あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自我という道化師である。(自我その403)

2020-09-04 12:48:17 | 思想
人間は、自我として存在する。自我は役を演じている人間のあり方である。人間は、自我という道化師である。人間は、自分として存在しない。自分とは、自らを他者や他人と区別しているあり方に過ぎない。自分そのものは存在しない。自分という特別なあり方は無い。自らが自分にこだわっているに過ぎない。人間は、自己としても存在しない。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は主体的に生きることに憧れているか、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎない。人間に、主体的な生き方は存在しない。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップル、国などがある。家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では支店長・行員などの自我があり、店という構造体では店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、夫婦という構造体では夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、国という構造体では国民という自我があるのである。人間は、誰しも、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して活動しているのである。ある男性は、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有して活動しているのである。だから、本当の姿は何かという問いには、彼は答えることはできないのである。彼は、構造体によって、異なった自我を所有しているからである。たとえ、家族という構造体における父という自我が自らの本当の姿だと答えたとしても、それは、彼の実感にしか過ぎず、真実の姿だと言えないのである。彼は、家族という構造体に所属している時は父という役を演じ、夫婦という構造体に所属している時は夫という役を演じ、小学校という構造体に所属している時は教諭という役を演じ、コンビニという構造体に所属している時は客という役を演じ、電車という構造体に所属している時は乗客という役を演じ、日本という構造体に所属している時は日本人という役を演じ、東京都という構造体に所属している時は都民という役を演じているのである。彼の妻は、夫婦という構造体に所属している時は妻という役を演じ、家族という構造体に所属している時は母という役を演じ、銀行という構造体に所属している時は行員という役を演じ、コンビニという構造体に所属している時は客という役を演じ、電車という構造体に所属している時は乗客という役を演じ、日本という構造体に所属している時は日本人という役を演じ、東京都という構造体に所属している時は都民という役を演じ、ママ友仲間という構造体に所属している時は友人という役を演じているのである。しかし、人間は、意識して、思考して、その役を演じているのではない。人間の意識しての思考を表層心理での思考と言う。すなわち、人間は、表層心理で、思考しながら、その役を演じているのではない。人間は、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、無意識に、思考して、その役を演じているのである。人間の無意識の思考を深層心理と言う。すなわち、人間は、深層心理が、思考して、その役を演じているのである。つまり、自我は深層心理に浸透しているのである。人間は、誰しも、さまざまな構造体に所属して、その構造体に応じて、さまざまな自我を所有し、深層心理によって、与えられた自我をこなす存在でしかないのである。人間は、さまざまな構造体で、さまざまな自我を所有して活動しているから、誰しも、真実の姿は存在しないのである。息子が母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、行員、客、乗客、都民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は母としか知らず、彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。逆に、人間は、「あなたは何。」と尋ねられても、その構造体に応じての自我を答えるしかなく、一律の答え方は存在しないのである。なぜならば、人間は、構造体によって、異なった自我を所有しているからである。人間は、誰しも、異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、一般に、各構造体は独立していているから、一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。だから、事件が起こると、必ず、マスコミが犯罪者の真実の姿を追求するが、会社、近所、家族、高校時代の仲間などという構造体での評価は同じではないのである。マスコミが、悪評価・低評価の自我を真実の姿だと断定しているだけなのである。さて、人間は、自らのことを自分と言い、自ら以外の人を他者や他人と言う。他者とは、自らと同じ構造体に所属している人であり、他人とは、自らと異なった構造体に所属している人である。確かに、人間は、自分として存在する。しかし、自分そのものは存在しないのである。なぜならば、自分は、単独では存在できないからである。自分は、他者や他人が存在する時に、もしくは、他者や他人の存在を意識した時に、存在するのである。だから、人間にとって、自分とは、単に、他者や他人と接する時に、もしくは、他者や他人を意識した時に、自らに対して持つ意識でしか無いのである。だから、人間にとって、自分の存在も他者や他人の存在も確証できないのである。なぜならば、自分も他者や他人もその実態は一定しないからである。自分も他者や他人も想定されたものでしかないのである。自分そのもの、他者そのもの、他人そのものは存在しないのである。自分とは、単に、自らを指し示しているのであり、他者や他人は、単に、自分以外の人を指し示しているのである。自分が所有していると想定されているものと自分が所属していると想定されているものが自分の実態を指し示すのである。それが、自我であり、構造体である。他者や他人が所有していると想定されているものと他者や他人が所属しているものと想定されているものが他者や他人の実態を指し示すのである。他者や他人が所有しているものと想定されているものは他我であり、他者や他人が所属しているものと想定されているものは構造体である。他我とはその人の自我である。だから、人間を紹介する時は、X銀行の横浜支店長、Y高校の三年生などと言うのである。しかし、多くの人間は、それを自己だと思い込み、自らは自己として存在していると思い込んでいるのである。しかし、誰しも、自己は存在しないのである。自己として存在するとは、自ら、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することである。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。人間の主体的な意識しての思考を、理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、すなわち、理性で思考して、主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。だから、自己は存在しないのである。自己と存在できないのには、二つの理由がある。一つは、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるので、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないからである。人間は、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだからである。人間は、表層心理独自で、すなわち、理性で、思考して行動することはできないのである。つまり、人間は、本質的に、主体的に思考できず、行動できないのである。しかし、人間は、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者や他人から妨害や束縛を受けているからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するからである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていくことができると思い込んでいるのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動は、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して生み出していず、深層心理が思考して生み出した自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。さらに、自我とは、構造体から与えられるポジションであるから、深層心理が、構造体の意向に従って、そのポジションに応じた行動を思考するのである。そこには、表層心理で、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動するという、主体的なあり方は存在しないのである。人間は深層心理の道化師でしかないのである。さて、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間はそれに動かされて生きているのであるが、これから、自我を主体に立てる、心境、欲動、快感原則、感情と行動の指令という自我の欲望について説明しようと思う。まず、自我を主体に立てるであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。だから、自我は深層心理の道化師であり、構造体の道化師であるのである。人間は、表層心理で、意識して思考して、自我が主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけなのである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。だから、自我は主体的になり得ず、道化師であるしかないのである。次に、心境であるが、心境は気分と同義語である。心境は、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境、感情である。深層心理は、心境にも動かされて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。その意味では、深層心理は、心境の道化師である。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるのかを自覚するのである。人間は、得意の心境の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理は、自らの現在の心境を基点にしても、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理にとって、自らの心境という情態性が大きな意味を持っているのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在だけでなく、物やことの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。すなわち、表層心理で、意識して思考して、心境を変えることができないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、行動の指令によって、すなわち、何かをすることによって、気分転換をして、心境を変えようとするのである。気分転換とは、気分に直接的に働き掛けて変えるのでは無く、何かをすることによって気分を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換ができないが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、行動の指令によって、すなわち、何かをすることによって、心境を変えるのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。人間にとって、自らの心境や感情という情態性が、自我の基点にある自分そのものである。自らの心境や感情という情態性こそが、他者や他人から自らを引き離す存在者なのである。つまり、自らの心境や感情という情態性こそが実存しているのであり、自我は道化師である。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は欲動に基づいて思考しているのである。その意味で、深層心理は、欲動の道化師である。人間は、欲動が深層心理が動かしているから、表層心理で、意識して、深層心理に働き掛けることはできないのである。さて、深層心理には欲動という四つの欲望が内在している。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、欲動という四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようという快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、毎日が、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、高校という構造体で、女子高校生が担任からスカート丈が短いということとで叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。そして、スカート丈を長くして、ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。すなわち、人間は他者の道化師なのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我も表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、対象の対自化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化の作用とは「有を無化する」ことであり、「人は自己の欲望を対象に投影する」と言い換えることができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、自らの思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。」というこことである。さらに、深層心理の対象の対自化が高じると、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ということまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教諭の校長になろういう欲望は、深層心理が、学校という構造体の中で、教諭・教頭・生徒という他者を、校長という自我で対自化し、支配したいという欲望である。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できることは、物を支配していることであり、満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、現象を支配でき、快楽を得られるのである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを得られるのである。
しかし、共感化の構造体も壊れることがある。共感化は深層心理が行う欲望であるから、人間は、表層心理の、意識しての思考、意志、理性では、構造体の創造も破壊も止めようがないのである。恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、超自我や表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感という感情に敗北したからである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」という状態である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。深層心理の共感化による協力は、対自化による対決に変わるのである。次に、快感原則であるが、それは、スイスで活躍したフロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けようとする欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、傷心も不快感に属している。もしも、自我が他者から心が傷つけられたならば、深層心理は、自我が下位に落とされた傷心という不快感から脱却するために、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を復讐に走らせることによって、自我を下位に落とした相手を下位に落とし、自我が上位に立つことによって、満足感という快楽を得ようとすることもあるのである。もちろん、自我が快楽を得るということは、深層心理が快楽を得るということである。言うまでも無く、深層心理が快楽を得るということは、人間が快楽を味わうということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。そして、自我が快楽を得るために、他者を目標にしたり、若しくは、他者を道具にしたりするのである。すなわち、自我という道化師が快楽を得るために、他者を他我という道化師として扱うのである。だから、深層心理にとって、他者のために自我があるのでは無く、自我のために他者という他我がが存在するのである。それ故に、人間関係とは、利用し、利用される関係である。だから、人間は、自我が主体的に思考する以前に、すなわち、表層心理で、自ら意識して、思考する以前に、深層心理が、既に、自我を主体に立てて、自我の快楽のために自我の行動を考えているのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な存在者でもないのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令を対にして生み出し、感情の力によって行動をかなえようとするのである。つまり、感情とは行動の強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我に殴ることを強く促すのである。超自我や表層心理での思考はそれを抑圧しようとしても、深層心理の生み出した感情が強ければ、深層心理の殴れという行動の指令のままに殴ってしまうのである。さて、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがある。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。しかし、後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。超自我の役割は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。だから、犯罪も戦争も、人間の自我が深層心理の道化師であり、深層心理は欲動の道化師であることから、生まれるのである。