礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5

2018-08-19 03:09:47 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その五回目。許されれば、西原博史氏による反論を聞きたかった箇所である。

② 批評
1) 西原には、直接に教育に携わる教師(本件の場合は専科教師)の専門性が、教師単位でも学校単位でも校長の権限逸脱の是正メカニズムであるという学校における権限複合の発想は弱い。
 そもそも、音楽専科・一般教師であれ学校教育法で「教育にたずさわる」(学校教育法)とされた個々の教師及びその集団の専門性を学校の意思決定に組み込まない限り「君が代のピアノ伴奏が音楽的、教育的に誤り」かどうかの学校単位の判断は有効にはできない〔49〕。西原は、学習指導要領からは一義的には導出できない儀式の細部がを校長の一存で権限として決定できることを認めるが、その段階で、直接子どもを指導する「教育にたずさわる」教師の裁量権はほとんどなくなってしまう。学校単位の教育の集団性が校長の強力な権限で置き換えられていて、教師の集団性の意義が消失している。教育法令の行政解釈の固い壁を意識しての主張の展開と思われるが、行政解釈がいかに堅固であろうとも、ここは、弁論の中で一度は原則的に主張すべきところである。しかしここは、公立学校教師をまず国家権力の末端としての公務員として位置づけること、学校単位の教師の集団性を積極的には位置づけないこと、こういった西原学説の特色がよく現れているところである。
 「教員個人の思想・良心の自由は、まさに校長による学校の方針決定が学校内における校長の絶対主義的独裁に陥らないために認められていなければならない最低限の制度条件である。」〔50〕というが、個々の教師が無防備に単独で行政権力に対峙することを迫られる以前に、教師・教師集団の専門性を組み込んだ学校特有の意思決定方式が「絶対主義的独裁」を許さないはずのものである。
2) 西原が前提していると思われる学校についての組織モデルは、公務員法(国家・地方)に基づく官僚制モデルと思われる。
 それは、行政における官僚制システムが学校にの教育活動においても貫かれているという学校像である。教育公務員の属性としてまず<公務員>であることを強調すれば、暗黙の内に官僚制的な意思決定方式や公共性を前提とすることになりやすい。となれば、校長の細部にわたる決定権は否定できない。専門職としての個々の教師・集団としての教師のを不可欠な要素として組み込んだ学校における権限複合の発想は出てきにくい。第2章で紹介した『世界2007.5』のY氏の事例に見られるように、西原にとっては教師の集団性は、主に生徒の人権を抑圧する性格のものとしてとらえられている。これは西原学説に一貫する特色である。
 第二審東京高裁判決が教育の公共性を校長の裁量権と同一視していると批判するが、最高裁判決も含め司法が認めた職務命令の公共性の重要な要素の一つには公務員法によって担保される官僚組織としての秩序がある。この点は、最高裁判決における藤田反対意見がいみじくも着目しその議論の前提としているところである。その部分を引用する(下線は引用者)
「学校行政の究極的目的が「子供の教育を受ける利益の達成」でなければならないことは,自明の事柄であって,それ自体は極めて重要な公共の利益であるが,そのことから直接に,音楽教師に対し入学式において「君が代」のピアノ伴奏をすることを強制しなければならないという結論が導き出せるわけではない。本件の場合,「公共の利益の達成」は,いわば,「子供の教育を受ける利益の達成」という究極の(一般的・抽象的な)目的のために,「入学式における『君が代』斉唱の指導」という中間目的が(学習指導要領により)設定され,それを実現するために,いわば,「入学式進行における秩序・紀律」及び「(組織決定を遂行するための)校長の指揮権の確保」を具体的な目的とした「『君が代』のピアノ伴奏をすること」という職務命令が発せられるという構造によって行われることとされているのである。〔51〕 」
藤田自身はこの「構造」自体を批判しているわけではないが、本件における職務命令についての行政側のいう<公共性>を的確に把握した記述である。
 最高裁判決法廷意見には3―(3)として、憲法第15条の公務員の全体の奉仕者性から出発して学校教育法の教諭の職責に言及せずに本事件の職務命令の合理性を論証する部分がある〔52〕。上述1)の点とあわせて、西原学説はここでの法廷意見の論理展開とかなりの段階まで共通するものを持っている。教育公務員の<公務>という性格から出発して学校論・教師論を展開する西原学説では<行政組織の秩序>を<公共性>とする行政・国家の論理には十分には対抗できない。
3) 原告Fの思想・良心擁護の主張をするために、この鑑定意見書でも、無理な捨象による場面の区分けが行われている。以下のような、授業の場と儀式の場についての実態から遊離した区別は第1審鑑定意見書と変わらない。(下線は引用者)。
「 公務員関係の中にあっても、個人の思想・良心の自由が全面的に封じ込められるわけではない。もちろん、職務の公共性と全体の奉仕者性に基づいて一定の制約を受け容れなければならない場面は存在するが、それはあくまで、公務員の思想・良心の自由を制約するだけの実質的な必要性がある場面に限られる。
 これを本件について見ると、上告人は、一貫的人格をもった個人として、真摯な信 条に基づき、学校行事の場において「君が代」に関わることを拒否している。音楽の授業においては職務として国歌の指導を行う(第一審原告本人尋問調書44頁)が、自らの手で儀式において子どもたちに歌わせることはしない、という形で、自らの職務と、自らの思想・良心の自由に関わる領域の区別を行っている点にも、上告人の真撃な態度が現れている。〔53〕」         
 原告Fの「自らの職務と、自らの思想・良心の自由に関わる領域の区別」は積極的な対応ではなく、強いられた瀬戸際での対応である。原告は、儀式も教育の場であって自らの職務の一環であることは当然分かっているはずだ。これは教師にとっては常識に属する。原告Fの儀式における音楽の構成・演奏についての深い考慮はそれを示している。しかし、儀式が生徒の権利を侵害しうる要素を持つようになってしまったことは最早いかんとも変えがたいのであって、最後に残されたのが<自分は荷担しない>という態度決定で、ぎりぎりのところで自分を守ることであった。西原もここの文脈では<抗命義務>には言及していない。
 教室での授業についても、後任校長の時、国歌指導を教育委員会が観察に来ている(2003年2月〔54〕)。教育課程の一環としての儀式の内容に対する事細かな介入を当然とする国家・行政が、教室での斉唱指導を学習指導要領に基づく義務として教師に強制することはありうることだ。また、それを当然の権利として要求する生徒・親も想定できる。
4) 対生徒関係を敢えて捨象した論証は判決の全体性に十分には対抗できない。
 本意見書では、「教師に対して自らの思想・良心の自由を犠牲として差し出すことを要求することを正当化する「公共性」は存在しない。〔55〕」言ってはいるものの、西原の場合、教師の人権はあくまでも生徒の思想・良心形成の自由の相関物であって、生徒の人権への否定的影響が認定されれば教師の思想・良心の自由は比較衡量なしに原則として制約を蒙ることになるが、この意見書ではそれについては明確には触れない。
学校儀式も教育の場であって、そこで教師の思想・良心の自由は国家の教育政策だけでなく、生徒の権利とも対立関係に立ちうるのである。儀式における対立の構図は職務命令と教師の思想・良心の自由と、国家儀礼の強制と生徒の思想・良心の自由だけではない。<国旗国歌を主要要素とする厳粛な儀式>を教育を受ける権利の内実として生徒・親がみずからの権利として教師に要求することもあり得る。西原学説から言えば、信頼していた音楽教師のピアノ伴奏拒否に起立斉唱をためらう生徒の存在も考えなければならない〔56〕。より一般的な言い方をするとすれば、生徒の面前での教師の行為であることを正面から前提とした上での立論が必要であった〔57〕。
 すでに述べたところであるが西原は儀式の細部に至るまで校長の決定権限を承認している。これは儀式における公共性の認定権を校長が持つと言うことである。行政・校長が主張する公共性の内実は最高裁判決藤田宙靖反対意見が鋭く明確化したものである。国家儀礼を組み込んだ学校儀式が一糸乱れずに実施されることを重視する立場から教師の思想・良心に対する制約をも公共性に含ませるという点は、最高裁判決法廷意見が暗黙のうちに認め、同那須弘平補足意見が明確に主張しているところである。西原が教師の不服従を批判するときに持ち出す生徒への影響は、そこに理由として組み込まれうるものである。
 対生徒関係を捨象しなければ教師個人の思想・良心の自由を十分には守れないというのは、西原学説の弱点である。西原学説は、国旗国歌儀礼が公務員秩序のもとで厳粛に遂行されることに法令に基づく生徒の教育を受ける権利の保障という公共性を見いだす、というそれなりに全体性を備えた最高裁判決法廷意見に対峙できるものではなかった〔58〕。
5) 結局のところ、本鑑定意見書が主題としたはずの根本のテーゼすなわち<ピアノ伴奏は原告の思想・良心の自由を侵害するということ>自体の論証は依然として不十分である、と評価せざるを得ない。
 原告自身の思想・良心の自由の擁護に重点を置いた意見書であるからには、原告Fの思想・良心の詳細な構造的提示が必要だったはずである。西原にとっては自明のことかも知れないが、最高裁にとってはそうではない。西原は、後述する2011年の一連の最高裁判決に対する西原の論評でも起立斉唱拒否とピアノ伴奏拒否を思想・良心の問題上での区別をしていない。後知恵的言及となるが、藤田反対意見を評価する立場からは、この区別が原告Fの思想・良心を構造的に提示するためのポイントである。当然、本意見書ではそれは踏まえてはいない。この鑑定意見書では第一審鑑定意見書とは異なり原告Fの行動を<抗命義務>の遂行だという主張は出てこない。それが単なる弁論上の戦術でないとすれば、生徒の人権の相関物には解消しきれない原告F個人の立場からの立論が必要なはずであった。

注〔49〕学校教育法における教諭の職務権限(現行法では第31条11項)については、中川律の諸論文から学ぶところが多い。特に、2015年に根津・河原井裁判において提出された意見書「教師の教育の自由および「不当な支配」の禁止から見た「日の丸・君が代」訴訟の分析」、「教育制度の憲法論」(『現代社会と憲法学』弘文堂2015)におけるこの条文の立法者意思の分析は注目に値する。中川の業績からは西原が批判してやまない<国民の教育権>説は、単なる国家と日教組の対立の所産ではなく、戦後教育改革の原理を踏まえたものであることがよくわかる。
注〔50〕『全資料』p682-683
注〔51〕「2」の第2段落
注〔52〕長くなるが判決文の該当部分を以下に引用する。
「(3)さらに,憲法15条2項は,「すべて公務員は,全体の奉仕者であって,一部の奉仕者ではない。」と定めており,地方公務員も,地方公共団体の住民全体の奉仕者としての地位を有するものである。こうした地位の特殊性及び職務の公共性にかんがみ,地方公務員法30条は,地方公務員は,全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し,かつ,職務の遂行に当たっては全力を挙げてこれに専念しなければならない旨規定し,同法32条は,上記の地方公務員がその職務を遂行するに当たって,法令等に従い,かつ,上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定するところ,上告人は,A小学校の音楽専科の教諭であって,法令等や職務上の命令に従わなければならない立場にあり,校長から同校の学校行事である入学式に関して本件職務命令を受けたものである。そして,学校教育法18条2号は,小学校教育の目標として「郷土及び国家の現状と伝統について,正しい理解に導き,進んで国際協調の精神を養うこと。」を規定し,学校教育法(平成11年法律第87号による改正前のもの)20条,学校教育法施行規則(平成12年文部省令第53号による改正前のもの)25条に基づいて定められた小学校学習指導要領(平成元年文部省告示第24号)第4章第2D(1)は,学校行事のうち儀式的行事について,「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めるところ,同章第3の3は,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている。入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは,これらの規定の趣旨にかなうものであり,A小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても,本件職務命令は,その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。」
注〔53〕『全資料』p687。「(10)結論」の冒頭部分。引用文の第2段落の「一貫的人格をもった個人として」以下は第一審鑑定意見書にも同文がある(本章(1)-②)。
注〔54〕原告の本人尋問陳述書(『全資料』p92)
注〔55〕『全資料』p687
注〔56〕このような生徒は、入学式で生徒との教育指導上の関係がまだ十分には形成されていない原告Fの事例ではほとんど存在しないかもしれない。
注〔57〕西原学説ではもともと、儀式の場における権利・権限の錯綜・対抗関係についての把握が一面的である。教師の不起立を批判するときは国旗国家儀礼に肯定的な生徒を登場させ、教師の不起立を擁護する時には、国旗国家儀礼を受け入れられない生徒を登場させる。少数派の生徒の立場に立つというのが西原の主張に含まれているようであるが、数多く参列する生徒のうちでどのような確認作業を経て当該生徒が教師にとって権利擁護すべき対象となったのかについての言及はほとんどない。それ以前に、本鑑定意見書では、教師個人のの権利主張を擁護する際には生徒の存在は捨象されているのである。
 親と子どもの権利を強く認めるということは、儀式の場でも教室でも教師の権利・権限との対立場面を想定することである。子どもの権利も、儀式の場でも教室でも、教師の権利・権限の前に制約を蒙る場面もあり得るのである。西原学説のもつ予定調和的性格は現実の権利・権限の併存・対立状況を十分には整序できるものではない。

コメント

桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その4

2018-08-18 02:15:23 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その4

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その四回目。「① 鑑定意見書の基本的論旨」に対応する「② 批評」は次回。

(2) 上告審西原博史鑑定意見書「教諭に国歌斉唱時のピアノ伴奏を求める職務命令に関して、良心の自由に対する正当な制約根拠は存在するか?」(2006.6.20)
 原告側から上告が行われたのは2004年7月20日である。本鑑定意見書の翌2007年2月27日に、一度も口頭弁論が開かれないまま最高裁は上告棄却の判決を言い渡している。

① 鑑定意見書の基本的論旨
A、「本鑑定意見書が扱う論点の限定〔26〕
 生徒への思想・良心侵害と原告Fへの思想・良心侵害との双方が主題となった第1審の鑑定意見書とは異なって、今回は、原告Fの思想・良心への侵害のみが主題となっている。西原はこの鑑定意見書の論点を以下のように設定する。
「公立小学校の音楽専科の教師が、思想信条上の理由及び教育的見地から公式行事での『君が代』のピアノ伴奏ができないとの信条を持っている場合に、校長が『君が代』のピアノ伴奏を命ずる職務命令をなし、また、その職務命令に違反したことを理由に東京都教育委員会が戒告処分をなすことは、憲法19条に違反しないか、という論点である。〔27〕」
B、「本鑑定意見書の基本的な姿勢」 
 西原は、原審(敗訴の控訴審判決)の推論を以下のように6段階に分けて、そのうち①~③は「理論的に非難すべき点は見出せない」し、④については、全面的には否定できないと言えるが、「⑤から⑥へと続く判断の中には、①~④で設定した原理に対する大きな矛盾があり、憲法19条の解釈・適用を誤ったものと見ざるを得ない点が含まれている。」と批判する。
「 本鑑定意見書は、上記の問題に関して、原審の出した結論に疑問を呈するものである。ただし、本鑑定意見書は、原審の行った審査の道筋においては、大きな理論的な誤りがあったものとは考えず、むしろ、原審の設定した憲法19条の解釈に関わる原理と、その実際の適用の間に存在する飛躍に問題点があると認めるものである。
 原審の推論は、以下のように進む。
 ①外部的行為の規制であっても、思想・良心の自由を侵害する可能性がある。
 ②外部的行為の領域にあっては、思想・良心の自由も一定の制約に服する。
 ③公務員の思想・良心の自由は、全体の奉仕者性(憲法15条2項)や職務の公共性によって制約される。
 ④法規によりあることを教えることとされている時には、教育公務員が個人的な思想や良心に反するからといってそのことを教えないわけにはいかない場合がある。
 ⑤本件職務命令は、目的も手段も、合理的な範囲内のものである。
 ⑥本件職務命令は、教育公務員である控訴人(上告人)の思想・良心の自由を制約するものであっても、控訴人(上告人)において受忍すべきものである。」〔28〕〔29〕
C、「外部的行為の規制による憲法19条侵害の可能性」
 西原は原審(東京高裁判決)が認めた、外部的行為の規制が思想・良心の自由を侵す場合を、西原の立場から言い換えた上で、本事件はまさににそれにあたる事例だと言っている。以下、その部分を引用する。
「外部的行為の規制が思想・良心の自由を侵すのは、外部的行為の規制を通じて実際には内面における思想・良心それ自体が否定される場面である。外部的行為の領域における思想・良心の自由は、単に行為者本人にとって思想的・良心的に望ましい行為を行う自由という、気軽な権利として問題になるのではない。外部的行為の領域において思想・良心の自由が問題になるのは、内心領域におけるのと全く同様に、内面において思想・良心を維持できなくなるような、そうした侵害が起こる場合に限られる。すなわち、ある法的義務づけによって、行為者が自らの人格的自律の核として維持してきた思想・良心に対する根本的な裏切り行為が強制され、もって人格的一貫性を持って生きることが不可能になるような、そうした場面を想定している。
 原審の確定した本件の事実から見ても、上告人に対して「君が代」のピアノ伴奏を 命ずる本件職務命令は、音楽教師として、そして人間としての上告人の自己了解を完全に否定するものであり、自らを律してきた内面的な判断機関に対する裏切りを迫るという意味で、重大な侵害を発生させるものであることは明らかである。具体的な審査にあたって、この点には十分な配慮が払われるべきである。」〔30〕
 ここは、『良心の自由 増補版』の著者に相応しい的確な原理的言明である。しかし、国旗国家儀礼の実施が生徒にとって思想・良心の問題になり得るという重要論点が本鑑定意見書では視野からはずされていることは、単なる論点の限定ではなく、当該論点についての主張の展開の仕方そのものにかかわることではないかと思われる。
D、「外部的行為に関わる領域における思想・良心の自由の制約可能性」
 原審は上記テーマについて以下のように判示している(第一審判決も同じ)。
「地方公務員は、全体の奉仕者であって(憲法15条2項)、公共の利益のために勤務し、かつ、職務の遂行に当たっては、全力を挙げて専念する義務があるのであり(地方公務員法30条)、思想・良心の自由も、公共の福祉の見地から、公務員の職務の公共性に由来する内在的制約を受けるものと解される(憲法12条、13条)。」
 西原は、この部分は一義的な解釈はしにくいとしながらも、「特定の基本的人権の享有主体性を公務員に対して否定するに等しい「読解」は成立する余地」がなく、この場合は「思想・良心の自由は--その人権を主張しているのが公務員であるか否かとは無関係に--一般的に外部的行為の領域において一定の内在的制約に服するものであり、本件においてはたまたま控訴人(上告人)が公務員であったがために職務の公共性に基づく制約が前面に立っただけである、という読み方」〔31〕が正しいという。すなわち、
「個人が内面において保有する思想・良心に対して侵害が及ぶにもかかわらず、それでも行為領域における規制が憲法上許容されるケースは実際にあり、その限りにおいて行為領域に現れた思想・良心の自由に関しては内在的制約を認める余地があり、本件で問われているのは本件職務命令・本件処分が思想・良心の自由に内在する制約に照らして憲法上正当化可能なのかどうか、という問題である。」〔32〕
 ついで、この「制約」が許容される条件を論じる。
E、「思想・良心を害する規制の許容性を判断する構造」
 西原によれば、表現の自由や信教の自由に対する制約における内容規制と内容中立規制の区別は、行為領域における思想・良心の自由に対する規制を問題にする際にも当てはまり、それぞれ異なる憲法適合制審査が行われる、という。
「 内容規制とは、表現の自由との関係では表現内容そのものに、信教の自由との関係では規制対象とされる宗教的信条の内容それ自体のために規制が及ぼされる場面で、こうした内容規制を正当化するためには最も厳格な審査が必要であるとされている。それに対して、自由行使の時・所・態様に関する内容中立的な規制が行われる場合には、信教・表現の自由を抑圧する手段が目的達成のために本当に必要不可欠か、他に代わり待る手段が利用可能でないか、といった手段の必要性が主な審査内容となる。 〔33〕」
F、「教職員の信条改変に向けた校長の権限行使の許容性」
 西原によれば、本件で問題となっている職務命令は「信条内容を改変させる目的」のもの=内容規制にあたると判断される。以下、引用する(下線は引用者)
「本件においては、上告人の信条内容を改変させる目的で校長が職務命令権を濫用したものと判断せざるを得ない可能性がある。本件の事実関係からすれば、上告人が国歌斉唱のピアノ伴奏に同意できない信条および教育観の持ち主であることは、すでに入学式に先立つ事前の話し合いにおいて校長も認識していたとおりであり、入学式でピアノ伴奏による国歌斉唱を実現するためであれば、上告人以外の教職員にピアノ伴奏を依頼するなど、上告人に対する強制を回避する手段は様々な形で存在していた。問題が生じたのが小学校であり、小学校教諭の免許を取得するためたはピアノやオルガンなどの鍵盤楽器を運用する能力が養成されることを考えれば、上告人の他にもピアノ伴奏を行う能力を持った教職員は少なからずいたことが想定される。にもかかわらず上告人に向けて発せられたピアノ伴奏の職務命令は、単にピアノ伴奏を実現するために必要な措置とは考えられず、むしろピアノ伴奏を拒否しようとする上告人の考え方に働きかけて、心構えを改めさせることを目的とするものだと理解することが適切であるように思われる。
 教育上の必要がないにもかかわらず、上告人の教育観を改めさせるために職務命令を発したのであるならば、これは、校長において自らに帰属する権限を濫用したものであり、憲法に反するものであって、いかなる法的な効力も有し得ない。〔34〕」
 この点については、付随的規制だという〔35〕第一審の鑑定意見書の見解を変更している。今回の指摘こそが的を射ていると思う。この点について被告側は、<H校長独自の教育観から専科教師によるピアノ伴奏を実現したかった><職務命令に逆らわないという勤務上の秩序を重視した>という説明を行っている〔36〕。これは、以下の引用で西原が認める校長の広範・強力な職務権限を前提とすれば主張としては可能である。
 西原は、この意見書では以下のように、学校単位での教育内容決定について大幅な校長の裁量を認めており、その上で「教員個人の思想・良心の自由」は、「校長の絶対主義的独裁に陥らないために認められていなければならない最低限の制度条件」であるという(下線は引用者)。
「校長の職務は、単に上位の行政機関において定められたルールを新たな意思決定を差し挟むことなく忠実に執行することに尽きるものではなく、まさに学校という教育の場において、子どもに対する教育の基本方針を決定することにまで及ぶ。このことは一方で、校長が定めた教育方針を学校の隅々まで徹底させるための、ある程度は強化された指揮・命令権限を必要とするが、しかし他方において、特定時点の学校の基本的な教育方針に校長の個人的な教育観が反映する制度枠組である以上、校長の教育観が学校の中で過度に絶対化される状態を防ぐためのメカニズムを同時に必要とする。教員個人の思想・良心の自由は、まさに校長による学校の方針決定が学校内における校長の絶対主義的独裁に陥らないために認められていなければならない最低限の制度条件である。〔37〕」
G、「本件職務命令を内容中立的な付随的規制として正当化する可能性」
 続いて西原は、仮に「校長において上告人の信条内容に働きかけることを目的としておらず、あくまで校長が定めた学校の教育方針に合致した入学式を実施するための必要性判断に基づいて校長が上告人に対してピアノ伴奏の職務命令を発したものとする場合」の検討を行う。しかし、西原によれば、本件の場合は以下のように「他に代わりうる手段」がある場合である。
「外部的行為に対する規制が対象者の思想・良心に対する侵害を引き起こすような場面において、思想・良心の自由に対する制約が正当な国家目的を実現するために、他に代わりうる手段のない、唯一不可欠な手段である時には、思想・良心の自由に対する制約が憲法上許容されることがある。」
「しかし、先に述べた他の教職員にピアノ伴奏を命じる可能性を考慮に入れた場合、上告人に対して思想・良心の自由に対する侵害を甘受するよう求めなければならない必然性はない。」
したがって、前項と同様に「憲法に反するものであって、いかなる法的な効力も有し得ない」という判断になる。〔38〕
 本件校長の職務命令の恣意性を西原は下記のように激しく非難する。
「これは、上告人を苦しめるための恣意的な権力行使であり、教育上の目的でもって正当化可能なものではない。教員を苦しめるための権力行使が行われることは、子どもの教育を司る学校のあり方として極めて異常であり、いかなる合理性も認められるものではない。」〔39〕
 西原は既に前項で当該職務命令は<内容規制>であり<内容規制>としても違憲である結論づけている。ここで<付随的規制>であるとの仮定による検討をすることに大きな意味があるとは思えない。当該職務命令は西原が認める校長の強大な職務権限を前提とすればあり得るものであって、残る問題は原告Fの思想・良心の内実がどのように提示されているかということになる。
H、「「全体の奉仕者」性と「校長の奉仕者」性の異同」
 本意見書の特色の一つは<教育における公共性>についての主張である。西原によれば、原審(控訴審)は、上記F・Gの検討のステップをすべて省き「公務員の全体の奉仕者性と職務の公共性という制約根拠を前面に出す」。その場合、職務の公共性も全体の奉仕者性も事実上<校長に従うこと>を意味させている、という。
 それでは「教育公務員の職務の公共性」とは何か。下記引用の下線部(引用者による)がそれにあたるが、多様な具体的意味の読み込みを許すものであって、具体的状況次第では「校長への服従」を通してそれを果たすという主張も成り立つ。なお、この限りでは<教育公務員>に限定されたものではない。
「教育公務員の職務の公共性を校長への服従という点に集約して捉えることは、教育という過程に対する根本的な誤解を明るみに出す。教師の職務が公共的なのは、教師がまずは目の前にいる子どもに対する責任において教育活動を適正に行うためである。子どもにとって授業は、憲法上保障されている教育を受ける権利(26条)を実現するものである。そして子どもの背後には親がいて、親子を取り巻く社会がある。〔40〕」
 西原によれば、教育公務員の職務の公共性は、校長の個人的趣味と同一視することはできないものである。一方それは、教師の思想・良心の自由主張の限界を画するものでもある。すなわち、
「教育の「公共性」は、校長の個人的趣味と同視できる無内容な空文ではなく、子どもとの関係で教育措置に対する無条件の服従を正当化するだけの具体的な目標との関係で特定可能な実質的利益の複合体である。そしてこの同じ教育の「公共性」が、本件の枠組では教師の思想・良心の自由に基づく具体的な拒否権行使が許されないこととなる限界ラインを画することになる。」〔41〕
 ここでの二項対立的提示は、多分に恣意的である。これらの点は、より立ち入った言及が望まれるところだが、このテーマの体系的展開は別稿〔42〕に譲るとしている。
I、「具体的な制約根拠としての教育の「公共性」」
 上記表題の「具体的な制約根拠としての教育の「公共性」」は、「結論」直前の節である。しかし、実際には「教育の公共性」について前出のもの以上の説明はない。しかし、学習指導要領が大綱的基準として法規的性格を有すること、儀式における国旗国歌指導が仮に「子ども本人の利益等によって支えられた公共的性格を有する」ことを仮定して考察を続ける、という。〔43〕
 西原によれば、本件に即して論ずれば、学習指導要領にはピアノ伴奏を斉唱指導で方法とするという文言はない〔44〕。しかし、「国歌斉唱指導の方法については、基本的には学校行事の挙行に関する実施の細目を決定する校長の裁量に属している〔45〕」ので、ピアノ伴奏を採用すること自体は問題はないが、教職員を交えた十分な検討を経ず、懲戒処分を振り回して教師を従属させようとしたことは「教育の問題としては不当な哲学」である、という。すなわち、
「 この時点において、校長の職務命令に公共性が認められるかどうかが問題になる。 学習指導要領で定められた教育内容に属する範囲の外で、特定の教育措置が具体的な 子どもや地域社会との関係でどのような意味を持つかに関する教職員を交えた十分な 検討を経ることなく、校長が自らの教育観を前提にして特定の教育措置を拘束的なも のと一方的に決定し、それと異なる立場の教員に対して懲戒処分を振り回して何が何 でも自らの教育観に従属させようとする姿勢は、教育の問題としては不当な哲学である。〔46〕」(下線は引用者)
 ここで、<学校における権限配分の不当性>ではなく、<哲学の不当性>というところが西原学説らしいところである。西原は、校長の広範な裁量権には「特定の教育措置が具体的な子どもや地域社会との関係でどのような意味を持つか」についての判断決定権も含まれていることを認めている。西原によって本件の校長の職務命令に公共性はないという主張は盛んに行われるが、学校儀式における具体的な公共性についての西原の主張は読み取れない。結論部分(下記引用)から敢えて文脈で判断すると抽象的にはいわゆる学テ判決に示された日本国憲法に基づく教育の基本を踏まえ「子どもが自由かつ独立の人格として成長する」ことを目標とした儀式指導であると言いたいようだ。
 長くなるが、以下の引用が実質的にこの鑑定意見書の結論部分である(下線は引用者)。
「貴裁判所が前記の旭川学テ事件判決において判示したとおり、日本国憲法の下における教育は、あくまで「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること」を基盤におくわけであり、そのため、前記引用のとおり「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入は許されない」ことを当然の原理として組み込んだ形で実施されなければならない。
 その場合に、子どもとの関係では、学校の教育措置としてナショナル・シンボルに対する特定の心情や信条を形成させるべく、思想・良心を自由に形成する権利を無視した教化を行うことは許されない。そうである以上、教員の側においても、個人の基本的信条に関する一定範囲の多様性があることは、それ自体では教育の妨げにならないはずであり、校長に対する無条件の忠誠をあらゆる条件下で確保しなければならない必然性は存在しない。それにもかかわらず本件の場合、可能な条件の下でピアノ伴奏を実現する現実的な可能性を模索することをせず、むしろ無条件の忠誠を示さなかった上告人を見せしめとして処分することを通じて、学校内における精神的統一を作るために学校運営に関わる校長としての権限が濫用されている。しかし、子どもとの関係で学習する権利が尊重され、個人の尊重が重視されるような日本国憲法下の学校において、教師に対して自らの思想・良心の自由を犠牲として差し出すことを要求することを正当化する「公共性」は存在しない*37。その点において本件の職務命令および懲戒処分は、校長に委ねられた裁量権を逸脱するものであり、違法であるとの評価を免れない。〔47〕」
 学校における生徒の権利擁護に準じて、そのためのものとして教師の権利も擁護されるというかたちで結論が導き出されている。西原学説ならではの展開である。〔48〕【以下、次回】

注〔26〕以下A~Iの表題は鑑定意見書では,(1)~(9)としてあるものである。
注〔27〕『全資料』p677
注〔28〕以上『全資料』p677-678
注〔29〕③の前に公教育における教師の思想・良心の自由は、子どもと親の権利との関係、及び法令等との関係で制約される場合がある、という一段階がなければならない。すなわち、公務員としての議論の前に、学校教育一般の議論が必要なのである。この点は西原自身にも希薄な論点である。
注〔30〕『全資料』p679
注〔31〕『全資料』p680。しかし、こういった展開は西原自身では実際には希薄であって、いきなり公務員としての制約を述べている場合がほとんどである。
注〔32〕『全資料』p681
注〔33〕『全資料』p681
注〔34〕『全資料』p683
注〔35〕『全資料』p602
注〔36〕たとえば第一審被告準備書面(2003.9.26)(『全資料』p154-155)
注〔37〕『全資料』p682-683
注〔38〕『全資料』p683
注〔39〕『全資料』p683
注〔40〕『全資料』p684-685
注〔41〕『全資料』p685
注〔42〕西原が参照を求めるのは、「教育基本法改正と教育の公共性」(日本教育法学会年報34号(2005))で、以下はその結論部分(p35-36)
「 日本国憲法の下における教育の公共性は、まず、教育を受ける権利を保障する責任との関係で成り立つ。一方では、この権利保障の帰結として、国家が教育保障権限を最終的に引き受けることにならざるを得ないし、教育行政機関もそうした責任の一端を握る。しかし同時に、教師自身が、子どもとの対面関係において教育保障の最後の鍵を握る最も重要なアクターである。そうした関係の中で、教師が縛られている公共性は、第1に、子どもの教育を受ける権利の保障を貫徹することに向けた公共性であり、基本的にはそれに尽きる。
 通常、教育行政が指向する公共性と教師の職務の公共性は同じ方向を向くはずである。しかし、教育行政が別異な公共性を指向し始め、社会的に有用な存在に向けた子どもの改造に手を染める瞬間に、その一致が崩れる。教育行政による指導が子どもの内発的発達可能性を妨害し、特定の鋳型に向けた子どもの改鋳を内容とする瞬間、その教育行政による指導を排斥することこそが教師の職務の公共性となる。教育を受ける子どもの権利が自由権的な意義を展開し始める時、教師の公共性は、不服従と抵抗を職務上の義務として求める。」
 前半は、本意見書の引用部分と同じく多様な具体的意味の読み込みを許すもので、後半は、運動論的には有効な説明ではあろうが、これは<教師の抗命義務>説であって、法廷において国・行政の主張に対抗するためには、既に論じた難点の克服が必要となる。
注〔43〕『全資料』p685
注〔44〕「 ただ、学習指導要領に記載があるのはあくまで「国歌を斉唱するよう指導する」ことのみであり、ピアノ伴奏は含まれていない。伴奏のあり方については、法的に前もって一定の評価が確定しているわけではない。国歌斉唱指導の方法については、基本的には学校行事としての入学式の挙行に関する実施の細目を決定する校長の裁量に属している。その意味で、本件において校長がピアノ伴奏が望ましいとする立場を採ることは―君が代のピアノ伴奏が音楽的、教育的に誤りではないとするならば―それ自体として非難に値するものではない。」(『全資料』p686)
注〔45〕『全資料』p686。
注〔46〕『全資料』p686
注〔47〕「(9)具体的な制約根拠としての教育の「公共性」」の末尾。『全資料』p686-687。
注〔48〕以下は「結論」「おわりに」と続くが、論旨の基本はこれまでのところで既に示されているので、要約は省略する。

*このブログの人気記事 2018・8・18(3位になぜか近衛上奏文)

コメント

桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その3

2018-08-17 06:04:37 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その3

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その三回目。

③ 論点(3)について 
A、西原による結論
 ここでは、処分そのものの違法性について3つの観点から論じている。
1) 「 違法な職務命令の拒否に対する処分の違法性 」〔20〕
 ここは、職務命令自体が違法なのでそれへの違反には違法性はなくしたがって、職務命令違反についての処分は違法である、と述べている。論点(1)(2)についてのの論旨と変わりはない。
2) 「職務命令拒否の違法性を阻却する事由の認定に誤りがあった場合における処分の違法性〔21〕」
 ここでは、原告における職務命令の違法性認定に誤りがあった場合を考察している。それは2つある。
「一つは、上記(1)の記述との関係で、実際の事実状況の中に子どもの人権侵害に及ぶ条件が最終的に確認できず、その意味で子どもの権利侵害を恐れる原告の不安が杞憂に終わった場面である。第二に、上記(2)の確認と関わって、原告において存在する主観的な要素が職務命令そのものの違法を基礎づけるものとは評価されない場面 」
 この前者の認定〔22〕は、西原は「疑わしきは国民の権利保護のために」という理由で職務命令拒否の違法性はないと結論する。また、「権利侵害の危険を想定する合理的根拠がある」場合も違法性はない、とする。また、原告に職務命令拒否「とは違った行為が原告に対して期待可能ではない」という意味で「有責性がない。」とも結論する
 なお、「第二に」のケースは論じられていない。
3) 「職務命令が成立時点で適法だった場合の職務命令違反に対する処分の違法性」
 ここでは、「仮に、複数受命者に対して発せられた場合と同様に、本件職務命令が発令の時点において適法なものであり、有効に成立していたとしても〔23〕」受命した公務員の個別の思想・良心との関係で違憲・違法になる場合、さらに懲戒処分を以て制裁を課す時点で違憲・違法になる場合を論じている。
 前者については、職務命令は実際には原告Fに対してだけ出されたものなので、論旨は(2)で西原が主張したことと重なる。後者については西原は、以下のようにここでも特異な場面分けをした上で結論づける(下線は引用者)。
「 そもそも原告において職務命令を拒否したのは、原告の個人として、そして教師としての真摯な信条からである。こうした信条を踏まえた場合に、原告において、違法行為を避けて適法行為を選ぶべきであったとする非難を向ける論理的可能性はなかったことになる。音楽の授業のように、子どもと直接の接点が発生する場面では、原告も自らの信条を優先させることをせず、職務上の義務を遂行している。ただ、原告が自らの思想・良心を破壊するようなピアノ伴奏を引き受けなくても学校としては正常な教育作用が十分に果たせる場面で、自らの思想・良心に基づく義務を優先させざるを得ない状況に追い込まれているに過ぎない。その意味で、本件職務命令を遂行することは原告にとって期待可能な要求であるとは考えられない。そのような事情であるにもかかわらず、職務命令に対する違反を理由として、戒告という懲戒処分をもって臨むことは、原告の思想・良心の自由に対して不必要に重い負担を課すものであって、正当化できるものではない。〔24〕」
B、批評
1) 上記A-2)の西原の主張は、教師による限りないパターナリズムを正当化しかねない主張である。
 焦点は他者の内心の有様であって、明示的訴え意外に「合理的根拠」は見いだすことは難しい。さらに、西原の立場からは、権利侵害が推測される者以外の生徒に対する影響が無視できる程度であることの立証が必要になる。そのような立証は準備書面でも西原の意見書でも行われていない。また、別の行為を原告がとることについての<期待不可能性>の立証も準備書面でも西原の意見書でも行われていない。これでは<子どもの人権を守るという大義名分を掲げた主観的思い込みの強い教師は職務命令を拒否しても違法性はない>という主張になりかねない。むしろ、学校という権力機関が不参加の選択肢を示さないで行う国旗国家儀礼そのものが、現実の侵害事実の有無を問わず客観法的に人権侵害である、という主張の方がわかりやすいが、これについては西原は行わない。
2) 上記A-3)についての儀式の場と授業の場との独特の区別は西原特有のものであり、論点(2)で西原が提示した場面分けと同種のもので、同様に不適当なものである。
 授業でも場合によっては防御的に教師みずからの思想・良心を優先させる場面がある(たとえば、教師の思想・良心と根本的に反する教育内容を教育委員会・校長から〔25〕強制される場合の教師の協力拒否)。また、儀式も生徒に対する教育の場であって生徒の人権を優先させる場面もある(たとえば、教師にとっては思想・良心の問題と考えられない教育内容が、特定生徒にとって思想・良心上受け入れがたいものである場合、当該生徒に離脱の自由を保障すること)。原告Fは、授業では工夫をしながら自己の思想・良心との矛盾を避け、儀式では国旗国歌儀礼の生徒に対する強制性を批判しつつも最終的には<荷担できない>という自己の思想・良心を守るだけの行為にとどめたのである。原告Fの行動を、国家儀礼を程度の差はあれ受容した多くの生徒・保護者の考えにもかかわらず、原告Fは自らの思想・良心を守った、として説明することも不可能ではない。
 重要ファクターを捨象した上での論証は、司法が論証にあたってより自由に全体的構成をおこなうことを許すことになる。【以下、次回】

注〔20〕『全資料』p604。以下1)2)3)の表題は鑑定意見書ではa)b)c)としてあるものである。
注〔21〕これについては『全資料』p604-605
注〔22〕そもそも、子どもと親が明示的に訴えた場合以外で侵害があったとする認定と同様困難である。「杞憂に終わった」という確認はどう行われるのか、という点が気になる。
注〔23〕『全資料』p606
注〔24〕『全資料』p606
注〔25〕場合によっては保護者の多くから。

*このブログの人気記事 2018・8・17(10位にかなり珍しいものが入っています)

コメント

桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その2

2018-08-16 02:55:24 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その2

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その二回目。
 
② 論点(2)について
A、西原による結論
「本件職務命令は、精神的自由権の制約を評価する際に用いられる厳格な合理性の基準をあてはめた場合はもちろん、校長の広い裁量権を前提にして合理性の基準を適用した場合であっても、原告の思想・良心の自由に対する必要最小限の制約とは認められず、憲法19条に反する違憲・違法な人権侵害であったとの評価を免れない。その限りにおいて、本件職務命令は、適法なものではない。〔7〕」
 この結論にいたる手続きは論理的に三段階設定されている。
1)「受命公務員の人権を侵害する職務命令の法規違反性」〔8〕
 公務員に対する職務命令が適法であるためには以下の4つの要件の充足が必要だとされる。「①職務上の上司の発したものであること、②受命公務員の職務に関するものであること、③職務の独立の範囲を侵すものでないこと、および、④法規違反のものでないこと〔9〕」このうち、「要件④の中に受命公務員の基本的人権の保障が含まれている。そのため、①から③の要件が満たされており、また、第三者の権利を侵害したり客観法的に違法であったりしない点で④が一見したところ認定できそうな場合でも、なおかつ、職務命令が違法になる場合が考えられることになる。〔10〕」〔11〕。
2)「雇用関係における「良心の抗弁」の理論とその適用可能性」
 ドイツでは、このテーマに関しては「基本的な合意」が獲得されているという。「それによれば、被用者に対して良心に反する職務上の義務を遂行する具体的な行為が強制されてはてはならず、また、雇用関係締結時にそうした職務上の義務が発生することを被用者が予見できなかった場合には、被用者は民事上も免責される。」というものである。すなわち、
「 この「良心の抗弁」に関する理論は、内容に関して、本件と同種の事例を対象とするものである。原告は、良心的理由にもとづいて、命令された国歌のピアノ伴奏という行為ができないと主張する。そして、学校行事における「君が代」の伴奏は、原告が教諭に採用された時点で、教師の職務に当然に含められてはいなかった。そうした状況の中で、国歌のピアノ伴奏を行うという具体的な義務の遂行を強制できるかどうかが問題になっている。〔12〕」〔13〕
3)「良心を守るための行為としてのピアノ伴奏拒否と良心の自由」
 国旗国歌儀礼への参加強制は子どもにとって思想・良心の自由侵害となり得る。それは教師にとっても当てはまる。すなわち、
「「君が代」の歌を拒否する信条を持つ人々がこの国の中にいて、そのような人々に対して国歌斉唱への参加が強制されれば、思想・良心の自由が侵害されることになる。これは、憲法上、自らの人格を支える思想・良心を自らの手で破壊することになるような行為を強制することが思想・良心の自由に対する侵害となることに基づいている。斉唱への参加とピアノ伴奏の実行は、国歌に伴う具体的な行為という点で共通しており、特に区別して扱う必要はない。〔14〕」(下線は引用者)
 以上の論証を前提に本件職務命令が内容規制か付随的規制かの検討に入る。西原によれば、本件職務命令による原告Fの思想・良心への侵害は、当該職務命令の目的そのものではなく、付随的なものだという。したがって、審査基準としては「少なくとも厳格な合理性の基準を採用すべきである〔15〕」。校長の目的は「「いい教育」を実現」することだと西原は認める。しかし、小学校教師は誰も音楽に関しても訓練を受けているのでピアノ伴奏者は原告である必然性はないにもかかわらず他の教師に校長が働きかけた形跡もない、さらに、<「いい教育」としての国歌斉唱>とピアノ伴奏との結びつきにも必然性がない、と批判する。
 ここから以下のように結論される。
「このように、〔精神的自由に対する制約の許容性を判断する-引用者補記〕厳格な合理性の基準を適用した場合、本件における原告の思想・良心の自由に対する制約は、目的として特に重要な利益を追求するものでもなく、また、手段の選択においても必要最小限のものではなかったことが明らかであり、憲法上許容されたものと評価することはできない。必要もないのに原告の思想・良心の自由を直接に侵害した点で、本件職務命令は、憲法19条に違反し違憲であるとの評価を免れない。〔16〕」
 また、仮に校長の裁量権を広範に前提して、裁量統制の手法を用いた場合であっても、その際の基準である合理性を満たすものではない、という。なお、原告Fがピアノ伴奏をすることに必然性がないという点は弁護士作成の準備書面ですでに説得的に展開されているものである。
B、批評
1) 儀式におけるピアノ伴奏は国歌斉唱と同一視できない性格を持つのではないか。
 ピアノ伴奏そのもの(または歌唱指導)は何らかの形で授業でも行う。原告Fは、それが儀式という場面ではできない。一方、(国旗に向かって)起立して国歌斉唱することはまさに儀式特有の行為、それもこの種の国家儀礼の中心的行為である。教師自身の行為としては、一般的には授業では行わない。ピアノ伴奏行為は儀式の中で行われると、起立斉唱という国家儀礼の中核部分を実現するための特別の―積極的に慫慂する―意味をもつものである〔17〕。おそらく、原告Fはピアノ伴奏に代えてテープ放送が行われた場合でも自らがカセットデッキのスイッチを押すことにも強い抵抗感を覚えたであろう。ここに気がつかなければ、最高裁判決時の藤田反対意見の含意は明瞭にならない。
 従って、原告自らが憲法上の権利を侵害されたということの具体的内実が鮮明になっていない。裁判所にとってこの点の論証が不十分だと判断されれば弁論体系の半分が無効になる。第1章で示したが、最高裁判決法廷意見は、そのような判断をしていると思われる。
2) 子どもへの影響と分離して原告個人の権利擁護を主張するためか、結論部分で無理なな場面分けが行われている。重要ファクターを捨象したからといって、判決には有利には働かない。
 その部分を引用すると以下である。
「原告は、一貫的人格をもった個人として、真摯な信条に基づき、学校行事の場において「君が代」に関わることを拒否している。音楽の授業においては職務としての国歌の指導を行う(原告本人尋問調書44頁)が、自らの手で儀式において子どもたちに歌わせることはしない、という形で、自らの職務と、自らの思想・良心の自由に関わる領域との区別を行っているいる点にも、原告の真摯な態度が現れている。〔18〕
 前述したが、西原は『良心の自由 増補版』で、授業の場を教育の場、儀式の場を上司と部下の関係の場と分けていると思える部分があった。ここも同じような枠組みの存在がある。しかし、儀式も教育課程の一環である。授業の場とは異なって、集団として教師が関わる。教科の専門性は相対的に希薄であるが、儀式の音楽的構成は専科教諭の意見を尊重する十分な理由がある。また、教師は、儀式の会場でほかならぬ<教師>として生徒の前に立ち現れる。また、西原が重視する教師の権力性は授業の場だけでなく儀式の場でも発揮される(もちろん発揮のされ方は異なる)。国旗国歌儀礼の<強制>があるから、人権への配慮が問われる場となるのではなく、<学校>であるがゆえに、そこはそもそもがさまざまな形で人権への配慮が問われる場なのである。従って、ここでも教師の権利・権限と生徒の権利が相克する可能性がある。すなわち、<儀式において音楽専科による伴奏で国歌斉唱を行うこと>を教育を受ける権利の内容として要求する生徒・保護者、仮に圧倒的多くの教師が国歌斉唱時に起立も斉唱もしない儀式の場合は、<起立して歌うことの孤立感と圧迫感からの解放>を権利として訴える生徒・それを支持する保護者もありうる〔19〕。
3) <ピアノ伴奏による国歌斉唱>を<いい教育>とむすびつけるところまで含めて学校長の教育内容決定権を認めてよいのであろうか。
 学テ判決で示された、学校における教育内容に関する教師の一定程度の専門職としての裁量権はどのように考慮に入れられたのであろうか。本件において校長が思想・良心を理由にピアノ伴奏を拒む原告Fに対して執拗に<国歌斉唱の伴奏>をもとめたのは、彼女が音楽専科の教師で音楽教育に関しては他の一般教師にくらべて専門性が高いという判断があったことがうかがわれるが、校長・行政は、<専門性をも指揮下に置くことによる統一性・秩序の向上>を重視している。これも<いい教育>の内容に含みうる。上告審鑑定意見書のところで詳述するが、ここでの西原の主張ではその論理を崩すことが難しい。西原の主張は、学校組織を官僚制組織として本質規定することになじむものであり、最高裁判決法廷意見の学校組織認識とかなりの程度親和的である。
 また、原告Fの思想良心の自由に対する侵害は西原の言うように「付随的」なのであろうか。専門性は高度の精神の自律性をともなうものである。他の選択肢を排除して原告Fに対して執拗に出された本件職務命令は、専門性をも指揮監督下に置くこと自体に拘るという点で<内容規制>であると言っていいのではないか。なお、「付随的」という評価は上告審鑑定意見書では改められている。【以下、次回】

注〔7〕『全資料』p603
注〔8〕以下1)2)3)の表題は鑑定意見書では、p599以下a)b)c)としてあるものである。
注〔9〕『全資料』p594
注〔10〕『全資料』p599
注〔11〕ここで例(「比較対象事例2」)として提示しているのは、校長が「科目を包括」するかたちでの性教育において女性教員に全裸になって女性性器を男子生徒に観察させよ、と指示した事例である。かなり極端な例を用いているが、「制約」が「必要かつ合理的」なものかどうかの具体的考察はされていない。違憲性を印象的に訴えているだけである(『全資料』p599-600)。
 この点は、本意見書に基づく尋問(以下)でも同じである。
「比較対照事例2の中で全裸になることを強制された教師にやはり人権侵害が及んでいる。教育上の必要性の認定というのは私の成すべきところではありませんけれども、侵害が及んでいるし、今事例に関しては比較対照事例を見た方どなたにあっても、これはやはりいくら教育方面における命令服従関係の中においても、受命公務員個人の権利の観点から許されるものではないという点について同意いただけるようなケースなのではないかと。つまり、それと同じように、受命公務員の基本的人権を侵害するゆえに、違法性を持つ命令というのが当然であると。
 本件がそうだと。
 そのとおりです。
 詳細は、鑑定意見書に書いていただいていると言うことですね。
 はい。」(『全資料』p224) 
「それと同じように」という場合、「比較対照事例2」についての違憲判断の論理(基準)が示されていないと、本件への援用ができない。「比較対照事例2」に対する直感的な判断と「それと同じように」という文言だけで本件職務命令を違憲と結論づけるわけにはいかないはずである。
注〔12〕『全資料』p600-601
注〔13〕同じところで、「この理論は我が国の公務員法制の中でも参照可能」であり、特に「公務員関係の内部においては、対国家権利としての基本的人権の意義が直接前面に立つため、民間以上に思想・良心の自由などに対する侵害が許容される余地は少ないとさえ考えられる。」と記している。教育公務員の立場を離れて純然たる雇用者の立場からは国家に対して思想・良心の自由が十全に主張できるという含意であろう。
注〔14〕『全資料』p601
注〔15〕最高裁薬事法違憲判決を援用しているここの文意はわかりにくいが、芦部信喜のいう「「より制限的でない他の選びうる手段」の基準」(『憲法 第6版』(岩波書店2015)p210)、アメリカ法でいう「中間審査基準」(同p196)をさすものと思われる。
注〔16〕『全資料』p601-602
注〔17〕もちろん教師の起立斉唱も生徒にとって慫慂的効果を持つのであって、だからこそ行政はその徹底にこだわる。しかし、儀式全体の中での位置づけ、行為そのものの性格は異なる。
注〔18〕『全資料』p603
注〔19〕これは、論議を呼んだ西原自身の『世界』論文におけるY氏の事例(第2章で前述)である。Y氏の事例での儀式の場の性格認定と上記のような領域区別とは整合的でない。

*このブログの人気記事 2018・8・16(10位にやや珍しいものが入っています)

コメント

桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その1

2018-08-15 01:35:46 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その1

 昨日、桃井銀平さんから、「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」と題する論文の投稿があった。これは、本年八月一日から九日にかけて、このブログで紹介した「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の「2,西原学説と教師の抗命義務」に続くもので、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」の全文である。
 ここでは、「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」という表題で紹介させていただくことにする。
 A4で二〇ページに及ぶ長文なので、以下、何回かに分けて、紹介してゆきたい。

日の丸・君が代裁判の現在によせて (2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前) 桃井銀平
           
3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評

 西原博史はこの裁判で2通の鑑定意見書を書いている。それらを検討することによって、原告の思想・良心がどのようなものとして採り上げられているのか、最高裁判決と鑑定意見書との内容的相関関係はどのようなものか、などについて分析する〔1〕。さらに、最高裁判決についての西原の論評を採り上げ、結果的に敗訴に終わった裁判をどう総括しているかを検討する。

(1) 第一審西原博史鑑定意見書「教諭に国歌斉唱時のピアノ伴奏を求める職務命令と、信条に基づくその職務命令の履行拒否を理由とする戒告処分は適法か」(2002.7.5)
 本鑑定意見書は、提訴(2002.1.25)の半年近く後に提出された〔2〕。西原は憲法上の論点を以下の3つに整理してそれぞれに見解を示している。
「(1)本件職務命令は、子どもの基本的人権を侵害するがゆえに違法なものではなかったか、
(2)本件職務命令は、原告本人の基本的人権を侵害するがゆえに違法なものではなかったか、
(3)本件処分は、原告の職務上の権限または基本的人権を侵害するがゆえに違法な   ものではなかったか。〔3〕」

① 論点(1)について
A、西原による結論
 問題となった小学校入学式では、自発的な選択が不可能なかたちで生徒に対して国歌斉唱が求められており、ピアノ伴奏は「強制のための補助手段」となっており、職務命令は生徒の「思想・良心の自由を侵害する具体的な実効行為を内容とするもの」であるが故に違法な職務命令を拒否した原告Fの行為には何らの違法性も存在しないという。以下、結論部分を引用する。
「 本件入学式においては、子どもに自発的選択の機会があることが伝えられないまま、「国歌斉唱!」という号令とともに、子どもたちが国歌斉唱の場に投げ出されており、子どもたちにおいて自発的な選択が可能だと受け取れる余地が保障されていない。そのような状況の中で、国歌斉唱に参加することに対する心理的抵抗を低める効果を期待されて、ピアノ伴奏を実施する旨の決断が下されているわけであり、その意味で、ピアノ伴奏は、子どもたちの意思に無関係に国歌斉唱へと誘導する、強制のための補助手段となっている。こうしたピアノ伴奏を求める職務命令は、子どもたちの思想・良心の自由を侵害する具体的な実行行為を内容とするものと位置づけざるを得ない。
 このように、ピアノ伴奏が子どもたちの思想・良心の自由に対する侵害を招来する ことが認識可能である局面で、受命公務員である原告が、その違憲性・違法性を認識し、拒否したことは、子どもたちに対する人権侵害を防ぐ、教育公務員としての当然の責任に出た行動であり、賞賛されこそすれ、違法行為として断罪されるいわれは全くない。本件職務命令は、子どもの権利を侵害する違法な内容のものであって、適法なものとして成立しておらず、その違法な職務命令を拒否した原告の行為に何らの違法も存在しない。〔4〕」
B、批評
1) 職務命令拒否の違法性を阻却するに足りる明確な侵害事実は認定されているのか?
 西原学説においては、そもそも権利主体の主観的受け止め方が重視されており、侵害事実の認定は西原学説が不可避的に要請する課題である。しかし、この裁判においては侵害の発生の事実が立証されているわけではない。本人または親の明示的訴え(典型的には出訴につながるような)がないこの事例では、教師の職務命令拒否の違法性が阻却されるに足るだけの侵害状況の認定は難しいのではないか。卒業式入学式での国旗国歌儀礼は、多くの子どもにとっては、学校で多かれ少なかれ日常的な<一方的指示>の一つである。また、儀式の進行に強制感を感じた生徒がいたとしても、それは必ずしも思想・良心の侵害と受け止めているかどうかは生徒本人の訴えによらねば十分には確認できない。さらに、被侵害感の程度もさまざまでありうる。侵害の事実認定は生徒についてよりも原告自身についてこそ明確に行うことができる。西原の主張はむしろ西原が消極的な客観的憲法判断になじむものである。
2) 「君が代」斉唱<強制>における教師の関わりの評価にも困難がある。
 まず、テープ伴奏でも教師によるピアノ伴奏と本質的には変わらない力が生徒に及ぶ。儀式の通常の構造のもとでは、テープも斉唱を促す力を持つ。生身の人間がピアノを弾く、特に日常の授業で指導関係ができている教師が弾く場合、促す力が一層強まるが、儀式に<強制力>があるとしても、ピアノ伴奏で初めて<強制力>自体が生まれるわけではない。この点は、一審判決、第二審(控訴審)判決いずれも指摘し批判することになる。すなわち、儀式のあり方に強制性が認められるにしても、原告Fのピアノ伴奏行為は強制性の存在自体には大きな影響は及ぼせていない。第1章で指摘したことだが、一審東京地裁判決では、この点を鋭く衝いており、二審東京高裁判決もそれを引き継いでいる。
3) 原告の行為は、職務上の義務としての抵抗とは言いにくい。
 同じ章で西原は、「職務命令が、子どもの基本的人権に対する侵害を内容とする場合には、その職務命令を拒否することこそ公務員として背負う義務となる。〔5〕」と、記すが、西原が例示する<喫煙を認めない生徒を殴れという校長の職務命令>(「比較対照事例1」〔6〕)においては、子どもの訴えの有無にかかわらず命令された行為は違法である。儀式における子どもの思想・良心の自由侵害はそうではない。訴えがなければ、個別の侵害は明確には認定できない。また、本件の原告は、国旗国歌儀礼の客観法的問題性について強い批判を持っているが、自らが関わる儀式においては<自分が>ピアノ伴奏をすることを拒否しているのであって、<強制性>に寄与するテープ伴奏や他の教師による伴奏代位を拒否しているわけではない。原告Fの伴奏拒否によって、当該儀式における子どもの権利侵害状況の蓋然性はほとんど変わっていない。原告が感じた<義務>は、西原が主張する<義務>とは異なり、基本的には自らに対するものである。
4)従って、原告の拒否行為の違法性を阻却するためには、客観法的憲法判断と原告の行為についての位置づけのしなおしが必要となる。【以下、次回】

注〔1〕先行するいわゆる<北九州ココロ裁判>で、西原学説の圧倒的影響下にある準備書面(14)がでたのは、2000年5月9日(『「君が代」にココロはわたさない』(北九州ココロ裁判原告団編、社会評論社2012)p144)、西原自身が証人として出廷したのは2004年7月21日(同p226)
注〔2〕『日野「君が代」ピアノ伴奏強要事件 全資料』(日野「君が代」処分対策委員会・日野「君が代」ピアノ伴奏強要事件弁護団編。日本評論社。2008年8月10日。以下では『全資料』とする)所収。
注〔3〕『全資料』p592
注〔4〕『全資料』p598-599
注〔5〕『全資料』p596
注〔6〕『全資料』p594

*このブログの人気記事 2018・8・15

コメント