礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

武蔵の人コワクビは自ら水に投じた

2024-05-03 00:07:21 | コラムと名言

◎武蔵の人コワクビは自ら水に投じた

 末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)の第二章「池の景観」から、第二節「池の名と伝説」を紹介している。本日は、その六回目。{  }は、割り注を示す。

 茨田【まんだ】 書紀 仁徳天皇十一年十月茨田堤〈マンダノツツミ〉を築いたときに次の話を記してゐる。これは事実の出来事であつた様である。築堤の事業がなかなか困難であつて幾たびの構築も壊れた。その時天皇の夢に現はれた神が、教へて曰く〈ノタマワク〉武蔵の人強頸【こはくび】、河内の人茨田連〈マンダノムラジ〉衫子【ころものこ】の二人を沈めて河の神を祭らしめたならば完成するであらうと。そこで二人は命によつて河の神を祭つたのであつたが、強頸は嘆き悲しんで自ら水に投じて歿つた〈ナクナッタ〉。そのためであるか堤が完成した。衫子はこの時大きな匏〈ヒサゴ〉二個をとって塞ぐことのむづかしい場所へ行き、匏を河に投げ入れて、請ふて云ふのは河の神が祟〈タタリ〉をしてわれを以て幣〔みつぎもの〕となさんとするによりいまこゝに来た、必ずわれを得んと思ふならば、この匏を沈め、そして泛ばせ〈ウカバセ〉なければ私は神を正しいものとして水中に入るであらう。しかしながら若し匏を沈めることが出来なければ、それは偽神であるから私は徒らにこの身を水に沈めることうぃしないであらうと水神に向つて宣言をして匏の浮沈を見てゐたが遂に沈むことなくして遠く流れて行つた。これで衫子は徒らな死を免れたことを記してゐる。この場所を強頸断間【こはくびたえま】・衫子断間【ころもこたえま】と名付けたと云ふこの話しはいはゆる人柱伝説であるが衫子の奇智によつてその人が死を免れ、また従事する人々の心理的利用をなしたものでもあつた。前き〈サキ〉に記した抑池の伝説もまた匏を取扱つてゐるがかやうなところに出自をもつものと思はれる。たゞどうした原因からこの匏を思ひついたのかも知れないが衫子の奇智もまた愛すべきものがある。{書紀仁徳六十七年の終りのも似た話しがある。}

 椎田池 【略】

 第二節「池の名と伝説」は、このあとに、「俊乗坊池」(しゅんじょうぼういけ)という項があり、これが第二節における最後の項となっている。この「俊乗坊池」は、ぜひとも紹介したい項だが、その紹介はしばらくあとになろう。明日は、いったん話題を変える。

*このブログの人気記事 2024・5・3(8・9位になぜか「土の香」、10位に極めて珍しいものが)

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