マッカーサーの言明もいつ変るか、どこまで信用していいか、判ったものではない。これが近衛に暗い気持を投げかけた。そしてマッカーサーに対する不信の第一が生まれた。
つぎに十月九日、幣原〔喜重郎〕内閣が成立した。そして宮中で近衛が憲法改正をやっていることに猛反対がおきた。「憲法改正の仕事は国務である。内大臣府の所管事項じゃない」という反対である。国務相松本烝治はその急先鋒であった。
そこで十月十三日午後、近衛は首相官邸に幣原、松本をたずねて論争した。その結果、改正は天皇の勅令で発議されるのだから、内大臣府が関係するのは不自然でない、さればといって、むろん改正をやるには内閣でも調査をやるが好い、と双方の折り合いがついた。そこで内閣ほうは憲法学者清水澄〈トオル〉、美濃部達吉以下各大学の主任教授を調査委員にして改正に乗り出した。佐々木惣一にも参加をたのんだが、佐々木は「両方はできぬ」と頑として松本の懇請をハネつけた。
そんなわけで近衛と幣原内閣の妥協はついたが、政界の一部や新聞、海外論調は近衛を非難した。これには「戦前の大物」として近衛の責任を追求する共産派もあれば、近衛を政界からシメ出そうという陰謀組もいた。しかもこの世論はあまり近衛に不利であった。弁解する立場をもたぬかれに対して攻撃の矢はきびしすぎた。戦前、あまりに花やかな近衛であっただけに集中攻撃の目標にされると割はわるかった。
マッカーサーはこの世論を気にし出した。そしてついに「総司令部は近衛文麿に憲法改正を命じたおぼえはない」と声明した。これをウラ張りするように連合軍防諜部長の代将ソープは「日本のどんな戦犯容疑者も新政党に加入はできぬ」と声明した。これは近衛が新党運動にかつがれていることについてどうおもうか、という内外新聞記者団の質問に答えた声明だけに、近衛や近衛の周囲につよくひびいた。
近衛のマッカーサーに対する第二の不信がここに生まれた。
十一月半ば、箱根での憲法草案起草は完了にちかづいていたが、近衛の気持は暗澹たるものであった。そしてアメリカの爆撃調査団がいろいろ近衛を調べるので、近衛の心境には墨のように不快な黒い渦が湧いた。十一月十九日、松岡洋右〈ヨウスケ〉、荒木貞夫ら十一名に逮捕状が発せられた。元待従武官長陸軍大将本庄繁が自決した。
憲法草案は完成した。
十一月廿二日、近衛はこれを天皇に奉答した。天皇主権を原則とする全文百カ条で逐条ごとに理由書がつけられた。近衛はこの草案のほかに個条書的な概略書を自筆して追加奉答した。草案本文は佐々木が御進講、逐条の御説明にあたった。一切の大役をおえた近衛は、その日、公爵拝辞の手つづきをとった。拝辞の上奏文は元枢密顧問官竹越与三郎〈タケコシ・ヨサブロウ〉に執筆させた。
占領下で不磨の大典に心ならずも改正の努力をしなければならなかった近衛は、その草案答申の日に、千三百年の家系をもつ「公爵近衛家」に対しても、みずからすすんで名門の誉れを閉じた。
むろん、近衛が皇室をまもる気持には一片の変化もなかった。
だが、くるものはやってきた。十二月六日、近衛、木戸伯爵酒井忠正ら九名に逮捕状が発せられた。偶然だったが、近衛は政界の長老伊沢多喜男〈イサワ・タキオ〉に会った。伊沢が近衛を励ました。
「死ぬではないぞ、裁判に出て陛下を守るのだ」
「大丈夫、お上の前に立ちはだかってお護りする」
と答える近衛の眉宇〈ビウ〉には異様に烈しい感情の波うっているのがうかがわれた。
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