礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山口の印鑑は後になって平沢宅から発見されている

2021-01-13 03:48:17 | コラムと名言

◎山口の印鑑は後になって平沢宅から発見されている

『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、杠国義執筆の「日本堂事件」という記事を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

  一晩で二割五分の高利
 帝銀事件をさかのぼること約一ヵ月、つまり日本堂事件の四日前、昭和二十二年〔一九四七〕十二月二十五日のこと、舞台は三菱銀行丸ビル支店である。同じビルに事務所をもっている大洋工業の社長、長谷川慶二郎氏が普通預金通帳から一万利引出そうとして手続きを終えた。だが急用を思い出して事務所に引き返し、社員の呉島日升子さんに合札を渡して金を受取ってくるように命じた。彼女が銀行の窓口に行くと、何者とも知れず通帳もろとも現 金を受取って、姿を消したあとだったのである。
 それから三日目の二十八日の夕刻、例の金融業、竹内〔孝雄〕さんのところに一人の男が現われた。
「軍の払下げキャラコを手に入れたいのだが二十万円ばかりいる。都合してもらえまいか」
「それは何日?」
「今日中に手をうたなければだめ、四十万円は確実にもうかるのだが……」
 ずいぶんボロイ話だが、当時はまだそんなヤミ取引きの通用する時代でもあった。
「ばかに急ですな」
「だから急いでいる。ほれ、ごらんのとおり、私にも預金はあるのだが、いまから丸ビルまで引返したのでは間に合わない」
 そういって男かひっぱり出したのは、なんと長谷川社長名義の、三菱銀行の通帳である。しかも驚くべきことには、残金はわずか一万円しかなかったはずのが、四十四万円以上にも改ざんしてあるということである。男はつづけて、
「もし、ただいますぐ用立ててもらえるのなら、利子は五万円、元金と併せて二十五万円。明朝丸ビルの三菱銀行支店でお払いしましょう。もちろん担保として、この通帳はおあずけしておく」
 そういいながら〝長谷川〟という本印鑑までそえて差し出した。これもまた大変な高利である。そのころトイチというのがあった。十日に一割という利息である。ヤミ金融の相場だった。だが一晩きりで二割五分などというのはいくらそんな時代でもケタはずれだ。だがあいにく竹内さんの手許に二十万という金の持合せがなかった。しかし折角のカモを手放すのは惜しい。ままよ、明朝までだ。あとは何とかなる――と小切手をきった次第である。
 彼は翌朝、早速取引先の帝銀大森支店に出掛け、近いうちに本店に入金するまで小切手の支払いを止めるよう頼んだ。つまり振出した二十万円の小切手の額ほど預金がないため、丸ビルで金を受取って預金に繰り入れ、何とか操作するつもりだったらしい。もちろん丸ビルの三菱支店には、抜け目なく実兄の池田清太郎さんを金を受取るために出していた。
 そして大森支店で話しこんでいる最中、のこのこ現われたのが昨日の男である。
「オヤ――、あなたは……取引きはうまくゆきましたか、あなたから金を受取るために、兄は早くから丸ビルに出かけましたよ」
「いや、とにかくこの小切手を金にかえてから――」
「それならなにも昨夜あんなに急がなくても――」
 銀行員も傍〈ソバ〉から、よく事情はのみこめぬながら、
「そうですね、いま小切手を金にしなくても、三菱の丸ビル支店でいくらでも預金が出せるわけじゃありませんか」
 さすがに男はしどろもどろになって、
「あ、ああ、そうですね」
 雲を霞と立ち去った。もう無効に近くなった小切手だか、やはりその男の手に握られたままだった。竹内さんはあわてて丸ビルに待機している兄に連絡、こうなるとどうも通帳自体が怪しいというので、三菱支店で調べたあげく、やはり盗品で、金額まで改ざんしてあるのがわかり、まさに冷汗三斗というわけである。
 一方小切手を拐帯〈カイタイ〉した犯人は、足のつかぬうちに一刻も早く金目のものにかえるため銀座に直行、そして日本堂での一幕が始まった次第――。

  改ざん通帳に〝山口〟の印
 わたしはどうやら日本堂にからむ一貫した金融詐欺事件のアウト・ラインをつかむことができた。しかし所轄署は築地、大森、丸ノ内と三署にまたがっている。それぞれの縄張り内の届出ぐらいで、どうも捜査に関連性があると思えない。しかし当局が動かぬ限り、ニュースとして扱うにはしっかりした確証がいる。しかもこと帝銀に及ぶとすれば急を要する。といってわたしは新聞記者であって刑事ではない。勝手に証拠物件を押収したり、人を訊問するわけにゆかない。ここまできてハタと当感して、ついに当局の力を利用することにきめた。まず肝心の預金通帳を手に入れることだ。もう池田清太部さんの手から三菱の丸ビル支店に帰っているはずだ。そこで所轄の丸ノ内署に飛込んだ。捜査係で出くわしたのが杣【そま】刑事である。
「いよう、帝銀の犯人がわれそうだせ」
「みんなそう思ってる。手前の追ってる犯人が固いと思い勝ちだからな」
「なあに、どちらにしてもこの管内に詐欺がひとつあるんだ。ほっとくわけにゆかんだろ」
「まあ、話してみな」
 そして彼はミコシをあげた。わたしは
「そのかわり三菱支店から改ざん通帳を手に入れたら、まずおれにみせろよ」
 とダメを押しておくのを忘れなかった。さてその通帳を手にしたとき、ギクッとした。新しく数字を書き加えた辺りから〝山口〟の印が五個も押してあるではないか、わたしの追っていた名刺も山口だ。(この山口の印鑑は後になって平沢宅から発見されている)そのほか〝平沢〟の印も四個所に押してあり、さすがに当時はそこまで気がつかなかったが、いよいよ帝銀にカンありと意を強くした。もちろん杣刑事に返す前に写真部に持参して複写してもらい、大事に保存しておいた。
 だがせっかくわたしの売込んだ材料もなかなか陽の目を浴びなかった。何しろ帝銀捜査に浮かんだ容疑者千三百六十八名、そのほか民間の投書密告、実に二千八百六名の多きに上っている。日本堂事件の如きも単なる派生的問題としてオクラになっていたのかも知れない。また捜査本部自体も人相やききこみより、基礎調査の段階にはいっていたし、したがって 私も鑑識課を中心に記者活動をはじめたので、いつか日本堂の方まで手が回らなくなっていた。

  平沢もこれだけは認める
 それから半年余、松井名刺の線をたどった居木井警部補はついに平沢を逮捕した。だが傍証、心証はいかに完璧でも物的裏付は何もない。捜査幹部は一笑に付 し、世論は人権侵害でふっとうした。たまりかねた鈴木〔義男〕法務総裁は「国家的賠償の問題としてとりあげるかも知れぬ」と警察の不謹慎をなじる談話さえ発表する 始末だった。事実、平沢からは単なるテンペラ画伯である以外、何物もつかめなかった。コルサコフ病とかいう奇妙な二重人格の持主であるということさえまだわかっていない。
 当時の新刑訴法では四十八時間以内に起訴できなければ釈放せねばならない。捜査本部はまったく窮地に追いつめられたとき警視庁捜査一課に転じていた杣刑事が持出したのが、日本堂事件に関連する長谷川社長名義の改ざん預金通帳である。ごていねいにも平沢自身の印まで押してあるから文句はない。やっと判事拘留に処することが出来た。取調べに当る高木検事もガラリと態度を一変、また新聞記事も平沢黒しの方向に進んでいった。そして帝銀事件の自供から追起訴へと漕ぎつけたのである。
 死刑の判決をうけた平沢は最高裁まで上告し棄却されたが、法廷ではいったん自供した殆どの犯行を否認しつづけた。ただ日本堂事件だけを素直に認めている。すべては法の裁きに任せるとして、わたしは自分の記者活動が、多少なりとも犯罪検挙に役立ったことと、苦心の末に手に入れた預金通帳の写真が紙面に精彩を放ったことに喜びを感じている。なお、――如何なる問題に直面しても、むだを承知で最後までたたいてみること――という何物にもかえがたい貴重な教訓を得たということである。
(毎日新聞東京本社社会部)

 

 

 杠国義記者の指摘する通り、この日本堂事件の発覚により、帝銀事件についても「平沢黒し」の心証が、関係者の間で強まったのである。だとすれば、この日本堂事件を発掘した杠国義記者の取材活動は、もっと注目されてもよさそうなものだ。
 しかし、今日、グーグルで「杠国義」で検索しても、一件もヒットしないというのは、いったい、どういうことなのだろうか。

*このブログの人気記事 2021・1・13(9位になぜか「喫茶アネモネ」)

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