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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

総裁の死は単なる徒死ではなかった

2025-07-08 02:04:14 | コラムと名言
◎総裁の死は単なる徒死ではなかった

『文藝春秋』臨時増刊「昭和の三十五大事件」(1955年8月)から、加賀山之雄「下山事件の蔭に」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

   総裁の死に報いるもの
 考えれば考える程当時不思議なことが起きた。五日の夕刻行衛不明が伝えられた直後位東鉄の労働組合事務室に電話があつて総裁が自動車事故で亡くなつたとの報せがあり組合員が喚声をあげた(これは後で尾久〈オグ〉駅からの電話とまでわかつたが誰がかけたものか遂に判明しない)という報告だの、同駅の便所の中に下山と書いてこれを抹殺する×が書いてあつたり、事件に一番関係が深いと見られる田端機関区では七月一日から九日迄の業務日誌が切り取られていたり、問題の貨物列車は起こし当番が乗務の機関士を起こすのが邇れその上何時の間にか機関車のかま〔ボイラー〕のプレッシャー〔蒸気圧〕を下げてあつて、その為に発車が十六分位も遅らされたりした事実がある。
 一番最後のものなどは前に通過する電車と貨物列車の通過との間隔を引き延ばし作業をし易くする為の故意の行動と見られないことはない。そうとなれば明かに犯罪に関係があることになるのだが、不思議にも偶然の出来事ということになり、因果関係は遂にたぐり出し得なかつたのである。
 共産党の連中は或はドイツの国会焼打事件を例にひいて、右翼の陰謀であると宣伝し又一方では心ならずも職員を整理することが良心の呵責に堪えられなかつた為の自殺だなどと誠しやかにとなえた。何故こう自殺、自段と問われもせぬのに宣伝しなければならないのか。私にも不思議に思はれたが、後で考えれば同月二十五日、二十日間を置いて三鷹の電車暴走事件が起きた。この時の事件発生と同時に現場で党員が六三型の自然発車だとわめきたてた。
 越えて八月十八日、同じく二十日程置いて松川では自然脱線顚覆と思わせるような事件が起きた。当時は共産党の活動に国会や新聞などに国鉄線の脆弱な処や欠陥を誇大に撮影して売り込み、かく国鉄はきずだらけだ、これは幹部と組織が腐敗している為だと宣伝に躍起であつたことがあつた。真相であるならば国鉄が予算を得る手伝いをして呉れるので甚だ結構なのだが、多くは欺瞞であり最大限の誇張が主であつた。
 当時我々がひそかに得た情報に正確な言葉は忘れたが、『革命の近いことを確信して各自が持場持場で飽く迄闘争をすること。革命を起こすには先ず人心不安を起こす事が先決であること。社会や施設の欠陥をついて、その欠陥の為に人心不安をかもすような事件が次次と起るよう企らむこと。それはどこ迄も人為的でなく自然発生的に見せかけるよう仕組むこと。」というような趣旨の指令がある。
 私はこの指令と三つの相次いだ何れもせいさんな事件との因果関係までつきとめていないから勿論何とも断定出来ないが、これらの事件がいずれも社会と施設の弱点をついたものであり、揃つて自然発生的に起きたことに何だか関連性があるような印象をどうしても払い除くことが出来ないのである。
 下山総裁の死はこのように依然疑雲に包まれたまゝ六年を閲し〈ケミシ〉、近親をはじめ我々関係者一同悲涙をとゞめる術〈スベ〉もないが、国鉄としては多年の懸案の一つが解決して合理化への軌道はひかれ、一方組合の反省をも促す契機となつたことは事実であり、同時に一般の経営者側の奮起もみられるようになり、我が国の産業史上一時機を画する様になつた。
 総裁の死はこの点からいえば単なる徒死〈トシ〉ではなかつたと考えるのであつて、故総裁の霊も今後国鉄の再建が真の実を結び、我が国の自立経済が確立された暁には僅かに慰められるところがあるのではないかとひそかに思うのである。(緑風会、参議院議員)〈214~215ページ〉

 下山事件の直後、他殺説=左翼陰謀説を唱えたのは、内閣官房長官(第三次吉田内閣)の増田甲子七(ますだ・かねしち、1898~1985)である。ここで、加賀山が示唆しているのも他殺説=左翼陰謀説である。
 私見によれば、結果的に、国鉄の合理化に力を貸したのは、この「他殺説=左翼陰謀説」であって、下山総裁の「自殺」は、こうした形で、政治的に利用されたのであろう。また、これは憶測になるが、増田甲子七に対し「他殺説=左翼陰謀説」を注進したのは、加賀山副総裁ではなかったか。

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下山総裁は、なぜ三越前で車を降りたのか

2025-07-07 03:41:36 | コラムと名言
◎下山総裁は、なぜ三越前で車を降りたのか

『文藝春秋』臨時増刊「昭和の三十五大事件」(1955年8月)から、加賀山之雄「下山事件の蔭に」を紹介している。本日は、その四回目。文中、傍点は太字で代用した。

   自殺か他殺か
 七月五日、我々は例によつて午前九時から関係者が集つて会議を開いていた。登庁されれば必ずお早うといつて私の隣の総裁席につかれるのに今日に限つて十時を過ぎても見えない。十一時には揃つて総司令部に行く約束になつている。
 おかしいなと思つて(総裁は出勤前に政府や政党、先輩達の処へ時々寄つて来られることがあつた)どんなに都合が悪くとも約束の時間はきちんと守られたし、殊に占領軍に対しては特別に気を遣つておられたことでもあり、不安がフッと頭の中をかすめたが我々のどの一人にも見当さえつかぬ。
 約束の十一時が来たので私一人で総司令部へ出かけ話を済ませて帰庁したのがお昼一寸前、帰れば総裁がひよつこり出て来られて『今朝こんなのに会つてこんな話を聞いて来たぞ。』といつもの穿索好きの手柄話が出る位を予想して、帰るなり『総裁は。』と問うと『まだどうしてもわかりません。』という答、私は漸く最初の不安が胸の中一杯に拡がつて来るのを感じた。
 もう猶予はならぬので政府、警視庁、司令部等に直ちに連絡をして捜索の手配をとつた。それからの事は新聞や色々のもので報ぜられた通りなので省略するが、私が今でも残念でたまらないのはもう少しこの手配が早ければどうだつたかという事である。お伴の大西運転手さえ午後五時迄三越の南側でぼんやりと待つて居り、最初は随分怪しまれたがこれは全く善意である事がわかつた。三越に入られてからの足取りは今だに何も解つていないのが真相である。
 私共の頭に最初にピンと来たのは労働関係の情報を得る為に誰かに会われてそのまゝその話に深入りされているのではないか、最悪の場合はそのまゝ何処かへ拉致されたのではないかということであつた。
 この疑は今日も解けないが当時の事情からいうと最もあり得る事であつた。三越の中や地下鉄線浅草駅や、現場附近で似た人を見かけたという人が出て来ているが、その誰れも下山さんとは一面識もない人々であつで、捜査の材料になる程のものは一つもない。考えようによつては、事実をまぎらわしくする為に故意にこんなカモフラージユをする位の事は極めて簡単なことだ。
 翌六日早朝総裁は常磐線の線路上に言うに忍びないなきがらとなつて発見された。悲痛というか憤激というか。当時の我々の気持を現わす言葉を私は知らない。
 自殺説は早くから人の口の端に上り、それを半ば断定的にあつかつた新聞すらあつたし捜査が困難を極めて来ると真先きに警視庁の捜査第一課では自殺説をもち出し、時の警視総監田中栄一君迄がその説をいとも簡単に述べたのであつた。
 私はその瞬間から総裁が自殺されるわけのないことを信じていたが、自殺者の真理は到底普通にはわからないということも聞いていたので、所謂自殺説の根拠とされるものは一一調べて見たが科学的なより処は一つも見当らない。相変らずかんだとか土どり、足どりだとかを言つて居つて強力犯〈ゴウリキハン〉ならいざ知らず、智能的犯罪には全面的には通用しかねる議論ばかりである。
 私の知つている範囲ではこの調査に当つて感心した事が二つある。一つは直後死体を解剖に附された東大病院の慎重な検査であり、一つは警視庁捜査第二課の智能的、科学的捜査である。一は科学的検証によつて死後轢断と鑑定されたし、一はこれだけでも自殺説を全然否定する材料とも思われる総裁のズボンだけに附着したしぼる程多量の特種の油(現場附近からはもとより検出されないし、機関車の放出する油とは全く違うもの)と取つ組んで都の内外四十数ヶ所の油について涙ぐましい位の検討が続けられたが、遂にきめ手となる発見が出来なかつたことは返す返すも残念なことであつた。〈213~214ページ〉【以下、次回】

 加賀山は、「七月五日、我々は例によつて午前九時から関係者が集つて会議を開いていた。」と書いている。この「会議」とは、三越地下街の「室町茶寮」で開かれていた秘密の会議だったのではないか。『真相』第61号(1954年3月)に載った記事「『下山事件』他殺白書」に、次のようにあったことを想起されたい。〝ところが、加賀山副総裁自身も午前九時からはじまるはずの局長会議をスッポかして、偶然にも、九時半ごろ同じ三越に入り、地下街の「室町茶寮」で、今泉東鉄局長、国鉄民同派沢田ら四名と密談をこらしていた。〟(当ブログ2025・6・26記事参照)
 加賀山は、この文章で、自分が当日朝、三越地下の「室町茶寮」にいた事実を隠そうとしている。この会議には、下山総裁も参加するはずだったのだろう。だから総裁は、三越前で車を降りたのである。ところが総裁は、その会議に姿を見せないまま、「行方不明」になったのである。

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シャグノンは伝えられている程の大悪人でなかった

2025-07-06 00:01:57 | コラムと名言
◎シャグノンは伝えられている程の大悪人でなかった

『文藝春秋』臨時増刊「昭和の三十五大事件」(1955年8月)から、加賀山之雄「下山事件の蔭に」を紹介している。本日は、その三回目。

   総裁、組合、GHQ
 下山総裁就任後の最初の仕事は言う迄もなく運輸省時代から鉄道総局で検討に検討を重ねて来た大整理の実施であつた。氏は極めて用意周到であり我々が気がつかないような点をも事務的に注意された。
 東京鉄道局時代に団体交渉では散々苦労を重ね、或る時は引揚げ台湾人の集団に局長室迄踏み込まれて暴行を受けたような経験もあり『俺は急所をやられてもビクともしないそ。』と云つていた位で話合いの室迄こと細かに予め点検して机を二重に並べて相手方との間隔を広くとる事だの、組合員がこちらの側に入つて来られないように室をぎつちり二つにしきるように机の両側を隙間なくすることだの、罐詰にされないように此方側の後にずつと他の室迄通り抜ける扉のあることを確認したり、それはほんとうに到れり尽せりで、ぼんやりした私など思いも及ばず敬服したものである。
 私は一つは負け惜しみと冗談交りに『総裁総裁、こんな時には我々が頭の一つや二つなぐられた方がいゝんですよ。』といつたので下山氏も『それもそうだなあ。』と云つて二人で笑い合つたものである。これ程の大仕事で我々がひどい目に会うことは覚悟の前だつたし、唯心配なのは現場で直接この事務を扱う幹部の身の上であつたが、神ならぬ身の旬日を出でずして総裁の身にあんな異変が起ろうなどとは露程も考えられない。
 七月二日組合との最後の話し合いに於けるの態度は稀に見るきつぱりしたものであり見事であつた。話し合いは緊迫し組合側は『それではどうしてもやる気か。』と最後の駄目を押すと毅然として『国鉄の合理化の為だ。やらなければならないことはどうしてもやるのだ。』と宣言して立上つた総裁の眉毛の間には持ち前の強い意思に国鉄を愛する固い信念が燃えているように見えた。
矢は弦を離れた。我々は事務的に整理の具体的進め方の協議に入り、七月四日がアメリカ側の独立記念日であることからこの日は本庁関係の者に止め、現場 第一次の整理言い渡しの日取りは七月五日と定められた。当時の状況としては、これだけの大きな仕事は政府とアメリカ側の強い支持がなければ単に法律だといつても国鉄のみの力では容易でない。従つて万一の場合を慮り〈オモンバカリ〉これ等との連絡には特に念を入れていたわけである。C・T・Sでは一日も早くやれという。我々は万全の備〈ソナエ〉を立てゝからでないとやれないと主張しこのように決定したのである。その間七月の三日だと思うが、夕刻を過ぎてこの決定をしC・T・Sに下山総裁と二人で連絡の為に担当官のシャグノン氏を訪ねたが不在だつた為、当直の将校にその旨伝達を依頼して午後十一時頃帰宅した。その直後零時を過ぎていたと思うが下山氏から電話があり『シャグノンが東京駅から電話をかけて来て大変怒つている。俺の家へ来ると言つて電話を切つた。何かあつたら又連絡する。』という話。
 私も寝ないで待機していると再び総裁から電話で『今シャグノンが帰つたよ。酒をのんでいるらしいが大きなピストルなんかを胸につけて何かくどくど言つていたが了解したと見えておとなしく帰つて行つたから別に心配はない』という話。七月三日以前にやれといつて居たのを五日にしたのが不満で一杯機嫌も手伝つてやつて来たに過ぎないのだが、これが誇大に伝えられてピストルで総裁が脅迫されたなどと伝えられている次第である。
 尤も当時シャグノンあたりの処迄どこからか知らぬが随分脅迫めいた事があつたらしくうそか本当か知らぬが『俺の車が今日三度もパンクさせられた。』とか言つていたし、その事件の前後は大きなピストルを何時になくいかめしく胸間にぶらさげていた事は事実である。シャグノンはかなり悪い事もしたが伝えられている程の大悪人ではなく、私は彼のことをドンキホーテを地でいつたような人間だと思つていた。〈212~213ページ〉【以下、次回】

 ここで加賀山は、C・T・Sのシャグノンを擁護している。おそらくその理由は、下山総裁自殺説を否定したかったから。また、他殺の場合でも、その犯行の主体は占領軍ではないとの見解に立っていたからであろう。
 なお、『真相』第61号(1954年3月)に載った記事「『下山事件』他殺白書」に、次のようにあったことを想起されたい。「また下山の女房役であった加賀山副総裁がすでに記したようにCTSのシャグノン中佐をしきりと弁護しているのを見ても想像できるように、下山の抵抗に協力するより、むしろ、アメリカ側の御機嫌取りに汲々としていた状態がうかがわれる。/そして、下山が行方不明になった五日も、午前十一時にCTSへ出頭するよう、要求されていたことは周知のとおりである。」(当ブログ2025・6・26記事参照)

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加賀山之雄「実に下山氏だからこそ……」

2025-07-05 02:05:28 | コラムと名言
◎加賀山之雄「実に下山氏だからこそ……」

『文藝春秋』臨時増刊「昭和の三十五大事件」(1955年8月)から、加賀山之雄「下山事件の蔭に」を紹介している。本日は、その二回目。

   下山総裁就任の序曲
 そういう嵐の中で定員法が国会を通過して国鉄は十二万名近くの人員整理を行うことになつた。それが昭和二十四年〔1949〕の春のことである。実はこれより先昭和二十一年〔1946〕の夏から秋にかけてまだ運輸省であつた頃七万余の人員縮少を企てたのであつたが当時の産別の応援というよりは徳田〔球一〕等の直接の指導で伊井彌四郎とか鈴木市蔵とか、後には共産党でかなりのものになつた連中が国鉄に居つて猛烈な抵抗をやり時の運輸大臣〔平塚常次郎〕が少々ぐうたらだつたりしてもう一歩の所で腰がくだけ整理が不能になつて了つたことがあった。所謂九、一五といわれてこれで国鉄のたて直りも四、五年遅れたし、争議に勝利を得た労働組合を益々手がつけられないようにはするし、他の民間の事業の経営にも決してよい影響を与えず、ひいて日本経済の建て直りをそれだけ遅らしたと思つている。残念なことであった。
 人員を整理するということは勿論望ましいことではないが当時の国鉄には召集解除や大陸からの引揚げの為にふくれ上つて六十万を超す職員をかゝえこんで置く余地は到底なかつたので、経営の合理化の為に真に已むを得ない措措であり、それは早い程よかつたのであつた。そしてこの第一段の計画の蹉跌後は火のついた組合攻勢の反撃を食つて政府が定員法の決意をする迄遂にその機会がなかつたのであり、そしてそれが下山さんが一命を落す機会となつて了つたわけであつた。私はそれを思うだけでも昭和二十一年の争議の失敗は残念でたまらない。
 下山さんの死についてはもう一つ因縁話をしなければならない。それはこの私に関係があることで書きづらいのだが、氏が総裁になつた当時のいきさつである。昭和二十三年〔1948〕の春運輸次官だつた伊能君(繁次郞)が退いたので次官を作らねばならない。運輸大臣は改進党(当時国民協同党)の岡田勢一氏だつたが鉄道総局長官だつた私に次官をやつて貰いたいという話があつた。戦争中から運輪省は陸と海とを分けて一方は鉄道総局、一方は海運総局というように二本建てとなり夫々〈ソレゾレ〉長官制をとつていたのである。
 私はもともと鉄道に入つたのはその運営に強い関心を持つた為であり監督行政にはあまり興味もなく経験もない。一度は辞退したがどうしてもというので致し方なくそのつもりになつた。そこで岡田氏が内部的に一応そうきめて当時の習慣によつてC・T・S(G・H・Q内の交通を監理する部門)にO・Kを得に行つたが一寸待てということで実は承知しないということが解つた。色々アメリカ側に運動したり、あることないことを耳に入れたりする日本人が多かつたことは承知しているが私はそのほんとうの理由は知らない。知る必要もなく却つて本来の鉄道業務に専念出来ることを喜んだ次第である。
 私はむしろ我が意を得たのであるがおさまらないのは大臣の岡田氏で私にはすまんすまんとあやまられるし、第一他の人を探さねばならない。私にも相談があつたので一も二もなく当時東京鉄道局長であつた下山君を推薦した。これが他の方面の意見とも一致し、G・H・Qも幸その人物、才幹を知つていたのでそれならよかろうということになつて下山運輸次官の出現となつた。これは官庁のならわしとしては異例の人事でありそれに総司令部の意図に影響された一つの例である。下山君は案の定〈アンノジョウ〉次官として立派な役割を果した。経歴からいえば新しい畑である海運の方にも特によく眼をそゝぎ、下僚の人達からも親しまれその尊敬をあつめていたように思う。
 当時世間ではラッキーボーイと下山君のことを批評していたが豈〈アニ〉図らんやこれが後から考えるとラッキー処か死出への第一歩となつたのである。というのは翌昭和二十四年〔1949〕の六月マックアーサーの手紙から国鉄は改組されて運輸省から離れ新たに日本國有鐵道という所謂パブリック・コーポレーションとして発足することになりその初代総裁を決めるに当つて、自薦、他薦色々の人物の登場となつたが、その権限を知つたり殊に十二万人の首切りをひかえているのでは普通の頭を持つた人なら飛びつく筈がない。
 案の定様子が解るにつれて皆が皆尻込みをし結局次官である下山君に持つて行く他はなかろうということになつた。その当時下山氏が『大臣が俺に暫定的に総裁をやれという。誠に失敬な話だがどうしたものだろう。』と相談された。私は言下に『この国鉄の重大な時機に暫定とは何事だ。そんなことならはつきりお断りなさるがよかろう。』と答えたら下山氏も『俺もその通りだと思う。』と言われ、これは大臣の失言ということで更めて是非お願いするということになり初代下山総裁の実現となつたのである。下山総裁は就任の直後私の手を何時になく固く握つて『国鉄の為にどこ迄もしつかりやろう。』と言われ意気軒昂そのものであつた。その時の氏の面持〈オモモチ〉を私は今だに忘れることが出来ない。これが昭和二十四年六月一日。実に下山氏だからこそ誰にもましてこの仕事の困難さを熟知しその試煉を経てこそ始めて国鉄の復興は遂げられることを信じ難事を覚悟して敢えて引受けられたと思う。〈211~212ページ〉【以下、次回】

 岡田勢一運輸大臣(芦田均内閣)が「暫定」という言葉を使ったのは、本命はあくまでも加賀山之雄だと考えていたからであろう。結果的には、日本国有鉄道の初代総裁としての下山定則の存在は「暫定的」なものにとどまることになった。

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加賀山之雄「下山事件の蔭に」(1955)を読む

2025-07-04 00:34:51 | コラムと名言
◎加賀山之雄「下山事件の蔭に」(1955)を読む

 下山事件についての話題を続ける。ちなみに、事件が起きたのは、1949年(昭和24)7月の5日から6日にかけてのことであった(下山総裁の失踪が7月5日、列車による轢断が7月6日)。
 本日以降は、『文藝春秋』臨時増刊「昭和の三十五大事件」(1955年8月)から、加賀山之雄(かがやま・ゆきお、1902~1970)が執筆した「下山事件の蔭に」という文章を紹介してみたい。

 下 山 事 件 の 蔭 に     
    ――事件当時の副総裁たりし筆者が七回忌を
    迎えて始めて筆を執る下山事件秘録――
                         加賀山之雄【かがやまゆきお】
   苦難の道を往く国鉄
 あれからもう満六年になる。命日に当る七月五日には芝の青松寺で七回忌の法要が営まれた。七回忌ともなると参拝者は施主の国鉄幹部達や近親、それに極く親しかつた人々等に限られ、あれ程世人に衝撃を与えた事件も真相が究明されないまゝに忘れ去られようとしているのだ。時々、知人などから『あれは一体どうしたんですか、貴君はどう思うか』など訊かれて戸惑いするようなこともあるが、その度に私は所謂自殺説を強く否定して来た。一口にあれは自殺だ、或は他殺だと片づけて了えない所にあの事件の複雑性があるのだと思う。昭和二十六年〔1951〕三回忌を迎えて発刊された故下山総裁の追憶集の序に求められて書いた私の一文を再録してみる。
『今でこそやつとの思いで筆をとる事が出来るが、あの当時のことを思い出すだに身も凍る思いである。早くも下山さんの三年忌を間近にひかえて傷恨〈ショウコン〉永く尽きるところがない。それにしてもどうしてあれ程の大きな出来事が今以て国民の前に明らかにされないのであろう。いや、普通社会の常識や通常人の推理で解き得られぬのがあの事件の本質であつたかもしれない。行手にどんなことが待ち構えているか、人間にそれが解る筈もないし、苦境に在つてはやがてはというはかない望を続け楽しみの中に在つては何時それがくつがえるかも知れぬのをつい忘れて了う。それが人生である。生者必滅〈ショウジャヒツメツ〉の理は頭の中に心得ていても一旦現実にぶつかれば魂は飛び心乱れて徒らに〈イタズラニ〉因果のきずなをまさぐり戸惑うのが人の常であらう。
 下山さんの死はそうした世の常の法則を超えた出来事であつたに違いない。こんなことが起り得るのか、当時我々は自らの眼や耳を疑わざるを得なかつた。常識や普通の因果の法則ではとても説明出来ないことなのである。科学者達は真剣な探究を続けたし一方では小説もどきの勝手な推理も随分行われた。然しながらそのどれもが所詮は真に謎をとく鍵にはなつていない。私は思う、全く因果の法則を起えた、いわば超人間的な事柄がひそんでいるとすれば我々にそれがたやすく解明出来ないのも已むを得ないことなのかもしれないと。歴史の激動期などには何かしら一つの強い力で個々の意思も生活も生命も押し流されふりとばされて行くように見える。革命の歴史は我々に普通の社会では考えられない事態が相次いで人々の意思や常識をとび超えて起きることを教えている。下山さんの死は日本の歴史が大揺れに揺れて国がどちらへ行くのかどうなるのかさえ気づかわれ国民は右往左往、社会も産業も秩序というものを失つて了つた。そうした激動と混乱の頂上で起きた事件であつた。」
 実際国鉄は戦争中から戦後にかけて全く苦難の道を歩み続けたが昭和二十四年〔1949〕という年は恐らくその頂点であつたろう。資金と資材の不足、老衰した施設、超過剰な人員、インフレの昂進というような悪条件はその極度に達し、戦後労働問題に関するG・H・Qのミスリードとこれに乗ずる日本共産党の戦術にかきまわされて、いわゆるニッチもサッチもいかぬといつた状態である。どの事実を見ても経営側はこのはき違えか或は故意に勢に乗じたこの民主主義の抬頭によつて辛酸を嘗め中には腰が抜けて了つたのではないかというような様が見受けられた。一方では革命近しと呼号して今にこちらでお前等のほんものの首を切つてやるぞとおどかすちんぴら共産党員もあつたし、笑い話でなく共産党に入つて居れば命だけは大丈夫だからというようなもの迄出る始未である。〈210~211ページ〉【以下、次回】

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