礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

北一輝、井上日召、石原莞爾と法華経信仰

2018-02-21 00:48:12 | コラムと名言

◎北一輝、井上日召、石原莞爾と法華経信仰

 昨日に続いて、河原宏の論文「超国家主義の思想的形成――北一輝を中心として――」(一九七〇)の一部を紹介したい。昨日、引用した部分に続いて、次のようにある。

 次に、近代日本の横断面としての一時期、さきにのべた横軸に相当するものをとりあげてみよう。その時期とは概ね一九三二年〔昭和七〕の五・一五事件から三六年〔昭和一一〕の二・二六事件にいたる期間で、この間いわゆる超国家主義者といわれる人たちの活動が顕著である。その際、これら超国家主義者の間に――もとよりそのすベてではないが――法華経、乃至は日蓮宗に対する強烈な信仰が作用していたことも見過すことのできない現象である。このような面での象徴的、代表的人物としては北一輝、井上日召、石原莞爾の三名をあげるのが妥当であろう。一体彼ら――そのフォロワーたちをも含め、それを代表する意味で――は、なに故法華経信仰に超越の契機を求め、また求めざるをえなかったのか。このテーマこそ実は北一輝に即して本稿で迫求しようとするものであり、ここでは概括的にのべるにとどめるが、その一つの理由は大正時代、特にその後から昭和の初期にかけてのアノミックな時代に、個人の自我の発達と国家の進路、あるいはその将来への展望との間に埋めがたい疎隔感がひろがっていったことであろう。したがってこの疎隔関係をとらえるには、相対的に個人の自我と国家の発展とが密着していた明治期との対照の下のおかなけれない。この対照は北一輝の思想的閲歴の中に鮮やかに浮かびあがってくる筈である。
【中略】
 北の中国体験は一九一一年〔明治四四〕の武昌蜂起と共に始まる。彼はこの年渡航以来、三年間の中断をはさんで一九一九年〔大正八〕末まで及んでいる。彼の法華経への傾倒は、彼自身の証言によって一九一六年(大正五)に始まっている。井上日召がはじめて満洲に渡ったのは一九〇九年〔明治四二〕である。彼の場合はさまざまな宗教体験をへているが、「自伝」〔『日召自伝』日本週報社、一九四七 〕においても強調し、その後の彼の人生を方向づけることとなった法華経への決定的入信は一九一四年〔大正三〕である。また石原莞爾の場合、田中智学の主宰する国柱会の信行員となったのが一九一九年である。彼の場合は一九一〇年〔明治四三〕、少尉に任官の翌年、会津歩兵第六十五連隊とともに朝鮮に渡っている。伝記〔藤本治毅『石原莞爾』時事通信社、一九六四〕によれば、彼は朝鮮で辛亥革命の報を聞き、革命軍の勝利のしらせに兵を連れて山に登り、「支那革命万歳」を叫んだという。彼の最初の中国赴任は一九二〇年、漢口の中支那派遣隊司令部付となった時である。
 北一輝、井上日召、石原莞爾の名を歴史上大きくク口ーズ・アップすることになったのは、北における二・二六事件(一九三六年)、井上における血盟団事件(一九三二年)、石原における満洲事変(一九三一年)であり、この期間はいわゆる超国家主義運動の最盛期である。しかし思想的に彼らは一九一四年から一九一九年の間、すなわち大正中期のアノミックな〔無規範の〕時代に、法華経への傾倒という形での超越を試み、同時にそれぞれの形で中国体験をしている。勿論、これら三者の思想内容に大きな差異のあることはいうまでもないが、もしそれらを超国家主義思想として一括できるとすれば以上の二点において著しい類似性のあることが認められるであろう。
 こうして、これまでのべてきた二つの軸の交点に立つのは北一輝である。またこのような超越をその思想的意義においてもっとも深くきわめたのも北一輝だといえる。いいかえれ、土着的なもの即ち守旧的、保守的、退嬰的という常識的理解を打破し、むしろそれを通じて革命に至る道を模索し、しかも思想的には土着的なものの中から普遍的なものへ突き抜ける道程を探求した。彼はそれを超越の形式において果そうと試みたのである。その試みは正に彼がこの形式によって乗りこえようとした天皇制権力による政治死という形で挫折せしめられるのだが、その思想的意義はかかってこの試みのうちに求めらるべきであろう。

 河原宏は、幸徳秋水・北一輝・尾崎秀実という縦軸(昨日のコラム参照)、および、北一輝・井上日召・石原莞爾という横軸を設定し、北一輝という思想家が、「二つの軸の交点」に立っていると捉えたのである。
 この論文「超国家主義の思想的形成」は、北一輝という思想家について研究しようとする者にとって、きわめて有益である。と同時に、河原宏という思想史家(というより思想家)のセンスと力量を示す、注目すべき論文と言えるだろう。

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思想の確立が同時に生死解脱を要請する

2018-02-20 05:20:39 | コラムと名言

◎思想の確立が同時に生死解脱を要請する

 このところ、二・二六事件関係の文献を読みあさっているが、基礎知識がないことが幸いして、どんな文献を読んでも興味深いし、読めば読むほど認識が深まってゆくのを感じる。
 本日は、日本政治思想史家の河原宏(一九二八~二〇一二)が、一九七〇年(昭和四五)に発表した論文「超国家主義の思想的形成――北一輝を中心として――」の一部を紹介してみたい。この論文は、早稲田大学社会科学研究所プレ・ファシズム研究部会編『日本のファシズム―形成期の研究―』(早稲田大学出版部、一九七〇年一二月一〇日)に収録されている。当時の河原宏は「早稲田大学助教授」で、四一歳だった。

 北一輝は、近代日本においてこのような思想的課題〔ナショナリズムをこえる道は可能か〕にもっとも厳しく――その成否ば別として――取り組んだ人物なのだ。彼の思想的意義もこの点にあろう。単にインターナショナリズムをナショナリズムに対するのではなく、また多くの人がやったように、伝統的ナショナリズムを革新しようとして、更に極端なナショナリズムにおちこんでゆくのでなく、ナシナリズムの宿命を見据えながら、その中からナショナリズムを乗りこえる道を模索した。しかしその際、彼が「超越」的形式をとらざるをえなかったことは、当面の対象である天皇制ナショナリズム、あるいは天皇制支配原理と深くかかわっている。
 このかかわり合いは、ちようど座標軸のように縦横二本の軸をとらえて考えることができる。まずここではその縦軸とみなすべきものの意味からとりあげてみようか。ここで挙げるべき象徴的、典型的な人物は幸徳秋水、北一輝および尾崎秀実〈ホツミ〉の三人である。ここでは言葉の通俗的な意味での左翼、右翼の区別など問題にならない。これら三人の人物が象徴しているのは、天皇制国家がもたらす政治死との関連である。この点で彼らは極めて類以した運命を辿った。しかも彼らの死は、権力によるフレーム・アップの色彩が極めて濃いものである。高橋和巳は、あらゆる権力には「逆鱗」とでもいうべきものがある。天皇制国家における逆鱗とは支配天皇制支配そのものである。しかもそこに一つの思想が存立すべきだとすれば、否応なく天皇制支配の原理に触れざるをえない。北一輝についていえば、彼はこの点の明確な自覚からその思想的な歩みを踏みだしたといえる。その処女作「国体論及び純正社会主義」の第四編「所謂国体論の復古的革命主義」はつぎのような書き出しで始まっている。
「只、此の日本と名け〈ナヅケ〉られたる国土に於て社会主義が唱導せらるるに当りては特別に解釈せざるべからざる奇怪の或者が残る。即ち所謂『国体論』と称せらるる所のものにして――社会主義は国体に抵触するや否や――と云ふ恐るべき問題なり。是れ敢て社会主義のみに限らず、如何なる新思想の入り来る時にも必ず常に審問さるる所にして、此の『国体論』と云ふ羅馬法王の忌諱〈キキ〉に触るることは即ち其の思想が絞殺さるる宣告なり。」
 この最初の認識はちょうど三〇年後、二・二六事件に連坐せしめられて刑死するまで、まっすぐに続いているといえる。したがってこの国体論の前に、即ち天皇制の支配原理の前に、敢えて一つの思想を立てようとする場合、それは常にあらかじめ予想せざるをえない運命である。しかもその権力はフレーム・アップを手段として用いるだけでなく、むしろそのような手段を是認し、聖化さえしている権力だといわなければならない。政治死とはこのような意味である。かくて、天皇制国家において思想をもつことは、同時に自己の生命を超越した立場に自己をおくべく備えておくことに他ならない。このことは、天皇制国家の権力が人間を単に外から拘束するだけでなく、心や精神の内側からも掌握しようとするトータルな支配をめざすことと対応している。日本の近代思想に「超越」的契機が滑りこむ、一つの理由はこの点にあるだろう。そこでは、思想が整然たる論理を展開し、その論理の優劣を競いあうというような悠然たる雰囲気におかれていたのではなく、もっと切迫した、切実な場におかれていたのである。北一輝が後半世、法華経に傾倒していった最大の理由もこの点にあったであろう。秋水や尾崎秀実が禅に傾倒するのも同様である。この三人の死を時代順に並べれば一九一一年(明治四四)、一九三七年(昭和一二)、一九四四年(昭和一九)となる。これはほとんど近代日本の後半部を覆う期間である。つまり思想の確立が同時に生死解脱〈ゲダツ〉の試みを要請するという事情こそ、思想史研究の近代主義者が愛用する歪みとか限界として捕えきれるものではなく、天皇制支配の基本的性格と、そこにおける人間の生き方にかかわる問題だったのである。

 この論文を読んで、北一輝の問題意識というものが、ある程度、理解できた。その処女作『国体論及び純正社会主義』(自費出版、一九〇六)のタイトルが意味するところを、始めて知った。北一輝のこの本は、まだ読んだことはなかったが、今年は読んでみようか、という気になった。

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身捨つるほどの思想はありや

2018-02-19 03:42:23 | コラムと名言

◎身捨つるほどの思想はありや

 数日前、書評紙『週刊読書人』の二月一六日号を買った。トップに「追悼西部邁」とあり、一面から二面にかけて、田原総一郎・猪瀬直樹両氏の対談記録が掲載されている。
 二面の最後に、猪瀬直樹氏の〈追記〉があり、次のようにあった。

 西麻布の路地で西部邁さんの息子さんから声をかけられた。ばったり会って、立ち話になりました。
 姉、つまり娘さんと夜の一時まで新宿の文壇バーで呑んでいて、早く帰れ、というから帰ったが、自殺するに違いないと確信して弟、つまり息子さんを呼び、夜中の三時ごろ多摩川の田園調布五丁目あたりの岸辺に駆けつけた。街灯のない真っ暗闇のなかを姉と弟二人で懐中電灯で探したが何も見えない。ほんとうの闇なのです。【後略】

 報道には、西部邁さんが亡くなったのは一月二一日「早朝」とあった。しかし、実際には、同日の未明ではなかったのか。それにしても、西部さんは、街灯のない真っ暗闇のなか、どうやって岸辺にたどりついたのか。やはり、懐中電灯などを用意されていたのだろうか。
 この追記を読んで、寺山修司の短歌を思い出した。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」。これにならって、一首。「電灯で照らす川面に闇ふかし身捨つるほどの思想はありや」。

*このブログの人気記事 2018・2・19(ミソラ事件と2・26事件とが……)

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赤尾敏、二・二六事件を語る(1975)

2018-02-18 02:43:59 | コラムと名言

◎赤尾敏、二・二六事件を語る(1975)

 島津書房編『証言・昭和維新運動』(島津書房、一九七七)は、第一部「証言 私の昭和維新」と、第二部「対談 座談 維新運動」からなっている。第二部の冒頭にある鼎談記録「『維新運動』を語る――赤尾敏・津久井龍雄・猪野健治」(初出、一九七五)は、昨年一一月一五日のコラムで、その一部を紹介したことがあった。
 本日は、この鼎談記録のうち、右翼活動家の赤尾敏〈アカオ・ビン〉が、二・二六事件との関わりを語っている部分を紹介したい。発言者名に「司会」とあるのは、猪野健治氏を指す。なお、本日、紹介する部分は、昨年一一月一五日に紹介した部分の直前にあたる。

  昭和維新挫折の真因
 赤尾 ぼくのところから出ていった人は、なぜかぼくを目の仇にした(笑)。
 建国会では、いくつか雑誌を出したんだが「行動維新」という雑誌をやってたときに、編集者がメーデーについてアンケートをとった。西田税〈ニシダ・ミツギ〉(二・二六事件指導者)が解答を寄せてきて、「メーデーは労働者の祭典だから、やらせといたっていいじゃないか」という趣旨のことを書いてきた。よせばいいのに編集奢が「右翼を自認しながら、こういうつまらんことをいう者がいる」なんて同じ誌面に書いちゃった。さあ、西田は怒って、ぼくのところに決闘状をよこした。上野のどこそこへ出てこいというんだ。西田にしてみれば建国会で派手にやっていたぼくをやっかむようなところがあったんだ。それがよけいなことを書いたもんだから、爆発しちゃった。
 ぼくは、つまらんいいがかりだと思ったんでそのままにしてした。西田の方は、引っ込みがつかなくなって、ぼくのところへ電話をかけてきて、建国会の本部へ行くという。
 ぼくは、くるならきてみろと、事務所にスパナやその他の道具類をころがしておいて待ちかまえていた。西田が現われて日本刀でもピストルでも脅しにちらつかせたら、ぼくはただちにスパナで西田の頭を叩き割ってくれようと思っとった。西田の自筆の決闘状がぼくの手元にあるんだから、ほくが責められることはなにもない。そしたら、西田はついに来なかった。ぼくの捨て身の決意が西田の方につたわったのかも知れんね。そのときの決闘状は、まだぼくの手元にあるよ。
 それから数年後に西田税から、久方ぶりに電話がかかってきた。こんどは決闘の話じゃない。会いたいというんだ。僕は、前のイキサツもあったんで、西田君をあんまり信用してなかった。だから「来てくれ」といってもいかなかった。その直後に二・二六事件が発生した。あのとき、ぼくが西田君をたずねていたら、いまごろぼくは墓の下だよ。多分、西田君とともに死刑になっていた。
 司会 そんなことがあったとは知りませんでした、二・二六事件が不成功に終わったことについては、どうお考えですか。
 赤尾 事件のあと、ぼくは考えた。参加者がいのちを投げだして昭和維新を断行しようとした意志は尊いと思う。だが、その戦術たるや根本的に間違っていた。首相官邸や斎藤〔実〕内大臣、鈴木〔貫太郎〕侍従長官邸などを襲ったのがそもそも失敗の原因だ。大臣や警視庁を襲ったってどうにもならない。まず「陛下をお護りする」という大義名分のもとに、宮城にこもり、天皇の御名によって政権交替を断行すべきであった。戦後は、象徴天皇ということになって、天皇大権はなくなったが、当時は、あらゆる施政が、天皇の御名で、行なわれていた。天皇大権の発動をいいながら、天皇を擁して行動しなかったことが二・二六事件の最大の敗因だった。
 津久井 二・二六事件の問題点は、昭和維新の断行を主張しながら、自らは、政権をとる意思をもたなかったことだ。政権をとる意思がないから、したがって具体的な政策ももっていなかった。
 君側の奸〈クンソクノカン〉を倒したあとは、だれかに政権をとってもらう――というのでは、あとがどうなっていくかわからない。君側の奸を倒したあとは、自分たちで政権をとって、こういう政策をやっていくんだという展望をもっていなかった。
 赤尾 日本の右翼にはそういう他力本願的な弱さがあるね。戦後だって、この傾向は残ている。自民党に、ああしろ、こうしろと建策だけをやっている。自分で政権をとって自分で政策をつくっていこうという意欲がなくっちゃ。だから、日本の右翼には政策がない、なんていわれる。他力依存ではダメだ。
 ヒットラーにせよ、ムッソリーニにせよ、ホーチミン、ゲバラ、毛沢東にせよ、自分たちの信念のもとにたたかい、行動し、その手で政権をにぎり、彼らなりの政策を堂々と実現に移している。
 津久井 昭和維新の失敗は、つまるところは、その不徹底性にあった。多くな人たちによる多様な直接行動が行なわれたが、はっきりと政権奪取を表面に出して行動したのは、大川周明さんだけだった。そして、大川さんは、政権を奪取しようなどというのは、天皇大権を犯すことになる――などと、かえって非難された。

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二・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ(末松太平)

2018-02-17 02:42:44 | コラムと名言

◎二・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ(末松太平)

 昨日に続いて、末松太平〈スエマツ・タヘイ〉が、二・二六事件について証言している対談記録を紹介してみたい。
 証言の出典は、島津書房編『証言・昭和維新運動』(島津書房、一九七七)の第一部「証言 私の昭和維新」の「二・二六事件・末松太平氏に聞く」。昨日は、そのうちの「2 北一輝と青年将校」を紹介したが、本日は、「3 天皇と二・二六事件」を紹介する。
 聞き手は、鈴木邦男氏、地の文も鈴木氏によるものである。

  3 天皇と二・二六事件
 あれだけのことをやりながら二・二六事件は成功しなかった。「他の国でならば、あれでクーデターは完全に成功ですよ」と、河野司〈コウノ・ツカサ〉氏(二・二六で牧野〔伸顕〕元内府宿舎を襲った河野寿〈ヒサシ〉氏の実兄)は言う。それも一理ある見解であろう。しかし失敗した。良くも悪しくも天皇(制)があったからである。日本におけるクーデターの、そして革命の難しさもここにある。
 明治維新の時ならば、皇居に入り、「玉を奪い」、強引に、成功させていたであろう。木戸孝允などが生きてたらきっとそうしたに通いない。自分達がモデルとした明治維新の忠士連よりも、青年将校の方がより純粋だったからなのか。あるいは幼稚だったからなのか……。
 二・二六蹶起の挫折は、天皇が、「人間天皇」になられ、「人間の怒り」を持って蹶起者に対したからだとも言われる。一時は、青年将校のリーダーが失敗を自覚し、全員自決しようとする。その時、栗原〔安秀〕は「せめて勅使をあおぎたい」と言う。しかし、本庄〔繁〕を通して伝えられた天皇の言葉は冷たかった。「勅使などはもっての外だ。死にたければ勝手に死ね」。その言葉が青年将校に伝わらなかったのだけは幸いであろう。
 また天皇は、「日本もロシアの様になりましたね」いわれたという。獄中で人伝てにこのことを聞き、磯部〔浅一〕は「私は数日間気が狂ひました」と言い、そして叫ぶ。
「今の私は怒髪天をつくの怒〈イカリ〉にもえています、私は今は、陛下を御叱り申上げるところに迄、精神が高まりました。だから毎月〔ママ〕朝から晩迄、陛下を御叱り申して居ります。天皇陛下、何と云ふ御失政でありますか、何と云ふザマです。皇祖皇宗〈コウソコウソウ〉に御あやまりなされませ」(「獄中日記」)
 天皇はもう一度、「人間天皇」になられた時がある。終戦の和平を決める時である。和平に反対し、厚木航空隊の反乱を起こした小園〔安名〕司令は絶叫する。
「天皇陛下、お聞き下さい。あなたはあやまちを冒されましたぞ。あなたの言葉で戦争をお始めになったのに、何ゆえ降伏なさるのでありますか」
 そしてこの怨念の声は、磯部、小園、さらに三島由紀夫へと至る。
「天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)う
かかる日に
などてすめろぎは人間となりたまいし」 (「英霊の声」)
【一行アキ】
 ――二・二六の時は、皇居に入って、「玉〈ギョク〉を奪う」というか、そんな計画はなかったのですか。松本清張の「昭和史発掘」などには皇居占拠の計画があったように書いてますが。
 末松 そんなものはないですよ。そんなことを考えていたら、年寄りを殺すよりも、先きにそっちをやってますよ。為し得れば、ということで門を押える位のことは考えたらしいけれど。それに今さら、そんなことを推測してみても仕方ないんじゃないかな。磯部なんかを墓から起こして聞いてみるわけにもゆかないし。
 ――天皇のために蹶起した人間が、天皇の名のもと鎮圧され、裁かれますね。「朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しい行為なり」とか、「これから鎮撫に出かけるから、ただちに乗馬の用意をせよ」と天皇は激怒されたと聞きますが。
 末松 その天皇の御言葉によって全ては、つぶれてしまうんですよ。この天皇の御意思がわかったから、皆将軍連中も手の平を返した。二・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ。そのウラミは私にもありますよ。真崎〔甚三郎〕や荒木〔貞夫〕などばかりせめてもかわいそうです。
 ――しかし、真崎、荒木、山下〔奉文〕なんていうのはずい分と将校をおだてておきながら、いざ奉勅命令が出ると、彼らを裏切っていますね。
 末松 まァ、大体に於て革命する人間が、苹命される
側の人間を信頼するというのが間違いの因〈モト〉ですよ。僕は真崎、荒木等は前からハシゴだと思っていた。屋根に上ってしまえば、もういらないんですよ。だから別に裏切ったとも思っていません。
 ――しかし真崎や荒木将軍達のみならず、天皇にも裏切られた磯部の叫びは凄惨ですね。
 末松 いゃア私はそうは思わないがね。あれは赤ん坊が泣いて、「お母ちゃんのバカ、バカ」って言って胸をたたいているようなもんですよ。それだけにまた悲しいことともいえるが。
 ――そうですか。ところで今の問題と関連しますが、北〔一輝〕は、あまり、天皇のことなど考えていなかったという説もありますが。
 末松 あの頃読まれていた本で、遠藤無水の「天皇信仰」〔先進社、一九三一〕という本がありますが、それには、北の改造法案を「赤化大憲章」だと書いてある。また、北の思想を共産主義だという人も、ずい分いた。僕なんかは北からはそんな話はあまり聞かなかったが、ただ、東郷〔平八郎〕大将の「天壌無窮」というと、青銅でつくった明治天皇の像をいつも部屋にまつっていた。僕らよりも、北の方が、ずうっと天皇を崇拝してましたよ。
 ――ただ北の思想の中には、社会主義的なものはずい分あったんじゃないですか。
 末松 それは確かにありましたよ。しかし社会主義だろうと共産主義だろうと、日本の国の思想とは矛盾しないと思うんだな。何故なら虐げられた者が幸福になるということでしよう。これは大御心〈オオミゴコロ〉と同じですよ。マルクスの考えたことも大御心にかなうことですよ。金持ちだけがいい目を見、働くものがバカを見るのは大御心じゃないでしょう。ただ、日本の天皇は外国の帝王のようにブルジョアになってはならないというのが北の考えなんですよ。ヨーロッパの帝王は、狩りをする時、ウサギの味が落ちるから、畑に肥料をやるのを禁じたなんてのがある。百姓が困ろうと一向に構わない。そういう王室とは全然違うんだと言ったんですよ。皇室財産はいらないという北の主張もそこから出て来るんですよ。西田〔税〕が笑って言ってましたよ。「日本でブルジョアといったら、天皇陛下が一番ブルジョアだよ。木曽の御料林に行って御覧。(当時の金で)一本何万円もする杉や桧〈ヒノキ〉が、ぼんぼん立っている。百万長者じゃきかないよ」ってね。我々が当時、そんな事をいうと不忠者と思われたが、マッカーサーによってそれがやられた。青年将校がやり残した事ををマッカーサーがやり遂げたなんて全く皮肉ですがね。

 鈴木邦男氏が、松本清張のいう「皇居占拠の計画」について尋ねたのに対し、末松太平は、言下に否定している。事実、そういう計画はなかったと考えてよいだろう。
 松本清張の「昭和史発掘」と言えば、だいぶ前(半世紀ほど前である)に、昭和史をドラマで再現するテレビ番組があった。松本清張の監修で、毎回、清張本人が画面に登場して、いろいろと解説していた。二・二六事件を扱った回のとき、清張は、蹶起部隊が皇居を占拠していれば、クーデターは成功していただろうと語っていた。それが、いかにも残念そうな口ぶりだったことを、今でもよく覚えている。
 松本清張(一九〇九~一九九二)と三島由紀夫(一九二五~一九七〇)とは、世代も違うし、生育した環境にも差がある。もちろん作風も異なっている。しかし、二・二六事件の将校らにシンパシーを寄せていた点において、共通するところがあったのかもしれない。

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