あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

見たくない自らの深層心理、知りたくない自らの大衆性について。(自我その429)

2020-11-01 15:30:33 | 思想
見たくなくても見なければいけないものがある。知りたくなくても知らなければいけないものがある。それを見なければそれに支配され、それを知らなければそれに支配されるからである。だから、恐くても、それを見なければいけないのであり、それを知らなければいけないのである。見たくなくても見なければいけないものが自らの深層心理であり、知りたくなくても知らなければいけないものが自らの大衆性である。人間は、誰しも、自ら、意識して思考して行動していると思っている。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。つまり、人間は、誰しも、表層心理で、思考して、行動していると思っている。しかし、真実は、深層心理が人間を動かしているからである。深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間はそれによって動かされているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。だから、人間は、深層心理を動かすこともできず、自我の欲望を生み出すことができないのである。深層心理とは、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間はそれによって動かされているのである。もちろん、人間の意識しての思考も存在する。人間は、表層心理で、自らを意識したり、意識して思考したりすることがあるが、自我の欲望を生み出すことはできないのである。だから、人間の思考も行動も深層心理から始まるのである。深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望から始まるのである。人間は、自我があるから、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって、人間として行動できるのである。それでは、自我とは何か。自我とは、構造体の中で、他者からある特定の役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、さまざまなものがある。自我も、その構造体に応じて、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・見解銀・県職員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。夫婦という構造体では、夫・妻という自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って存在し、行動している。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて、行動しているのである。だから、人間は、基本的に、主体的になれないのである。人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かしているからである。しかし、人間は、表層心理で、意識して、思考して、意志を生み出し、意志によって、自我を動かさなければ、主体的に行動していると言えないのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。日常生活は、ほとんど、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動で成り立っているだからである。人間が、本質的に保守的なのも、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。人間は、表層心理で思考する時は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動する時である。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、快感原則に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出しがちである。快感原則も、フロイトの用語であり、深層心理に存在する、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望である。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、超自我によって、過激な自我の欲望を抑圧しようとする。超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用である。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないことがある。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。現実原則とは、フロイトの用語であり、表層心理に存在する、道徳観や社会的規約を考慮し、後に、自我に利益をもたらし不利益を避けるという、長期的な展望に立つ欲望である。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。過激な感情は、時には、他者に向かうことがある。それが、暴力、稀には、殺人という犯罪を引き起こすこともある。それは、他者から、侮辱などによって、自我が傷つけられ、自我が下位に落とされたから、その自我を復活させようとして、他者を攻撃することによって、他者を下位に落とし、自我が上位に立とうという目的で起こした、深層心理は生み出した自我の欲望によるものである。過激な感情は、時には、自我に向かうことがある。それが、自らの命を奪うこともある。家が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親である。それは、子供の命が奪われ、家族という構造体の中で母親という自我が傷つけられるから、深層心理が生み出した自我の欲望によるものである。だから、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。他者に対する暴力・殺人という犯罪も母親という自我を行う我が子に対する犠牲的な行為も、深層心理が生み出した過激な欲望がそうさせるのであり、表層心理での思考による意志によるものではないのである。そこでは、超自我も表層心理での思考も力が発揮できないのである。ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。しかも、人間は、構造体ごとに異なる自我を持って、行動している。だから、自我と一体化できないのである。例えば、ある女性は、国という構造体では、国民という自我が持ち、青森県という構造体では、青森県民という自我が持ち、家族という構造体では、母という自我を持ち、夫婦という構造体では、妻という自我を持ち、学校という構造体では、教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、という自我を持ち、同窓会という構造体では、旧友人という自我を持って、行動しているのである。つまり、人間は、一つの自我に固定されず、自我と一体化できないのである。この意味でも、人間は、主体的ではないのである。さて、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間はそれによって、動かされているが、その深層心理を動かしているのが欲動である。欲動は深層心理に内在していて、四つの欲望で深層心理を動かしている。深層心理は、欲動という四つの欲望に基づいて、思考するのである。欲動の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であり、自我の保身化とも言われている。これが、最も強く、深層心理に影響を与えているのである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は社会生活を営むことができないからである。この欲望は、当然のごとく、構造体を存続・発展させようという欲望にも繋がっていく。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望は、自我を他者・他人に認めてほしいという欲望であり、自我の対他化とも言われている。自我を他者に認めてもらうことによって、快感原則を満たそうとする、すなわち、快楽を得ようとするのである。欲動の第三の欲望は、自我によって、他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であり、対象の対自化とも言われている。自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。欲動の第四の欲望は、自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望であり、自我と他者の共感化とも言われている。自我を他者と理解し合うにさせる・愛し合うようにさせる・協力し合うようにさせる、すなわち、自我を他者と心の交流させることによって、快楽を得ようとするのである。深層心理は、自我を主体に立てて、自我の保身化、自我の対他化、対象の対自化、自我と他者の共感化という欲動の四つの欲望に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて、行動しているのである。この、自我の欲望に忠実な人々が大衆なのである。大衆とは、自我の欲望に正直に行動している人々のことである。しかし、人間は、誰しも、大衆になるのである。大衆性から、脱却するのは容易なことではないのである。人間は、大衆に育てられ、大衆の中で育つのからである。だから、自然に、大衆性を身に付け、大衆として生い育っていき、大衆のまま、一生を終える人がほとんどなのである。人間は、生まれて来たくて生まれてきたのではなく、気が付いた時にはこの世に誕生していたのであるから、先天的に、主体性を有していない。さらに、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、自然に、大衆性を身に付け、大衆として生い育っていくのである。「子供は正直だ」と言うが、それは、子供は自我の欲望に正直に言動し、行動するという意味である。大衆の特徴は、すなわち、大衆性とは、まさしく、「子供は正直だ」という幼児性なのである。一般に、大衆とは、世間一般の人々、民衆、庶民を意味するが、国の指導的地位にある政治家やエリートと呼ばれている官僚も大衆なのである。なぜならば、大衆性とは、自分の存在を他者に認められたいと思いいつつ、現在の自分の立場を失うことを恐れて権力者や多数派に与し、若しくは、自分の権力を利用して自我の欲望を果たすことだからである。大衆は、自分の存在を他者に認められたいと思いいつつ、現在の自分の立場を失うことを恐れて、権力者や多数派に寄りかかり、もしくは、権力や多数の支持を利用して、現在の体制に異を唱える少数派や単独者を激しく攻撃するのである。この大衆の特徴、動きは、深層心理に内在し、深層心理を動かしている、欲動の四つの欲望に合致しているのである。まず、大衆が自分の存在を他者に認められたいと思うのは、欲動の第二の欲望である、自我の対他化とも言われている、自我を他者・他人に認めてほしいという欲望から発しているのである。次に、大衆が現在の自分の立場を失うことを恐れるのは、欲動の第一の欲望である、自我の保身化とも言われている、自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発しているのである。次に、大衆が権力者や多数派に寄りかかり、もしくは、権力や多数の支持を利用するのは、欲動の第四の欲望である、自我と他者の共感化とも言われている、自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望から発しているのである。大衆の共感化された感情が愛国心である。つまり、大衆の共通の感情が愛国心である。現代社会において、最も大きな構造体は国であるから、自我である国民の共通の感情である愛国心が最も大きな力を発揮するのである。かつて、中国の反日運動の際に、スローガンにとして、愛国無罪という言葉が使われた。愛国心に基づいた行為ならば全てが許されるという意味である。判断力の欠いた、幼児性に満ちたスローガンである。中国人は、このスローガンを掲げて、中国にある日本の店舗を襲撃したのである。「子供は正直だ」という幼児性とは、この言葉そのものである。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直だ」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利を強く主張するということは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。しかし、この言葉は、見事に、愛国心の陥穽を表している。愛国無罪は、内向きの言葉であるから、それをを唱えられると、同じ国という構造体に所属して国民という自我を持っている人間は、容易に、反論できないのである。なぜならば、愛国無罪に反論すると、自らが所属している国という構造体と自らが持っている国民という自我を否定し、敵国に通じているというように、周囲の愛国心を抱いている人々から誤解を受け、反感を買い、暴力を受けたり、時には、リンチによって殺されたりする可能性があるからである。政治権力によって、拷問死させられる可能性もあるのである。中国において、愛国無罪がスローガンであった時があるように、日本においても、「俺は日本のためなら何でもする。命も惜しくない。」などと、愛国心に満ちた言葉を吐く人々がいる。所謂、右翼という、ナショナリスト(愛国主義者、国粋主義者、全体主義者、民族主義者)の判断力の欠いた、幼児性に満ちた言葉である。しかし、この言葉に真っ向から反論する人はいない。なぜならば、そうすると、自ら、日本という構造体と日本国民としての自らの自我を否定しているように誤解される虞があるからである。ナショナリストたちは、自らが思っている日本像と異なった考え方をしている人や自らが思っている日本の国益に反した行動をする人を、反日、非国民、売国奴と言って罵るのである。他の日本人も自分たちの考えに従わなければならないと思っているのである。なぜならば、真に日本のことを考えているのは自分たちだと思っているからである。ナショナリストの愛国心はストーカーの恋愛感情に似ている。ストーカーもまた自分が最も相手の女性(男性)を愛し、最も知っていると思い込んでいる。そして、相手に付きまとっている自分は悪くなく、自分のことを受け入れない相手が悪いのだと思い込んでいるのである。そして、相手が自分の気持ちをどうしても受け入れてくれないとわかったり、相手に新しい恋人ができたりすると、堪えきれずに、相手を殺すこともあるのである。そして、社会的に罰されるのが嫌なので、自分の行為を正当化したまで自殺する人も存在するのである。ストーカーは、相手を真に愛しているのは自分だと思っているから、他の人が相手を愛すること、相手が他の人を愛することを許さないのである。それは、日本を太平洋戦争を突き進ませたナショナリストたちに似ている。ナショナリストたちは、自分たちは命を懸けてまで日本のことを思っているのだと、日本人の愛国心に訴えた。そして、ほとんどの日本人はそれに従った。そして、自分たちの考えに反対する日本人を非国民、売国奴だとして逮捕し、自分の考えに従わない者を逮捕し、拷問にかけ、殺した。拷問で殺された者は、わかっているだけでも、80人以上存在する。ナショナリストたちは、愛国心に訴え、朝鮮半島、中国大陸に侵略し、アメリカ・イギリス・オランダ・中国などに対して太平洋戦争を起こした。そして、愛国心に付け込まれた大衆は、戦争反対の日本人を警察や憲兵に密告し、中国人、朝鮮人、アメリカ人、イギリス人、オランダ人を憎悪した。しかし、戦争に負けた。すると、大衆と大多数のナショナリストたちは他の者に責任転嫁して戦後を生き延び、少数の筋金入りのナショナリストたちは、罰せられるのが嫌で、自己正当化するために自決した。現代においても、日本の大衆は自民党を支持している。それは、決して、自民党の国会議員を信頼しているからでは無い。日本の大衆は、前首相の安倍晋三、現首相の菅義偉を筆頭に、自民党の国会議員の大半が悪党であることを知っている。それでも自民党を支持するのは、野党が政権を執れば、中国、北朝鮮、韓国に対抗できないと思っているからである。対抗する力が弱まると思っているのである。大衆は、愛国心によって、中国、北朝鮮、韓国が憎いから、頼るべき政党として、自民党を支持しているのである。大衆の自民党支持は、愛国心のなせる業なのである。もちろん、アメリカ人ならばアメリカに愛国心を抱き、中国人ならば中国に対して愛国心を抱き、韓国人ならば韓国に対して愛国心を抱き、ロシア人ならばロシアに対して愛国心を抱き、北朝鮮に住む人ならば北朝鮮に対して愛国心を抱いているのは当然のことである。トランプ大統領が、「アメリカを第一に考える」と言ったのは、完全なる愛国心の発露である。つまり、愛国心の発露とは、エゴの発露なのである。だから、愛国心を無反省に追求すれば、国家間の戦争に帰結する。だから、トランプ大統領は危険なのである。「子供は正直だ」という慣用句の通りである。つまり、トランプ大統領は、子供なのである。そして、トランプの幼児性、つまり、深謀遠慮のない、無反省の愛国心の発言が、アメリカの大衆の深謀遠慮のない、無反省の愛国心を揺り動かしたのである。つまり、アメリカの大衆は、子供なのである。それは、日本についても、言えるのである。自民党の幼児性、つまり、深謀遠慮のない、無反省の愛国心の発言が、日本の大衆の深謀遠慮のない、無反省の愛国心を揺り動かしたので、自民党は、公明党で組んで、政権を執ることができているのである。つまり、日本の大衆も、子供なのである。さて、尖閣諸島周辺では、中国公船による日本領海への侵入が続いている。愛国心の強い日本人は、そのことを危惧している。なぜ、そのことを危惧するのか。それは、尖閣諸島を中国に奪われたくないからである。なぜ、中国も日本も、尖閣諸島を領有したいのか。それは、愛国心という自我の欲望によるものである。多くの日本人は、尖閣諸島周辺の海底に石油資源があるから急に中国が領有権を主張し始めたと言うが、それは第二義である。第一義は、愛国心という自我の欲望からである。1972年9月27日、日中国交正常化のため北京入りした田中角栄が周恩来首相との会談において、尖閣諸島の領有権について日中双方が棚上げ論を確認した。つまり、結論を次世代に委ねることにしたのである。それは、正しい判断である。両国が、愛国心という自我の欲望から領有権を主張すれば、とどのつまり、戦争による解決しか存在しないからである。平和裏に解決したいのならば、時間を掛けて解決策を練りあげることである。しかし、それでも、解決できないならば、国際司法裁判所に訴えて、裁可を仰げば良いのである。しかし、国際司法裁判所は、紛争当事国が納得しなければ、訴えを取り上げないのである。中国は訴えようとしているのだが、日本が納得しないから、訴えることができないのである。なぜ、日本が納得しないのか。裁判で勝つ自信が無いからである。それよりも、現在、実行支配している形を維持する方が、愛国心を満足させることができるからである。それは、竹島についても言えるのである。日本、韓国の両国が、竹島の領有権を主張している。平和裏に解決したいのならば、国際司法裁判所に訴えて、裁可を仰げば良いのである。しかし、日本は訴えようとしているのだが、韓国が納得しないから、訴えることができないのである。韓国が納得しないのは、裁判で勝つ自信が無いからである。それよりも、現在、実行支配している形を維持する方が、愛国心を満足させることができるからである。日本人の中には、「尖閣諸島を死守せよ」、「竹島を命を賭けて奪取せよ」と主張するナショナリストが多く存在する。愛国心という自我の欲望に無反省であるから、そのように主張するのである。尖閣諸島、竹島という無人島の島に、命を賭ける意味があるのか。さらに、日本は、明治以降太平洋戦争で敗れるまで中国を侵略し続け、1910年から太平洋戦争で敗れるまで韓国を占領していたのである。だから、その代償として、中国の尖閣諸島の領有権を、韓国に竹島の領有権を認めても良いのである。確かに、日本は、敗戦後、中国にも韓国にも、経済援助を行ってきた。しかし、それだけで、両国国民の深く傷付いた愛国心は癒えることはないのである。自らの愛国心にとらわれるのではなく、他国民の愛国心に対する配慮が必要なのである。つまり、幼児性の愛国心では無く、成熟した愛国心が必要なのである。また、アメリカ軍基地が日本に無くなり、アメリカ兵がいなくなったならば、日本が中国に侵略され、中国の奴隷国になると主張する人も多い。しかし、現在、日本がアメリカの奴隷国であることは、誰しも、認めることである。日本人よりも外国人の方がそう思っている。日米関係は、同盟関係では無く、主従関係だからである。確かに、中国の一党独裁は、民主国家では無い。しかし、日米関係も、民主国家の関係では無いのである。アメリカの力を借りて、中国、ロシア、北朝鮮、韓国と対立しようとするから、アメリカの奴隷国にならざるを得ないのである。ほとんどのアジアの国は、日本ほどの軍事力を備えていないのに、中国の奴隷国になっていない。それを見習えば良いのである。最後に、大衆が現在の体制に異を唱える少数派や単独者を激しく攻撃するのは、欲動の第三の欲望である、対象の対自化とも言われている、自我によって他者・物・現象という対象を支配したいという欲望から発しているのである。なぜ、大衆は現在の体制に異を唱える少数派や単独者を激しく攻撃するのか。それは、支配欲、嫉妬心、愛国心からである。大衆は、権力者や多数派に与して、少数派や単独者を攻撃して、沈黙させて、支配欲を満足させたいのである。まず、大衆は、勝利者になりたいのである。勝利者の一員として、権力者や多数派と喜びを分かち合えたいのである。少数派や単独者側に付けば、勝利の美酒を味わえないから、権力者や多数派側に付くのである。大衆は、現在の体制に異を唱える少数派や単独者に対して、嫉妬心を覚えているのである。心情的に不快なのである。大衆は、少数派や単独者の意見を吟味する前に少数派や単独者が自分の意見を述べることが許せないのである。自分が我慢して意見を述べないのに、その人が自分を意見を述べているから、許せないのである。だから、少数派や単独者の意見を吟味する前に、その意見は間違っているという視点から見ているのである。「出る杭は打つ」のである。大衆は、自分は出ることができない杭であるから、どのような杭であっても、出る杭は何としても打つことを考えるのである。最後に、なぜ、大衆は、現在の体制に異を唱えている人を攻撃するのか。それは、現在の体制が変われば、現在の自分の立場を失う可能性があるからである。自我を守ろうとして、現在の体制に異を唱えている人を攻撃するのである。つまり、愛国心から発しているのである。このように、大衆は、自我の欲望そのままに行動しているのである。そこには、自己が存在しないのである。つまり、表層心理で思考していないのである。しかし、人間の中には、大衆を超越することなしには、生きている価値は無いと考え、実行する人が存在する。それが、少数派や単独者である。大衆の特徴は、自我の欲望のままに、他者に認められたいと思いながら現在の立場に固執して、すなわち、他者の眼を気にして自我に固執して、権力者や多数派などの力の強い側に付くことにある。少数派や単独者の特徴は、無勢であっても、自分の立場が悪くなっても、すなわち、自我が危うくなっても、権力者や多数派などの力の強い者に対して、自分の意見を述べる時は述べることにある。つまり、人間の中には、自我の欲望に動かされることから自己の主体的な決断によって動くというように超越しなければ、生まれてきた意味は無いと考え、実行する人が存在するのである。すなわち、それは、自我から自己へと超越することによって、初めて、自分が生まれてきたことの意味が生まれてくると考え、実行する人である。しかし、それは容易ではない。なぜならば、人間は自我の欲望によって動かされている動物だからである。そのままに存在しているのが大衆である。だから、大衆は、少数派や単独者を攻撃するのである。しかし、人間は、大衆として生い育つから、大衆に堕したまま、一生を送る人は多いのである。