◎先輩のお話から重要な点が明らかになりました(鈴木安蔵)
『改造』1952年4月増刊号から、「憲法は二週間で出来たか?」という座談会記録を紹介している。本日は、その三回目。
重大示唆来たる!
芦田 その頃は、僕は幣原内閣の末席を汚しておつたから〔厚生大臣〕、大部分の経過はしつているがマッカーサーが六項目の指令を出した。その六項目の中に憲法の改正、労働法の発布その他数々の項目を出し、そして幣原〔喜重郎〕さんが指令に基いて改正をしたということで、先程の岩淵〔辰雄〕君のお話のように、松本烝治博士を担任の国務大臣にして、立案研究したわけなんだがそれがなかなか進まない。その中〈ウチ〉に昭和廿一年〔1956〕二月中旬になつて、民生局長ホイットニー、次長ケーデイスが、外相官邸で吉田〔茂〕外務大臣、松本国務大臣二人の前で、総司令部が作つた憲法草案というものを渡した。尤も其直前に松本さんの用意しておつた草案を対案として向うへ出してあつたわけです。それからマ司令部と幣原内閣との間の折衝が始つたわけなんだが、結局日本政府の案として採用されたものは、当初一院制度で議会をやろうといつていたのを二院制度にするという修正を出した点以外は、あまり日本政府の原案は通らなかつた。そして三月四日を期して、憲法要綱を発布すべしと、こういう命令が来た。それで法制局その他の人々が、殆んど徹宵〈テッショウ〉で案を作るというか翻訳して、三月八日に初めて新憲法要綱を公表したわけです。だからマーク・ゲインの『ニッポン日記』に書いているように、東京にいる新聞記者や役人を寄せ集めて書いたという説は信用しないんで、アメリカでも錚々たる憲法学者を連れて来ておつたんだからね。
鈴木 今まで二人の先輩のお話を伺つていて、非常に僕達にとつてもよくつかめなかつた重要な点が明かになりました。それで今芦田〔均〕さんの言われた案を突きつけられて翻訳して発布するということ、それから岩淵さんのいわれた民間の方で世論をあげようというその間の空白。これはちょつと大切なことですから、どうかと思つていましたが、今日のお話でよくわかつて嬉しく思いました。憲法改正の問題が相当問題になつても、政府の方でもなかなか渋つている。それにそのころの学界でも、相当多くの学者は、明治憲法は軍部なんかに悪用されたけれども、憲法自身は運用を正しくやれば、民主主義的に行けるという姑息な議論が多かつたんですが、私はそんな馬鹿なことはないといつておりましたが、十月十八日に放送で、わかりきつたことですが、憲法の改正問題が、全面的にやらなければならないということを言つた。放送で取上げられることになつたことからみても、もう十月早々から民間の間に改正必要論出ておつたことは明かだ。われわれの憲法研究会が一番最初の改正案を出すに至つたのは、今岩淵さんのお話を聞いて分つたが、あのころ日本文化人連盟の会議で、高野岩三郎先生が、ぜひこの際われわれの手で、一つ憲法改正運動を起さなければならない。大切なことだから案を作ろう。また多くの人達を糾合〈キュウゴウ〉しようじやないか。それで室伏〔高信〕さんはあゝいう創意に富んだ人だから、斡旋〈アッセン〉役を買つて出てやつたが、僕は高野先生と室伏さんを、この運動の記念すべき人だと思つておりましたが、今岩淵さんのお話を聞いてみて、岩淵さんや馬場〔恒吾〕さんが出て来られた理由がわかりました。その時に、今日は詳しいお話を申上げる時間もありませんので、結論だけを申上げますと、こゝに持つて来たのは、凸版でも作つておく必要がありますが、高野岩三郎先生が、日本共和国憲法試案要綱というのを、十二月一日に私共にこれを手渡して、僕はこれでやるべきだと思う。と言われた。すでにその前から案は考えられていたし、われわれも討議をはじめていたか、十一月の初めか十月の終りだつたと思いますが‥‥。〈16~17ページ〉【以下、次回】
鈴木安蔵の発言中に、「十月十八日に放送で」とあるのは、1945年(昭和20)10月18日(木)に、鈴木がNHKラジオで、明治憲法の根本的改正の必要性を主張したことを指す(鈴木安蔵『憲法制定前後』青木書店1977、74ページ)。
『改造』1952年4月増刊号から、「憲法は二週間で出来たか?」という座談会記録を紹介している。本日は、その三回目。
重大示唆来たる!
芦田 その頃は、僕は幣原内閣の末席を汚しておつたから〔厚生大臣〕、大部分の経過はしつているがマッカーサーが六項目の指令を出した。その六項目の中に憲法の改正、労働法の発布その他数々の項目を出し、そして幣原〔喜重郎〕さんが指令に基いて改正をしたということで、先程の岩淵〔辰雄〕君のお話のように、松本烝治博士を担任の国務大臣にして、立案研究したわけなんだがそれがなかなか進まない。その中〈ウチ〉に昭和廿一年〔1956〕二月中旬になつて、民生局長ホイットニー、次長ケーデイスが、外相官邸で吉田〔茂〕外務大臣、松本国務大臣二人の前で、総司令部が作つた憲法草案というものを渡した。尤も其直前に松本さんの用意しておつた草案を対案として向うへ出してあつたわけです。それからマ司令部と幣原内閣との間の折衝が始つたわけなんだが、結局日本政府の案として採用されたものは、当初一院制度で議会をやろうといつていたのを二院制度にするという修正を出した点以外は、あまり日本政府の原案は通らなかつた。そして三月四日を期して、憲法要綱を発布すべしと、こういう命令が来た。それで法制局その他の人々が、殆んど徹宵〈テッショウ〉で案を作るというか翻訳して、三月八日に初めて新憲法要綱を公表したわけです。だからマーク・ゲインの『ニッポン日記』に書いているように、東京にいる新聞記者や役人を寄せ集めて書いたという説は信用しないんで、アメリカでも錚々たる憲法学者を連れて来ておつたんだからね。
鈴木 今まで二人の先輩のお話を伺つていて、非常に僕達にとつてもよくつかめなかつた重要な点が明かになりました。それで今芦田〔均〕さんの言われた案を突きつけられて翻訳して発布するということ、それから岩淵さんのいわれた民間の方で世論をあげようというその間の空白。これはちょつと大切なことですから、どうかと思つていましたが、今日のお話でよくわかつて嬉しく思いました。憲法改正の問題が相当問題になつても、政府の方でもなかなか渋つている。それにそのころの学界でも、相当多くの学者は、明治憲法は軍部なんかに悪用されたけれども、憲法自身は運用を正しくやれば、民主主義的に行けるという姑息な議論が多かつたんですが、私はそんな馬鹿なことはないといつておりましたが、十月十八日に放送で、わかりきつたことですが、憲法の改正問題が、全面的にやらなければならないということを言つた。放送で取上げられることになつたことからみても、もう十月早々から民間の間に改正必要論出ておつたことは明かだ。われわれの憲法研究会が一番最初の改正案を出すに至つたのは、今岩淵さんのお話を聞いて分つたが、あのころ日本文化人連盟の会議で、高野岩三郎先生が、ぜひこの際われわれの手で、一つ憲法改正運動を起さなければならない。大切なことだから案を作ろう。また多くの人達を糾合〈キュウゴウ〉しようじやないか。それで室伏〔高信〕さんはあゝいう創意に富んだ人だから、斡旋〈アッセン〉役を買つて出てやつたが、僕は高野先生と室伏さんを、この運動の記念すべき人だと思つておりましたが、今岩淵さんのお話を聞いてみて、岩淵さんや馬場〔恒吾〕さんが出て来られた理由がわかりました。その時に、今日は詳しいお話を申上げる時間もありませんので、結論だけを申上げますと、こゝに持つて来たのは、凸版でも作つておく必要がありますが、高野岩三郎先生が、日本共和国憲法試案要綱というのを、十二月一日に私共にこれを手渡して、僕はこれでやるべきだと思う。と言われた。すでにその前から案は考えられていたし、われわれも討議をはじめていたか、十一月の初めか十月の終りだつたと思いますが‥‥。〈16~17ページ〉【以下、次回】
鈴木安蔵の発言中に、「十月十八日に放送で」とあるのは、1945年(昭和20)10月18日(木)に、鈴木がNHKラジオで、明治憲法の根本的改正の必要性を主張したことを指す(鈴木安蔵『憲法制定前後』青木書店1977、74ページ)。
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