あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は誰しも常に堕落する可能性がある。(人間の心理構造その26)

2023-06-08 17:36:15 | 思想
人間は、一生、エディプスの欲望から逃れることができない。だから、常に、堕落する可能性がある。エディプスの欲望とは幼児の異性の親(息子ならば母、娘ならば父)に対する性愛的な自我の欲望である。深層心理が欲動に基づいて快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、エディプスの欲望とは自我の欲望の一つである。深層心理とは、人間の無意識の精神の活動である。だから、幼児は、無意識に、エディプスの欲望を懐くのである。深層心理は、自我を欲動にかなった状態にすれば快楽が得られるので、欲動に応じた自我の欲望を生み出すのである。欲動には、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望がある。しかし、道徳や社会規約は守る欲望が存在しない。だから、幼児の深層心理は、欲動の支配欲、承認欲に基づいて、快楽を求めて、エディプスの欲望を生み出し、幼児を動かそうとするのである。異性の親の愛情を独占したいという支配欲と異性の親に一人の男・女として認めてほしいという承認欲がエディプスの欲望を生み出すのである。もちろん、エディプスの欲望は、同性の親に阻止され、社会的に許されない。だから、かなえられない。しかし、人間は、一生、エディプスの欲望を、深層心理に秘めながら、持ち続けるのである。不倫、浮気、幼児愛、レイプという道を外れた欲望がそれである。さて、人間が幼児期においてエディプスの欲望があることを唱え、それを抑圧する過程をエディプス・コンプレクスとして、思想として作り上げたのは、心理学者のフロイトである。詳述すれば、エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)である。すなわち、エディプスの欲望とは、息子は母に対して、娘は父に対しての性愛的な欲望である。エディプスの欲望を抑圧する過程をエディプス・コンプレクスとフロイトは命名した。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定を得ると、息子・娘という自我が主体に立てて、快楽を求めて、思考して、母・父に対して性愛的な欲望(エディプスの欲望)という自我の欲望を生み出し、息子・娘を動かそうとするのである。つまり、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持つと、無意識のうちに、息子は母に対して、娘は父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を懐き始めるのである。もちろん、この欲望は決してかなえられることは無い。それは、男児の母への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には父が大きな対立者として立ちふさがり、女児の父への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には母が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父・母に味方するからである。そして、幼児の深層心理は、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を貫けば、家族という構造体から追放されるので、この欲望を自らの心のうちに抑圧するのである。幼児の深層心理に存在する超自我というルーティーンの生活を守ろうとする機能が、この家族という構造体の中で生きていくために、そして、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自我の欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発し、ルーティーンから外れた異常な行動を抑圧し、自我に毎日同じことを繰り返させようとする機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、幼児は、表層心理で、自らの状態を意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考して、意志によって、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧することになる。表層心理とは人間の自らを意識しての精神の活動である。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な自我の利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望は、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。人間は、表層心理で、自らの状況を意識して、深層心理が生み出した自我の欲望を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし不利益を被らないないようにしようという視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。つまり、家族という構造体で、幼児という自我の生活を安定して続けるために、超自我や表層心理での思考によって、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧するのである。これが、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、息子・娘という自我が成立し、アイデンティティーが確立された時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の欲望が生じるのである。もちろん、それは、家族という構造体を破壊する反社会的な欲望だから、他者や他人から反対され、自らも、超自我や表層心理での思考によって抑圧しようとするのである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。しかし、幼児だけが、反社会的な自我の欲望を懐くのではない。人間は、一生、反社会的な自我の欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、一生、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持ち、常に、深層心理が欲動に基づいて快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするからである。欲動に道徳観や社会規約を守ろうという欲望が存在しないから、深層心理は、快楽を求めて、反社会的な欲望をを生み出すことがあるのである。なぜ、そのようなことが生じるのか。それは、人間は、誰しも、意志無く生まれているからである。つまり、偶然に、誕生しているからである。人間は、気が付いたら、そこに存在しているのである。つまり、人間は、誰一人として、自らの意志によって生まれてきていないのに、生きているのである。しかし、それは、生きる意味、生きる目的が存在していないということを意味していない。人間は、生きる意味、生きる目的を有せずして、生きることはできない。つまり、人間には、自ら意識していないが、生きる意味、生きる目的が存在しているのである。それを生み出しているのが深層肉体と深層心理である。深層心理が人間の無意識の精神の活動であるように、深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動である。すなわち、人間は、生きる意味、生きる目的を自ら意識して思考して生み出していなくても、無意識のうちに生きていけるのである。すなわち、表層心理で思考して生み出さなくても、既に、深層肉体と深層心理が生きる意味、生きる目的を生み出しているのである。深層肉体の生み出している生きる意味、生きる目的とはひたすら生き続けようとすることである。人間は、深層肉体のひたすら生き続けようとする意志によって、生かされているのである。そして、人間は、動物を脱して、人間界に入ること、すなわち、自我を持つことによって、ひたすら生き続けようとす深層肉体の意志に加えて、快楽を求めて生きようとする深層心理による無意識の意志によって動かされるようになるのである。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者・物・現象などの外部に反応しながら、行動しているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と・物・現象などの外部と関わりながら、暮らしているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。だから、人間は自分にこだわって生きているが、自分とは、自らを他者や他人と区別している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、同じ構造体の人々である。他人とは、別の構造体の人々である。すなわち、自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と区別しているあり方に過ぎないのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。人間には、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我になるのである。だから、人間は、自我が持つ能力を有して生まれてくるが、自我を有して生まれていないのである。人間は、カオスの状態で、動物として生まれてくるのである。人間は、無意識のうちに、深層肉体の意志によって、ひたすら生き続けようとするのである。しかし、人間は、カオスの状態では不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持つようにできているのである。人間は、構造体に所属し、自我を有して、初めて、人間としての思考が生まれ、人間として行動できるようになるのである。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かそうとするのである。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、欲動に基づいて快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。快楽を求める欲望を、フロイトは快感原則と命名した。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようと思考する深層心理のあり方である。欲動には、道徳観や社会規約は存在しないから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理が快楽を得るためには、自我の状態を欲動に応じたものにしなければならないのである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てて動かす必要があるのである。もちろん、深層心理が快楽を得るということは、自我、すなわち、人間が快楽を得るということである。それでは、自我の状態がどのようであれば、欲動は深層心理に快楽をもたらすのか。四つの欲望にかなった状態の時である。そこで、深層心理は、自我を欲動の四つの欲望のいずれかにかなうように状態にするように思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がある。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲がある。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲がある。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。まず、欲動の第一の欲望である保身欲であるが、欲動に自我を確保・存続・発展させたいという保身欲があるから、深層心理はそれに基づいて思考して自我の欲望を生み出し、人間の日常生活をルーティーンにさせているのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないという保身欲からである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失い、保身欲が阻害されたからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切を大切だという保身欲からである。裁判官も官僚も、マスコミや国民から批判されて承認欲が傷付けられるまで、改めることは無いのである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするという保身欲から、事件を隠蔽するのである。事件を隠蔽すれば、マスコミや国民から批判されて承認欲を傷付けられることが無いからである。いじめ自殺事件が起こると、いじめた子の親は親という自我を守るという保身欲によって自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲から、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いという保身欲から、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が、超自我や表層心理での思考によるストーカー行為を抑圧しようという思いを凌駕し、深層心理が思考して生み出した行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心は、欲動の四つの欲望(保身欲、承認欲、支配欲、共感欲)すべてに支えられている。人間は、自我の動物だから、国民という自我を持つと同時に、この自我を持ち続けたいという保身欲が生じるのである。国民という自我は国という構造体に所属しているから与えられるので、他国の人々によって自国を認めてほしいという承認欲が生まれるのである。だから、オリンピックやワールドカップで自国の選手や自国チームが勝利すると喜ぶのである。勝利すれば、自国の存在や力を他国の人々から承認してもらったように気になれるからである。しかし、愛国心があるからこそ、他国から承認欲を傷付けられていると思うと、戦争を引き起こし、勝利し、自国の存在を認めさせようとするのである。戦争が始まってしまえば、敵国の人間という理由だけで、支配欲から殺すことができるのである。さらに、戦争が始まると、国民に共感欲が生まれ、一致団結して戦うのである。ずるがしこい政治権力者は、それを利用して、他国に戦争を仕掛けるのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲であるが、深層心理は、自我を対他化する(自我が他者にどのようにみられているかを推し量る)ことによって、この欲望を満たそうとする。人間は、他者がそばにいたり会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。人間の中には、毎日、高校や会社という構造体に行き、高校生や会社員という自我を持ち、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという承認欲を持って暮らしている人がいる。しかし、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、怒りの感情と殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。怒りの感情が弱い場合、欲動の保身欲から発した超自我の機能が、ルーティーンの生活を守るために、殴れという行動の指令を抑圧しようとする。たとえ、超自我が抑圧できなくても、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、怒りという感情の下で、殴れという行動の指令について思考し、それを抑圧する。殴らない方が、生徒や会社員という自我を存続でき、現実的な利得を得られるからである。しかし、傷付いた自我が癒えるには時間が掛かり、その間に、相手が謝罪すればそれで自我が癒されるが、それが無ければ、誰にも知られないような復讐を考えて日々を過ごすのである。そして、それを実行に移す人もいるのである。たとえ、それが悪事だとしても、他者や他人に、自分が犯人だと露見しなければ、非難されたり罰せられたりすることも無く、承認欲が傷付けられることが無いからである。怒りの感情が強い場合、超自我の抑圧も表層心理の意志による抑圧も功を奏さず、人間は、怒りに任せて、行動の指令に従って相手を殴ってしまうのである。そうして、最悪の場合、高校生は退学、会社員は退社を余儀なくされ、保身欲を著しく傷つけられるのである。たとえ、高校や会社という構造体に留まることができたとしても、非難されたり罰せられたりして、承認欲が傷付けられるのである。中には、保身欲や承認欲傷付けられたことに堪えきれなくなり、精神疾患に陥ったり自殺したりする人もいる。精神疾患や自殺は、深層心理が考え出したことだから、人間は表層心理での思考による意志では止めることができないのである。また、受験生が有名大学を目指すのは承認欲からである。だから、学部を選択せず、その大学に入ろうとするのである。本末転倒だが、人間とはそういうものである。少年・少女がアイドルを目指すのも、華やかに見える芸能界という構造体で、大衆の支持を受けたいという承認欲からである。誰が汗水たらして働くことを望むだろうか。汗水たらして働いても、承認欲が満足できないからである。人間が、身だしなみを整えたり化粧したりするのも、他者や他人の評価を受けたいという承認欲からである。ありのままの姿やすっぴんが良いと言う人にも、その姿態で他者や他人の評価を受けたいという承認欲がある。もしも、承認欲を有しない人間が存在したならば、支配欲のままに、傍若無人にふるまうだろう。絶対的なわがままである。だから、人間は、承認欲にとらわれても、承認欲を無視しても、常に、堕落する可能性があるのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化とは、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で、他者・物・現象という対象を支配することである。すなわち、対象の対自化とは、深層心理が、他者という対象を自我の志向性の下で支配しようとし、物という対象を自我の志向性で利用しようとし、現象という対象を自我の志向性で捉えることである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、深層心理が、他者を、自我が支配するために、リーダーとなるために対象としてみることである。そして、深層心理が、自我を、他者を支配するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接するようにさせるのである。深奥心理は、自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。そうなれば、自我の力を最大限に発揮できるのである。だから、支配者、リーダーになるためには、手段を選ばない者も存在するのである。手段を選ぶ者は良心からではなく、不正な手段をマスコミや大衆に批判され、その地位から降ろされる可能性があるからである。露見する可能性が無いと思えば、不正な手段を使うのである。また、たいていの人支配欲があることを他者に悟られないようにする。警戒されるからである。学校という構造体の中で、教師が校長になろうとするのは、深層心理が、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。有の無化は、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。深層心理は、自己正当化のためには、欲動の支配欲身をゆだねるのである。深層心理にとって、真実か虚偽か大切では、自我を正当化できるかどうかかが大切なのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲であるが、深層心理は、自我を、他者と理解し合う・愛し合う・協力し合うような状態にすることによって、快楽を得ようとすることである。深層心理は、常に、趣向性(好み)に合う人を探していて、友人や恋人になろうとしている。友情や恋愛感情に得ることによって、自我の存在を確かなものにしようとするのである。共感を満たそうとして他者と接する作用を共感化と言う。つまり、共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が閉ざされたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うという欲動の第一の欲望である保身欲が傷付けられたことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、深層心理のルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考で、抑圧しようとしても、屈辱感が強過ぎるために、ストーカーになってしまうのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化欲から起こる。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であり、深層心理が生み出す感情と行動の指令という善悪が混合している自我の欲望に動かされ、他者に知られることが無ければ、悪の自我の欲望を成就しようとするのである。悪の自我の欲望であっても、自我の欲望を成就すれば、快楽が得られるからである。悪事が露見すると、他者や他人の非難を受け、承認欲が傷付けられるから、悪の自我の欲望を抑圧するのである。しかし、感情が強ければ、超自我も表層心理の抑圧も功を奏さず、悪の行動の指令だとしても、実行してしまうのである。つまり、人間は、誰しも、常に、堕落する可能性があるのである。