◎総裁の死は単なる徒死ではなかった
『文藝春秋』臨時増刊「昭和の三十五大事件」(1955年8月)から、加賀山之雄「下山事件の蔭に」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
総裁の死に報いるもの
考えれば考える程当時不思議なことが起きた。五日の夕刻行衛不明が伝えられた直後位東鉄の労働組合事務室に電話があつて総裁が自動車事故で亡くなつたとの報せがあり組合員が喚声をあげた(これは後で尾久〈オグ〉駅からの電話とまでわかつたが誰がかけたものか遂に判明しない)という報告だの、同駅の便所の中に下山と書いてこれを抹殺する×が書いてあつたり、事件に一番関係が深いと見られる田端機関区では七月一日から九日迄の業務日誌が切り取られていたり、問題の貨物列車は起こし当番が乗務の機関士を起こすのが邇れその上何時の間にか機関車のかま〔ボイラー〕のプレッシャー〔蒸気圧〕を下げてあつて、その為に発車が十六分位も遅らされたりした事実がある。
一番最後のものなどは前に通過する電車と貨物列車の通過との間隔を引き延ばし作業をし易くする為の故意の行動と見られないことはない。そうとなれば明かに犯罪に関係があることになるのだが、不思議にも偶然の出来事ということになり、因果関係は遂にたぐり出し得なかつたのである。
共産党の連中は或はドイツの国会焼打事件を例にひいて、右翼の陰謀であると宣伝し又一方では心ならずも職員を整理することが良心の呵責に堪えられなかつた為の自殺だなどと誠しやかにとなえた。何故こう自殺、自段と問われもせぬのに宣伝しなければならないのか。私にも不思議に思はれたが、後で考えれば同月二十五日、二十日間を置いて三鷹の電車暴走事件が起きた。この時の事件発生と同時に現場で党員が六三型の自然発車だとわめきたてた。
越えて八月十八日、同じく二十日程置いて松川では自然脱線顚覆と思わせるような事件が起きた。当時は共産党の活動に国会や新聞などに国鉄線の脆弱な処や欠陥を誇大に撮影して売り込み、かく国鉄はきずだらけだ、これは幹部と組織が腐敗している為だと宣伝に躍起であつたことがあつた。真相であるならば国鉄が予算を得る手伝いをして呉れるので甚だ結構なのだが、多くは欺瞞であり最大限の誇張が主であつた。
当時我々がひそかに得た情報に正確な言葉は忘れたが、『革命の近いことを確信して各自が持場持場で飽く迄闘争をすること。革命を起こすには先ず人心不安を起こす事が先決であること。社会や施設の欠陥をついて、その欠陥の為に人心不安をかもすような事件が次次と起るよう企らむこと。それはどこ迄も人為的でなく自然発生的に見せかけるよう仕組むこと。」というような趣旨の指令がある。
私はこの指令と三つの相次いだ何れもせいさんな事件との因果関係までつきとめていないから勿論何とも断定出来ないが、これらの事件がいずれも社会と施設の弱点をついたものであり、揃つて自然発生的に起きたことに何だか関連性があるような印象をどうしても払い除くことが出来ないのである。
下山総裁の死はこのように依然疑雲に包まれたまゝ六年を閲し〈ケミシ〉、近親をはじめ我々関係者一同悲涙をとゞめる術〈スベ〉もないが、国鉄としては多年の懸案の一つが解決して合理化への軌道はひかれ、一方組合の反省をも促す契機となつたことは事実であり、同時に一般の経営者側の奮起もみられるようになり、我が国の産業史上一時機を画する様になつた。
総裁の死はこの点からいえば単なる徒死〈トシ〉ではなかつたと考えるのであつて、故総裁の霊も今後国鉄の再建が真の実を結び、我が国の自立経済が確立された暁には僅かに慰められるところがあるのではないかとひそかに思うのである。(緑風会、参議院議員)〈214~215ページ〉
下山事件の直後、他殺説=左翼陰謀説を唱えたのは、内閣官房長官(第三次吉田内閣)の増田甲子七(ますだ・かねしち、1898~1985)である。ここで、加賀山が示唆しているのも他殺説=左翼陰謀説である。
私見によれば、結果的に、国鉄の合理化に力を貸したのは、この「他殺説=左翼陰謀説」であって、下山総裁の「自殺」は、こうした形で、政治的に利用されたのであろう。また、これは憶測になるが、増田甲子七に対し「他殺説=左翼陰謀説」を注進したのは、加賀山副総裁ではなかったか。
『文藝春秋』臨時増刊「昭和の三十五大事件」(1955年8月)から、加賀山之雄「下山事件の蔭に」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
総裁の死に報いるもの
考えれば考える程当時不思議なことが起きた。五日の夕刻行衛不明が伝えられた直後位東鉄の労働組合事務室に電話があつて総裁が自動車事故で亡くなつたとの報せがあり組合員が喚声をあげた(これは後で尾久〈オグ〉駅からの電話とまでわかつたが誰がかけたものか遂に判明しない)という報告だの、同駅の便所の中に下山と書いてこれを抹殺する×が書いてあつたり、事件に一番関係が深いと見られる田端機関区では七月一日から九日迄の業務日誌が切り取られていたり、問題の貨物列車は起こし当番が乗務の機関士を起こすのが邇れその上何時の間にか機関車のかま〔ボイラー〕のプレッシャー〔蒸気圧〕を下げてあつて、その為に発車が十六分位も遅らされたりした事実がある。
一番最後のものなどは前に通過する電車と貨物列車の通過との間隔を引き延ばし作業をし易くする為の故意の行動と見られないことはない。そうとなれば明かに犯罪に関係があることになるのだが、不思議にも偶然の出来事ということになり、因果関係は遂にたぐり出し得なかつたのである。
共産党の連中は或はドイツの国会焼打事件を例にひいて、右翼の陰謀であると宣伝し又一方では心ならずも職員を整理することが良心の呵責に堪えられなかつた為の自殺だなどと誠しやかにとなえた。何故こう自殺、自段と問われもせぬのに宣伝しなければならないのか。私にも不思議に思はれたが、後で考えれば同月二十五日、二十日間を置いて三鷹の電車暴走事件が起きた。この時の事件発生と同時に現場で党員が六三型の自然発車だとわめきたてた。
越えて八月十八日、同じく二十日程置いて松川では自然脱線顚覆と思わせるような事件が起きた。当時は共産党の活動に国会や新聞などに国鉄線の脆弱な処や欠陥を誇大に撮影して売り込み、かく国鉄はきずだらけだ、これは幹部と組織が腐敗している為だと宣伝に躍起であつたことがあつた。真相であるならば国鉄が予算を得る手伝いをして呉れるので甚だ結構なのだが、多くは欺瞞であり最大限の誇張が主であつた。
当時我々がひそかに得た情報に正確な言葉は忘れたが、『革命の近いことを確信して各自が持場持場で飽く迄闘争をすること。革命を起こすには先ず人心不安を起こす事が先決であること。社会や施設の欠陥をついて、その欠陥の為に人心不安をかもすような事件が次次と起るよう企らむこと。それはどこ迄も人為的でなく自然発生的に見せかけるよう仕組むこと。」というような趣旨の指令がある。
私はこの指令と三つの相次いだ何れもせいさんな事件との因果関係までつきとめていないから勿論何とも断定出来ないが、これらの事件がいずれも社会と施設の弱点をついたものであり、揃つて自然発生的に起きたことに何だか関連性があるような印象をどうしても払い除くことが出来ないのである。
下山総裁の死はこのように依然疑雲に包まれたまゝ六年を閲し〈ケミシ〉、近親をはじめ我々関係者一同悲涙をとゞめる術〈スベ〉もないが、国鉄としては多年の懸案の一つが解決して合理化への軌道はひかれ、一方組合の反省をも促す契機となつたことは事実であり、同時に一般の経営者側の奮起もみられるようになり、我が国の産業史上一時機を画する様になつた。
総裁の死はこの点からいえば単なる徒死〈トシ〉ではなかつたと考えるのであつて、故総裁の霊も今後国鉄の再建が真の実を結び、我が国の自立経済が確立された暁には僅かに慰められるところがあるのではないかとひそかに思うのである。(緑風会、参議院議員)〈214~215ページ〉
下山事件の直後、他殺説=左翼陰謀説を唱えたのは、内閣官房長官(第三次吉田内閣)の増田甲子七(ますだ・かねしち、1898~1985)である。ここで、加賀山が示唆しているのも他殺説=左翼陰謀説である。
私見によれば、結果的に、国鉄の合理化に力を貸したのは、この「他殺説=左翼陰謀説」であって、下山総裁の「自殺」は、こうした形で、政治的に利用されたのであろう。また、これは憶測になるが、増田甲子七に対し「他殺説=左翼陰謀説」を注進したのは、加賀山副総裁ではなかったか。
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