あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自らに過度に期待するから、後悔し、絶望するのである。(自我その450)

2020-12-29 16:50:37 | 思想
人間が、自我に捕らわれず、自らの意志で意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動することができるのであれば、人間は、自由な存在であり、主体的なあり方をしていて、主体性を有していると言えるだろう。しかし、人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。人間は、深層心理という自分が意識していない思考が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされて、生きているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は、自我として存在し、深層心理が思考して生み出した感情の力によって、深層心理の生み出した行動の指令の指令を実行するように促され、行動しているだけなのである。確かに、人間は、自らの意志で意識して考えることもある。自らの意志での意識した思考を、表層心理での思考と言う。しかし、人間が、表層心理で、自らの意志によって、意識して、思考する時は、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理の生み出した行動の指令を、自我の行動として許諾するか拒否するかを審議する時だけなのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。暴力や殺人などの犯罪行為は、人間は、表層心理で、抑圧しようするのだが、深層心理が生み出した怒りの感情が強いので、深層心理が生み出した行動の指令のままに行ったことによって起こったのである。だから、人間は、主体的な存在でもなく、自由な存在でもないのである。人間が本質的に自由ではないのは、他者に束縛されているからではなく、自らの深層心理に動かされているからである。人間が自由でもなく、主体的でもないのは、日常生活がルーティーンとなっていることからも理解できる。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ、楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、日常生活において、時には、異常なことが起こる。学校において、教師に厳しく叱責される。会社において、上司に激しく罵倒される。深層心理は、怒りの感情と反抗しろという行動の指令という自我の欲望を生み出す。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、この自我の欲望を抑えようとする。超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用である。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という作用が、日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、思考して、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を抑圧しようとする。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した怒りの感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに反抗してしまうのである。そうして、いっそう、自らの立場を悪くするのである。つまり、人間の表層心理での思考による意志は、時には、深層心理が生み出した感情と行動の指令に屈服するのである。人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した反抗しろという行動の指令を拒否することを決め、意志によって、実際に、反抗しろという行動の指令を抑圧できたとしても、その場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。強い怒りの感情の抑圧は、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。さらに、強い怒りの感情の抑圧が、暴発して、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。このように、深層心理の超自我という作用と表層心理での思考が、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理の学校や会社という構造体の中で、生徒や会社員という自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。そして、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。しかし、表層心理での思考は、基本的に、長時間掛かるのである。なぜならば、表層心理での思考は、道徳観や法律を考慮し、反抗したしたならば、後に、自我がどうなるかという長期的な展望に立って、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するか審議することだからである。現実原則は、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望であるから、他者の評価を気にして、道徳観や法律を考慮するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、将来のことを考え、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、人間は、再び、表層心理で、この状況から逃れるためにはどうしたら良いかと苦悩するのである。そうして、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考が続くのである。人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していず、思考と行動の主体は深層心理にあるのである。確かに、人間の特権は、思考することにある。人間の特権は、思考して行動することにある。しかし、人間は、自らの意志によって、意識して、思考しているのではない。人間は、自ら意識して思考したことを意志として、行動しているのではない。人間は、無意識のうちに思考して行動するのである。深層心理が、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動くのである。人間は、深層心理を意識することも動かすこともできないのである。しかし、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識し、それに動かされて、行動するのである。人間は、常に、自らを意識しているわけではない。自らを意識するとは、自らの存在を意識することである。自らの存在を意識するとは、何かを行っている自らを意識することである。人間は、他者を意識した時、自らを意識する。人間は、他者に見られていたり、他者に見られる可能性があった時には、必ず、自らを意識する。人間は、他者に見られている時、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時は、必ず、自らを意識する。人間は、他者の存在を感じた時には、必ず、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、現在の自らの行動や思考を意識することである。すなわち、他者の視線を感じた時や他者の視線を受ける可能性がある時には、必ず、自らを意識するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、現在の自らの行動や思考を意識するのか。それは、他者は、自らにとって、脅威の存在だからである。また、人間は、無我夢中で思考している時や行動している時にも、突然、自らを意識する時がある。無我夢中とは、自らの存在を意識せずに、対象に専心して、思考していたり行動していたりする状態である。それでは、なぜ、人間には、無我夢中で思考している時や行動していている時でも、突然、自らの存在を意識することもあるがあるのか。それは、自らが気付かないうちに、他者に襲われる可能性があるからである。他者は、自らにとって、脅威の存在なのである。このように、人間は、他者の存在によってしか、自らを意識することができないのである。人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。それでありながら、人間は、自由な存在であり、主体的なあり方をしていて、主体性を有していると思い込み、自らに過度に期待するから、後悔し、絶望するのである。



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