あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

生きるということ、そして、生かされているということ

2016-02-14 12:55:12 | 思想
東日本大震災の被災者の多くが、「今回の地震で、生きるということは、生かされていることなのだということをつくづくと思い知らされました。」と話している。阪神・淡路大震災の際にも、被災者は、同じように答えていた。この言葉には、嘘、偽りはない。愛する人、親しい人を喪って、初めて、自分が彼らに支えられていたことを思い知ったのである。さらに、愛する人、親しい人を喪い、家を失い、田畑を失い、生活基盤を全て失って、絶望の淵にさまよっていた時に、国内ばかりでなく、海外の人からも、励ましの言葉、衣食住の生活物資の援助、復興作業の支援を受けて、生きる希望を取り戻したのである。しかし、悲しいことに、人間は、日々、ほかの人によって、心や体が傷つけられたり、時には、殺されるたりすることがあるのも事実である。つまり、人間は、日々、ほかの人によって生かされていると同時に、ほかの人によって傷つけられ、時には、殺されることがある存在者なのである。そして、これは、誰も言わないことだが、人間は、自分自身によっても、生かされ、そして、時には、殺される存在者なのである。我々人間は、自分自身によっても、心身ともに生かされている。心身の身とは、肉体である。人間の肉体の外部には、毛や皮膚があるが、誰も、自分の意志で、毛や皮膚を作ることができない。毛が抜けたら、肉体の方で新しく作り出す。肉体の方で新しく作り出さなければ、抜けたままである。それが頭の場合は、禿になる。禿を防止しようとして、人間はいろいろな策を講じ、時には、それが成功しているようである。それでも、それは、人間が作り出したのではなく、肉体が作り出したものである。人間は、肉体に、ある刺激を与えただけである。皮膚は、年齢を重ねるにつれて、カサカサになり、潤いを失ってしまう。それを防止しようとしてクリームなどを塗っている女性が多い。ごまかすことはできても、肉体の方で若い肌を産み出さない限り、元には戻れない。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。無意識に、呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまう。深呼吸という意識的な行為は存在するが、それは、深く吸うということを意識するだけでしかなく、呼吸そのものは無意識的な行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間に備わっている機能である。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞が起こったり、人為的に、他の人もしくは自分がナイフを突き立てたりなどしないと、心臓は止まらない。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんの一部しか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しく作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできない。このように、我々人間は、ほとんどの場合、自らの意志よって、肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。そして、我々人間は、自らの意志よって、肉体を創造できず、現に存在する肉体を模倣するしかない。肉体を創造できるのは肉体自身でしかないのである。確かに、我々は、自分の意志によって、体を動かすことができる。しかし、少し考えてみればわかるように、それは、頭を振る、手を回す、歩く、走る、座るなどの些細な動作である。しかも、その意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、途中でこんがらがり、うまく足を運べなくなるだろう。たとえ、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、むしろ、必要以上に、疲れてしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行為すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、肉体自身によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、人間は、自分の意志によって、意識的に肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。つまり、人間は、肉体的に、生きているのではなく、生かされているのである。肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の父は83歳で11月4日に亡くなったが、その翌日も、遺体の髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。我々人間は、ちょっと指を切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を消毒し、傷口を固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。。痛みは、我々に、そこに異状があることを知らしめると同時に、同じ過ちを繰り返さないように警告しているのである。肉体は、これほどまでに、生きようとしているのである。
次に、心身の心であるが、心とは精神を意味する。そして、精神とは、感情や思考の働きをつかさどっている。まず、感情であるが、感情ほど、我々人間の意志の支配が及ばないものは無い。それどころか、我々人間は、感情に支配され、動かされているのである。例えば、怒りの感情が、他の人に危害を与えるように、我々を仕向けるのである。相手に面と向かって悪口を言ったり、殴りかかったりして、後で深く悔いることになるのは、怒りの感情のせいである。しかし、感情は、喜びももたらす。満開の桜を見たり、富士山を見たり、雪景色を見たりして、感動するのは、感情の働きである。自然に対してだけでなく、オリンピックやワールドカップで、日本人チームや日本人選手が活躍しているのを見て感動するのも、感情の働きである。そして、日本人チームや日本人選手が敗北するのを見て悔しい思いをするのも、感情の働きである。しかし、喜びにずっと浸っていようと思っても、暫くすると消え、悔しい思いを忘れようとしても、なかなか消えない。それは、感情は、自分の意志によって、消えたり、生じたりするものではないからである。カラオケや酒によって、気分転換をはかるのも、感情は、意志によって生じるものではないことの現れである。カラオケや酒は、感情を変えたり、引き出すためのものであり、それ自体が感情を生み出すことはできない。だから、カラオケや酒によっても、時には、気分が変わらなかったり、落ち込んだりすることがあるのである。つぎに、思考であるが、多くの人は、感情と異なり、思考は自分の意志によって、為されていると考えている。しかし、そうではない。まず、悪口を言ったり、殴り掛かったりすることを、誰しも、怒りに駆られての所作だとするが、怒りの感情だけでは、そのようなことは為されない。怒りとともに、悪口を言おうという思いが生じているから、悪口を言うのである。怒りとともに、殴ろうという思いが生じているから、殴り掛かるのである。悪口を言うことや殴り掛かることは、意志から生じたのではない。心の中で、怒りの感情とともに、そのようにしようという思いが生じたのである。それは、意志が及ばない範囲に存在する、深層心理(無意識ともいう)によって、引き起こされたのである。深層心理が、感情と思考を生み出しているのである。我々ができることは、悪口を言いたいという思いを、自らの意志によって、悪口を言わないようにすること、殴りかかりたいという思いを、自らの意志によって、殴りかからないようにすることだけである。しかし、深層心理が強ければ、意志の抑圧は効かず、悪口を言ったり、殴りかかってしまうのである。それでは、どうして、意志は生じるのだろうか。それは、悪口を言ったり、殴りかかってしまう後のことを考えるからである。相手に面と向かって悪口を言えば、相手に復讐され、周囲の人に軽蔑されることを考えるからである。相手に殴り掛かれば、相手から殴り返され、周囲の人に軽蔑され、時には、逮捕されることが考えられるからである。それが、悪口を言うことや殴り掛かることを止めさせる意志を生じさせるのである。これが表層心理である。表層心理とは現実思考なのである。つまり、人間の心理とは、常に、まず、深層心理が感情と思考を生み出すのであるが、そのすぐ後に、表層真理が、その思考通りに行動したらどのようなことになるかという思考を働らかせるのである。これは意志ではない。意志無くして、誰しも、人間の心理は自然とそのように動くのである。人間は、そのように作られているのである。人間は、表層心理が、深層心理の言うままに行動しても、何の問題も無いという風に判断すれば、深層心理の言う通りに行動する。しかし、深層心理のままに行動したら、その後、自分にとって不利益な状態に陥ると判断すれば、その行動を抑圧する。しかし、表層心理が、不利益だとわかっていても、深層心理が強過ぎると、表層心理はそれを制止できず、そのまま行動してしまうことがある。それが犯罪である。だから、犯罪者の多くは、それが犯罪だとわかっているが、深層心理が強過ぎたために、自らを律することができなかったのである。ストーカーと言われる人も、表層心理では、自分が行っていることはやってはいけないことだとわかっているが、別れの悲しみが強すぎる深層心理が付きまとうことを命じ、そのまま行ってしまうのである。それでは、冷静な思考は、どうであろうか。誰しも、冷静な思考だけは、自分の意志によって、行われているのだと思いがちである。しかし、そうではない。冷静であろうと、思考は、全て、言葉が繋がった文によって編み出されるものだからである。人間、誰しも、自分の意志で、言葉によって構成されたもの、つまり、文章を作ることはできない。文章は、精神によって、編み出されてくるのであり、そこには、意志の力添えはない。文は、作るのではなく、作られるものなのである。文は、意志が作るのではなく、意志が介在しない、深層心理によって作られるのである。文は、外部に対する反応である。外部というのは、周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章だけでなく、自分の言葉、自分の体内の状態もそうである。つまり、反応できるものには、全て、言葉や文が生まれてくるのである。それでは、思考とは、何に反応して、形成されるのだろうか。それは、自分自身の言葉や文や文章によってである。もちろん、最初に生まれて来た言葉や文や文章は、自分の言葉や文や文章ではない。周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章、自分の体内の状態などである。最も多いのは、他の人の文章である。著書である。他の人の著書を読み、それに反応して、ある思いが生じ、それが言葉や文になって、心に浮かんだり、発せられたりする。そして、その言葉や文を聞き、それに反応して、また、次の言葉や文が浮かんでくるのである。そうして、文が綴られていくのである。これらの一連の文章作成は、意志によって行われるのではなく、無意識において、つまり、深層心理において、為されるのである。つまり、文が構成されたものである限り、思考と言えども。我々の意志ではなく、深層心理によって、為されるのである。このように、我々人間の肉体も精神も、無意志によって、動いているのである。それ故に、私たちは、生きているのではなく、生かされていると言えるのである。