あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我の展開・展望について。(自我その317)

2020-02-11 11:52:28 | 思想
人間は、確かに、肉体と精神が複雑に絡み合って存在している。しかし、人間の存在の真相を追究する場合には、分離して考えた方がわかりやすい。分離して分析して、後に総合した方が、人間の存在の真相を理解しやすくなる。同じように、深層肉体と表層に肉体に分離して分離して分析した方が肉体の存在の真相を、深層肉体と表層肉体に分離して分析した方が肉体の真相が、深層心理と表層心理に分離して分析した方が精神の真相が理解しやすくなる。つまり、人間には、深層肉体、表層肉体、そして、深層心理、表層心理が存在すると考えた方が良いのである。まず、深層肉体であるが、深層肉体とは、人間の表層心理の意識や意志に関わらず、どのような肉体状況・状態にあろうとであろうと、ひたすら生きようとする肉体の存在のあり方である。それ故に、深層肉体の意志は、単純明快であり、生きることそのものに価値が持って生き続けようとすることである。末期癌の患者が、苦痛の中で生きようとするのは、深層肉体の意志である。植物人間になっても生きようとするのも、深層肉体の意志である。安楽死を考えるのは、回復の見込みが無いのに、深層肉体の意志によって肉体が生かされ続けるからである。次に、表層肉体であるが、表層肉体とは、人間が、意識や意志という表層心理で動かされる肉体である。例えば、授業中、生徒が、教師の質問に答えようとして、手を挙げることである。正座していて、辛くなり、あぐらをかくことである。遅刻しそうになり、駆け足で急ぐことである。次に、深層心理であるが、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。深層心理について、一般に、「本人は意識していないが、日常の精神に影響を与えている心の深層。」と説明されている。この説明は誤りでは無い。しかし、この説明は、深層心理の本質を突いていない。深層心理は日常の精神に影響を与えている程度の弱小の存在ではなく、日常の精神の中心を成すほどの強大な存在なのである。人間の精神は、深層心理の思考によってが動き出すのである。
深層心理が、人間の無意識のうちで、まず、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、男児は、母親に対し近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。男児は、表層心理で、家族という構造体から追放される虞があるので、エディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)を抑圧したのである。このように、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出し行動の採否を思考し、その結果が、意志による行動となるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうとする欲望である。深層心理の働きについて、ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。思考の母体は、無意識という深層心理であるから、実体を明示することはできないのである。しかし、深層心理が、人間の無意識のうちに、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すから、人間は、行動できるのである。言うまでもなく、深層心理の思考とは、無意識の思考である。このように、人間は、常に、深層心理が生み出す自我の欲望によって動かされているのである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、その務めを果たすように、自我の欲望を満たすように生きている。欲望は、人間が自我を持った時から、深層心理が生み出してくる。人間が自我を持つ以前は、人間に備わているものは、他の動物と同じく、欲求である。欲求とは、自らの生命の維持・子孫の繁栄を目的・目標として行動することである。他の動物と同じく、人間も欲求の段階においては、深層心理・表層心理の分離は無い。男児の母親に対する近親相姦的な愛情は、単なる子孫繁栄という欲求ではなく、男児が、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理が生み出した欲望なのである。一般に、思考は、人間が、表層心理で、意識して行うことを指しているが、実際に、人間が生活する上では、人間は、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間の表層心理での意識しての思考は、常に、深層心理の思考の結果を受けて行われるのである。深層心理とは、人間の無意識の心の働きである。無意識の心の働きと言っても、決して、無作為の動きをすることことでも、本能的な動きをすることでもない。深層心理は、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理は、長時間、思考するのである。つまり、深層心理は、人間の無意識のままに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出し行動の採否を思考し、その結果が、意志による行動となるのである。快感原則とは、フロイトの用語であり、道徳観や社会的な規約を有さず、ひたすらその場でのその時での快楽を求め、不快を避けようとする欲望である。現実原則とは、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらそうとする欲望である。さて、深層心理は、次の三種類の機能を使って、快感原則を満たそうとする。第一の機能として、深層心理は、自我が他者に認められることによって、快楽を得ようとする。それが、自我に対する対他化という機能である。自我の対他化を細説すると、次のようになる。他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。認められたい、愛されたい、信頼されたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められること、信頼されることができれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。第二の機能として、深層心理は、自我で他者・物・事柄という対象を支配することによって、快楽を得ようとする。それが、対象に対する対自化の機能である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。最後に、事柄という対象の対自化であるが、それは、自分の志向性で(観点・視点)で、事柄を捉えることである。他者・物・事柄という対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、他者を支配しようとする。人間は、物を利用し、事柄を自らの志向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)という言葉に集約されている。特に、「人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。」という対象の対自化は、人間特有の物である。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こさなかったと思い込むのである。いじめっ子の親は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、いじめの原因を、いじめられた子やその家族に求めるのである。第三の機能として、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとする。それが、自我と他者の共感化である。自我と他者の共感化とは、他者と理解し合いたい、愛し合いたい、協力し合いたいと思いで、他者に接することである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の機能である。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。ストーカーは、カップル・夫婦という構造体が消滅し、恋人・夫(妻)という自我が失われることに困窮した者がなるのである。このように、人間は、深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとしているのである。この時、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく行動する場合と、表層心理で、深層心理の結果を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考して行動する場合がある。前者の場合、一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからであり、表層心理で考えることがないから、楽だからである。日常生活が、毎日同じこと繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動であり、人間は、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間にも当てはまるのである。後者の場合、広義の理性の思考である。人間は、表層心理で許諾する結論を出せば、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。人間は、表層心理で拒否する結論を出せば、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で拒否する結論を出し、意志によって、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。さて、人間は、誰しも、自由に生きたいと思っている。自由とは、深層心理が、快感原則によって、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することである。しかし、自我に力が無いから、他者の非難を浴びるのが恐いので、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧せざるを得ないと思っている。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような弱い自我から脱却し、強い自我へと、自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の欲望である。それでは、強い自我はどのように求められるか。それは、政治家、金満家、著名人となることである。まさしく、権力者である。そうすれば、他者は、自我を認めてくれ、自我の欲望を追求しやすいのである。吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自分の力を発揮し、支配し、思うままに行動することである。他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないのである。しかし、権力者になれば、他者を対自化することが認められ、快感原則に基づいて、思い切り楽しめるのである。しかし、快感原則とは、道徳観や社会的な規約を有さず、ひたすらその場でのその時での快楽を求め、不快を避けようとする欲望であるから、権力者を野放しにすることは危険なのである。。だから、確かに、自我に、力の無いことは、個人としては不幸かも知れないが、他者や人類全体にとっては良いことなのである。なぜならば、人間は、深層心理の対自化による自我の欲望を全て認められれば、自我の欲望のためには、他者の命さえ、軽視するからである。深層心理の対自化による自我の欲望は、放置すれば、果てしなく広がるのである。だから、権力者に対して、警戒を怠ってはならないのである。しかし、大衆は、往々にして、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)という志向性で、権力者を過大評価し、権力者に期待するのである。そして、権力者に利用されて、破滅の道を歩むのである。さて、幼児と権力者は一見逕庭があるように思われるが、幼児も、権力者と同様に、深層心理が生み出す自我の欲望に正直に行動しようとする。「子供は正直だ。」という言葉の意味は、自我の欲望に正直であるということである。だから、しつけということが必要になってくるのである。さて、人間は、他者に対して、対他化・対自化・共感化のいずれかの態度を取る。自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探り、迎合する。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、安心できる人や理解し合う人や愛し合うことができる人ならば、共感化する。人間は、自我が不安な時は、共感化できる人がいたならば交わり、自我の存在を確かなものにしようとする。だから、サルトルは、人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならないと言ったのである。他者を対自化するとは、自我の力を発揮し、他者を支配し、思うままに行動することである。自我を対他化するとは、他者の評価を気にして、他者に合わせて行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないのである。しかし、確かに、それは、個人としては不幸かも知れないが、他者や人類全体にとっては良いことなのである。なぜならば、人間は、深層心理の対自化による自我の欲望を全て認められれば、殺人をもいともたやすく行ってしまうからである。深層心理の対自化による自我の欲望は、放置すれば、果てしなく広がるのである。さて、人間は、皆、深層心理が生み出した自我の欲望を満たすために生きている。自我の欲望を満たせば、快楽が得られるからである。政治権力者の野望という大きな欲望にしろ、市井の片隅に生きている人の日常生活でのささやかな希望という欲望にしろ、誰しも、自らの欲望を満たすために生きている。1988年、西武百貨店ために、糸井重里の作った「ほしいものが、ほしいわ。」というキャッチコピほど、自我の欲望を待望した言葉は無い。全文は次の通りである。「欲しい物はいつでもあるけれど無い。欲しい物はいつでも無いんだけれどもある。本当に欲しい物があるとそれだけでうれしい。それだけは欲しいと思う。ほしいものが、ほしいわ。」これほど、深層心理が生み出す自我の欲望を待つ気持ちを表している文章は存在しない。まさしく、現代に限らず、人間は、深層心理の内面から湧き上がってくる自我の欲望という衝迫を待ち受けて暮らしているのである。それでは、いつ、どこから、何が自我の欲望を生み出しているのか。まず、いつ、欲望が生まれるのか。それは、人間が、動物から離れ、人間になった時からである。それでは、人間は、いつ、動物から離れ、人間になるのか。それは、自我を持った時からである。自我を持つ前の人間は、欲求を満足させるためだけに生きている。それは、他の動物と変わらない。食べて生きて行くことが満足できれば、次に、子孫を残すことに向かう。しかし、人間は、自我を持つと、人間の求めるものは自己の欲求から自我の欲望に移り、生存欲が満足できても、次は、必ずしも、子孫を残すことに向かわない。人間の性欲は、子孫を残すという目的から発揮されることは少なく、ほとんど、快楽・支配欲を満たすために使われる。人間にとって、性欲は、異性の他者(同性愛者であったとしても相手を異性の他者として見ている)に、自己の存在をアピールしようという欲望である。すなわち、性欲は、異性の他者に、自我を知らしめ、相手の心を支配することによって、快楽を得ようとすることである。セックスとは、その行為によって、相手に自我の存在を知らしめ、相手の快楽を知ることによって、相手の心を支配した証である。だから、相手の心を支配したい者は、セックスを急ぐのである。バタイユが「男性にとって、セックスとは、相手の女性が納得したものであろうと、レイプである。」と言うのは、この謂である。そして、「女性にとって、愛した男性に対してであろうと、セックスとは、売春である。」と言うことができるのである。この場合、見返りは、金銭ではなく、相手の男性の愛情である。しかし、性欲は自我の存在を知らしめるという自我の欲望であるが、自我の欲望は、性欲だけではない。むしろ、人間の欲望のほとんどは、自我の欲望なのである。しかし、生存欲は、自我の欲望ではない。生存欲は、人間にも、他の動物にも、共通して存在するからである。しかし、他の動物は、言葉を知らないから、自我を持つことができない。だから、自我の欲望は存在しないのである。確かに、他の動物も、家族のようなものを形成するが、それは、子孫を残すためだけに使われ、そこには、自我は存在しない。だから、いたずらに、他の動物は、自己の存在をアピールしない。動物が自己の存在をアピールするのは、家族が破壊され、子孫を残すことに危機が生じて、自己が失われそうになった時である。そして、人間は、自我が失われそうになる時、自暴自棄になり、危機的な状況に陥る。それほど、人間には、自我が重要なのである。しかし、自我とは、構造体の中での、ある役割(役目、役柄)を担った、自分のポジション(ステータス・地位)に過ぎない。そして、構造体とは、人間の組織・集合体にしか過ぎない。しかし、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある関係性を築いて、ある自我を持っているから、人間として活動できるのである。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。人間の満足感とは、自我の満足感であり、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態にあることである。それが、アイデンティティーが確立された状態である人間は、たいていの場合、朝起きるのは、家族という構造体の中であり、そこには、家族関係という関係性と、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体に行けば、教師生徒の関係性、教師間の関係性、生徒間の関係性と、校長・教頭・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体に行けば、上司部下の関係性、同僚間の関係性と、社長・部長・課長・社員などの自我がある。もちろん、家族がいなかったり、在学していなかったり、働いていなかったりする者も存在するが、それは、構造体の中に、自我一人しかいないということを意味しているに過ぎず、人間は、常に、何らかの構造体に所属し、何らかの関係性を築いて、何らかの自我を得ているのである。そうでなければ、人間は、社会生活を営むことはできないのである。だから、どこから、自我の欲望が生まれているかと言えば、関係性である。エディプスの欲望は息子と母親の関係性から生まれ、エレクトラの欲望は娘と父親の関係性から生まれたように、自我の欲望は関係性から生まれるのである。だから、レイプの加害者と被害者は、見知らぬ関係であることは少なく、知人関係であることが大半なのであるさて、ほとんどの人は、思考とは、自ら意識して行うものだと思っている。確かに、意識して行う思考も存在する。それは、表層心理での思考である。しかし、深層心理の思考の結果を受けて、人間は、表層心理で思考することがあるのである。何が欲望を生み出しているのかと言えば、それは深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の心の働きである。先に述べたように、ラカンが「無意識は言語によって構造化されている。」と言うように、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語で、快楽を自我にもたらそうという欲望である。しかし、ほとんどの人は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を、自分が意識的に自らの意志の下で思考して生み出したものだと思い込んでいるのである。確かに、深層心理が生み出したものとは言え、感情と行動の指令という自我の欲望は自分のものである。しかし、自らの意志無く、自らが無意識のうちに、深層心理が思考し、生み出したものなのである。例えば、朝起きると、学校や会社に行くことを考えて嫌になる。しかし、我慢し、登校し、出勤する。この、学校や会社に行くことを考えて嫌になることは、自らの意志ではなく、深層心理が行ったことなのである。だから、無意識のうちに、いつの間にか、行っている思考なのである。そして、人間は、深層心理の生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、深層心理が生みだした感情の中で、深層心理が生みだした行動の指令を意識して思考するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定するのである。表層心理の思考結果による行動は、意志と言われている。現実原則とは、フロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。快感原則はその時その場での快楽を求める欲望だが、現実原則は長期的な展望の下で現実的な利益を求める欲望である。人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の思考の結果を受けて行われるのである。人間は、表層心理で、登校・出勤しないと、後で困るになることを予想し、嫌だという感情を抑圧して、登校・出勤するのである。これが、表層心理による意志の働きである。しかし、深層心理が生み出した嫌だという感情が強すぎると、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理の自我の欲望のまま、登校・出勤しないことになるのである。もちろん、逆に、朝起きて、深層心理が、学校や会社に行くことを考えて、楽しく感じたならば、表層心理に意識されること無く、つまり、無意識のままに、登校・出勤してしまうことになる。これが、毎日の行動であり、習慣である。換言すれば、ルーティーンである。ルーティーンの行動は、意識する必要が無いのである。たとえ、人間は、表層心理で、それを意識しても、登校・出勤することは、深層心理の自我の欲望によるものだと気付かず、自らの意志によるものだと思い込むだろう。なぜならば、人間は、常に、自分は自らの意志の下で自ら意識して主体的に行動していると思い込んでいるからである。さて、人間は、朝、起きると、深層心理が、学校や会社という構造体に行くことを考えて嫌になるのは、社員、生徒という自我のあり方が嫌だからである。学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしているからである。人間の深層心理は、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚する。逆に、自我の働きが、他者から認めてもらえず、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的とし、他者から、悪評価・低評価を受けることを避けるように、行動するようになる。だから、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、嫌な感情を持たせると共に学校・会社に行かないという指令を出すのである。なぜならば、深層心理とは、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているからである。深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体にして、構造体において、積極的に、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たし、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けるように行動させているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きている。深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いが気になるあり方を対他存在と言う。深層心理による、対他化の働きである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。このように、深層心理には、他者に対した時、他者を対他化し、その人が自分をどのように思っているかを探ろうとするのである。深層心理の対他化の働き、つまり、人間の対他存在のあり方の特徴は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。しかし、深層心理は、対他化だけでなく、対自化する時もあり、共感化する時もある。次に、他者や物や事柄という対象の対自化であるが、深層心理は、対象や他者を対自化して、対象や他者を支配したいという欲望を持っている。対象や他者の対自化とは、自我の視線で見るということである。すなわち、対象の対自化とは、物に対してどのように利用・支配しようか、事柄に対して自らの志向性(視点・観点)で捉え、他者に対してその人がどのような思いで何をしようとしているのかを探り、支配しようとすることなのである。しかし、他者の思いや欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自我の志向性に則って行うのである。その人の思いや欲望を、自我の志向性に則って評価するのである。志向性とは、自我が、対象や他者を意味づける作用である。すなわち、対象に対しては意味づけし、他者に対しては、その欲望が自我と同じ方向性にあるか逆にあるかを探るのである。他者の思いや欲望が自我と同じ方向性ならば味方にし、逆の方向性ならば敵にするのである。他者の思いや欲望が自我の志向性と同じような方向性にある場合、味方にするのであるが、他者のステータス(社会的な地位)が自我よりも下位ならば、自我がイニシアチブを取ろうと考え、自我よりもステータス(社会的な地位)が上位ならば、自我を他者に従わせようとするのである。また、他者の思いや欲望が自我の志向性の方向性と異なっていた場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということなのである。つまり、対象や他者を見るという姿勢、つまり、対象や他者を対自化するとは、自我中心の姿勢、自我主体の姿勢なのである。ニーチェは、「人間、誰しも、力への意志(権力への意志)を有している。」と言う。力への意志(権力への意志)とは、他者を征服し、同化し、いっそう強大になろうという意欲である。すなわち、徹底的なる、他者の対自化なのである。最後に、自我と他者の共感化であるが、深層心理には、自我と他者の共感化という快楽を求める視点がある。自我と他者の共感化は、相手に一方的に身を投げ出す自我の対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対処や他者の対自化でもない。自我と他者の共感化は、協力するや愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪くても、そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れると、協力して、立ち向かうのである。オリンピックが始まると、日本の国民は、普段が仲が悪い人同士でも、見知らぬ人同士でも、日本チームや日本人選手を応援するということで一致するから、共感できるのである。また、協力するということは、互いに自我を他者に対他化し、もしくは、一方の自我が他者に対他化し、他者の身を委ね、他者の意見を聞き、両者で共通の敵を対自化して、立ち向かい、戦うのである。共感化とは、他者を、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。当然のごとく、深層心理の対自化の働きは、人間のあり方としては、対自存在であり、深層心理の共感化の働きは、人間のあり方としては、共感存在である。しかし、深層心理の働きとして、対他化が、対自化や共感化よりも、優先する。なぜならば、人間にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、他者の自分に対する思いが最も気がかりになってくるののである。それが、また、社会的な存在としての人間を形成するのである。さて、人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体にして、関係性に基づいて、快感原則によって、自我の欲望を生み出しているが、それにとどまらず、趣向性によっても、自我の欲望を生み出しているのである。趣向性とは、簡潔に言えば、好みである。人間には、他の動物と同様に、生存欲があるが、単に、生命の維持のために食べるという行為は存在しない。食材をそのまま食べることはほとんど無い。調理し、形を変えて、食している。それは、調理されていない物には食欲が湧かず、調理されている物に対してだけ食欲が湧いてくるからである。人間にとって、食材を調理するとは、単に、生命の維持のために消化しやすくするためでなく、自然を自分の都合の良い形に変えて支配するという支配欲を満足させるのである。そして、栄養価がほとんど無くても、食べることを好む物があれば、食べることができ、生命の糧となっても、食べることを嫌いな物ができたり、実際に食べられない物ができたりするのである。生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生むのである。また、他の動物たちは、安全性が確保されれば、そこで寝ることにし、眠りに落ちることが早く、不眠症も存在しない。しかし、人間にとって、単に、睡眠欲を満たすという行為は存在しない。人間は、安全性以外に、明かりや音や温度の程度・布団やベッドの硬度・抱き枕やぬいぐるみ・添い寝者の有無などの環境が自分に合わなければ、眠ることができないのである。つまり、眠る時にも、環境を自分の都合の良いものでなければ、つまり、環境を支配していなければ、眠ることができず、体調や精神状態に安定性を求めることができないのである。ここでも、また、生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生んでいるである。また、他の動物たち、発情期が来ると、雄たちが雌をめぐって争い、勝利した雄が交尾し、雌が妊娠し、出産している。そこには、好みや恋愛などは存在しない。子孫を残すことだけが目的である。しかし、人間は、大いに異なっている。そもそも、人間には、発情期は存在しない。言わば、一年中が発情期である。しかも、妊娠中も、更年期を迎えても、性欲が存在し、セックスする。また、人間は、ただ単に、セックスするのではなく、恋愛や結婚という形態が存在し、そこに愛情という相手への思いが存在しなければ、基本的にはセックスしない。なぜならば、人間にとって、性欲とは、相手の愛情を求める気持ちであり、セックスができるとは、相手の愛情を手に入れたという支配欲を満足させることだからである。つまり、性欲とは、相手の心を支配したいという欲望なのである。さらに、人間は、異性ならば誰でも愛情や性欲の対象になるわけではなく、個々人によって、好みが異なっているのである。このように、人間には、他の動物のような純粋な欲求は存在しない。それは、全て、個々の趣向性の下で、支配欲という欲望に変換させられている。安定欲も名誉欲も支配欲である。安定欲は自分自身を支配したい、名誉欲は大衆の心を支配したいという欲望なのである。支配欲、安定欲、名誉欲などの欲望は、遠因は、生命を維持し、子孫を残すという欲求にあるが、他者に対する自我の欲望に関わって、自我の趣向性の下で、欲望が欲求を圧倒するようになったのである。人間にとって、食欲は、自然を支配したいという支配欲であり、睡眠欲は、安定した体調や精神状態を求めたいという支配欲であり、性欲は好みの異性の心を支配したいという支配欲なのである。つまり、人間にとって、純粋な欲求は無く、欲求は全て欲望に変えられ、さらに、自我の趣向性の下での支配欲に形を変えられているのである。この自我の趣向性の下での支配欲が、人間世界に、文化、学問、芸術を生み出し、発展させてきたのである。この自我の趣向性の下での支配欲も、また、深層心理の対自化の作用である。この、深層心理の対自化の作用である、自我の趣向性の下での支配欲にしか、現在のところ、人間の自我の展望は開けていないのである。。