あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理の支配、表層心理の抵抗

2015-03-10 18:56:14 | 思想
近頃、マスコミは、よく、罪を犯した人に対して、自己責任という言葉を使う。そして、罪を犯した人は、自分の犯した罪の大きさに気付き、悄然として、そして、茫然として、マスコミのカメラの前を歩いている(歩かされている)姿をよく見る。確かに、自分の犯した罪は、自分で償わなければならない。しかし、自己責任という言葉には、自分の行動は全て自分の意志から発し、人間は意識的に行動しているという意味が含まれている。しかし、それは大きな誤解である。なぜならば、まず、人間の心の中に生まれて来る感情、そして、その感情に伴った行動への思いは、自分の意志ではないからである。言わば、自分の意志と関わりなく、勝手に生まれて来るのである。例えば、若い男性によくあることだが、ある人のことを怒り、殴ってやりたいという思いが湧いてくる。しかし、その思いは、自分の意志ではない。自分の心の中で生まれたものであるが、自分の意志ではない。これが、深層心理なのである。しかし、大抵の人は、殴った後のことを考えて、自分の意志で、殴ることをやめる。それが、表層心理の働きである。言うまでもなく、表層ん心理が深層心理を制止できず、殴ってしまえば、当然、罪に問われる。つまり、自分が産み出した感情ではないが、それに引きずられて犯した行為が犯罪なのである。しかし、私は犯罪使者をかばうために、このようなことを言っているのではない。人間には、自分の意志でできることとできないことがあり、責められるべきことと責められるべきではないことがあるということを言いたいのである。それは、いたずらに他の人を責めたり、自分自身を責めたりすることを無くしたいからである。むやみに、他の人を責めたり自分自身を責めたりする人は、人間とは自分の感情も行動もコントロールできる動物だと誤解しているのである。さて、先のブログで、対他存在、他者への同一化について述べたが、これらは、深層心理に属している。簡単に再説すると、次のようになる。深層心理とは、自分の意志に関わりなく、自分の心の中に生まれて来る、感情そして具体的な行動への欲望である。表層心理とは、その心理を受けて、それを対処しようとする、心の動きである。対他存在とは、人間の、常に、他の人の目、他の人の評価を気にしている、あり方を指している。正確に言えば、人間は、人の目を気にするのではなく、人の目が気になるのである。それ故に、対他存在が、深層心理に属していると言えるのである。他者への同一化とは、他の人と同じようなことをしていると安心するありかたを指す。真似をしたり、ブランド品にはまったり、流行を追ったりすることは、皆、その現象である。また、学ぶの語源は、まねぶ(まねをする)ということからわかるように、学ぶも他者への同一化の現象である。そして、他者への同一化の現象も、自らの意志ではなく、いつの間にかそのようにしているということで、深層心理に属しているのである。さらに、今回のブログで説明する、構造体、ステータス、自我も、また、深層心理に属している。これらは、対他存在、他者の同一化の現象と深く関わり、人間の感情のあり方や行動の原理になっている。人間には、希望、喜び、楽しさなどの自分を高める感情と、怒り、悲しみ、苦悩などの自分の心のバランスを崩す感情が存在するが、これらは、往々にして、構造体、ステータス、自我のあり方から発している。今回は、苦悩という現象を取り上げ、説明したいと思う。苦悩は、誰にでも、訪れる感情である。中には、絶えることなく訪れ、それが高じて、うつ病になり、挙句の果てに、自殺する人まで存在する。人間の苦悩の原因は、大体において、精神的なものである。肉体的なものは、苦悩ではなく、苦痛である。苦悩が、人間を精神的にどん底に突き落とすのである。うつ病になったり、自殺したりする人は、肉体的な苦痛よりも、精神的な苦悩が原因であることが多い。端的に言えば、苦悩は、対他存在が傷つけられたことから発生する。対他存在とは、自分が他の人からどのように見られているかの意識である。つまり、人間は、自分が、他の人から叱られたり、侮辱されたり、無視されたり、陰で悪口を言われたりなどして、低く評価されると、苦悩するのである。逆に言えば、それは、人間は、常に、自分が、他の人から、人並みに、もしくは、人並み以上に見られたいという思いがあることが示している。この、自分が、他の人からどのように見られているか、意識されている自分の姿が、自我である。単刀直入に言えば、自我とは、構造体における、ステータスとしての自分の姿、そして、対他存在から来る、自分のプライドの動向を意味する。つまり、苦悩とは、自我が傷つけられ、プライドを失ったことから、起こるのである。それでは、構造体とは、何か。構造体とは、一つの組織、関係性の塊を意味する。例えば、家族、会社、学校、店、友人関係、恋愛関係など、それぞれが一つの構造体である。ステータスとは何か。ステータスは英語であるが、和訳すると、身分、地位、階級など、社会的な位置を表す。例えば、家族という構造体の中では、父、母、長男、長女、次男、次女などがそれに当たり、会社という構造体の中では、社長、部長、係長、社員などがそれに当たり、学校という構造体の中では、校長、教諭、生徒などがそれに当たる。自我とは、構造体の中における、自らのステータスとして、対他存在である。わかりやすく言えば、プライドである。例を挙げて、構造体、ステータス、自我について、説明することにする。ここに、山田一郎という四十代の男性がいたとする。彼のある日の一日の行動を見ると、朝、自宅で起きると、妻、長男、長女とともに朝食を取り、電車に乗り、東京屋商事株式会社に行き、勤務が終わると、電車に乗り、コンビニに立ち寄り、帰宅すると、風呂にすぐ入り、一家で夕食を終え、テレビを見て、その後、寝て、次の日を迎えている。この日の彼の所属した構造体は、山田家、JRの電車、東京屋商事株式会社、ファミリーマートということになる。ステータスは、山田家の父、JRの電車の客、東京屋株式会社の営業課長、ファミリーマートの客である。そして、それぞれの構造体の中のステータスに応じての自我を持っている。彼は、この日、朝食の際、長男を叱った。長男は、受験生のために、遅くまで勉強し、時々、起きるのが遅いことがあった。それに応じて、朝食に遅れることがたびたびあったのである。今まで黙っていたが、今回こそ、注意したのである。すると、長男は、「そんなこと言うんだったら、食べない。」と言って、本当に、食べずに高校に向かおうとした。妻は、すぐに、トーストを包んで、長男に持たせた。どうして良いかわからず、父としての自我が傷つけられ、山田一郎は黙っているしかなかった。しかし、夕食の際、長男が、「お父さん、朝のこと、ごめん。俺、ちょっと、日本史の年号が覚えられず、いらいらしていたから。明日からは、きちんと起きるよ。」と言ってくれたので、父としての威厳が保たれ、山田家の父としての自我を満足させることができた。会社では、営業部長に、商品の売れ行きが悪いので発破をかけられ、少々、営業課長としての自我が傷つけられた。そこで、明日、営業部の社員を集めて、売れ行きを伸ばすための会議を開こうと考えた。ファミリーマートでは、店員の愛想のよい応対に、客としての自我を満足することができた。このようにして、山田一郎は、一瞬たりとも、孤立した山田一郎として生きることはなく、常に、ある特定の構造体に属し、ある特定のステータスを得て、それを自分として自我意識を持ち、自我を満足させることを目的にして生きているのである。私たちの毎日も、山田一郎と同じである。私たちは、毎日、いついかなる時でも、ある特定の構造体の中で、ある特定のステータスを得て、それを自分として自我意識を持ち、自我を満足させるために行動しているのである。それでは、自我が満足する時はどういう場合か。言うまでもなく、対他存在が満足する時である。つまり、他の人から、好かれたり、褒められたり、存在が認められたりなどして、高く評価される時である。山田一郎が、ファミリーマートで喜びを感じたのは、店員から、客という自分のステータスを認めれているように感じられ、自我が満足できたからである。逆に、対他存在が不満な時、つまり、他の人から、嫌われたり、侮辱されたり、馬鹿にされたり、無視されたりなどして、低く評価された時、自我が傷つけられる。そして、自我の修復の方法が思いつかないとき、苦悩に陥る。山田一郎が、朝食の時、心が傷ついたのは、長男に父というステータスを蔑ろにされたと思ったからである。しかし、夕食の時に、長男が謝ったので、父というステータスが認められたように感じられ、自我が修復され、苦悩に陥ることはなかったのである。会社でも、部長から、商品の売れ行きが悪いということで苦言を呈され、営業課長という自分のステータスを低く評価されたように感じ、自我が傷つけられたが、明日、その対策の会議を開くことにして、苦悩に陥ることからまぬかれることができたのである。つまり、私たちが苦悩に陥るは、ある構造体で、ステータスとしての能力を低く評価され、自我が傷つけられた時、それを修復するのによい方法が思いつかず、絶望に陥った時である。