あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、誰しも、主体性を有していず、自我の欲望に動かされている。(自我から自己へ7)

2022-01-11 15:47:14 | 思想
人間は、誰しも、主体性無く、生きている。しかし、それは当然のことである。なぜならば、人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれていないからである。そうかと言って、誕生を拒否したのに、誕生させられたわけでもない。気が付いたら、そこに人間として存在しているのである。だから、人間は、誰しも、主体性が無く、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きているのである。つまり、人間は、自らの意志で誕生していないから、主体性が無く、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きているのである。そして、時として、自らに主体性が無いことに気付き、疑問を覚えるのである。自らの意志によって生まれてきていず、主体性が無いことは、他の動物、植物も同じである。しかし、人間には、他の動物、植物と異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていることに気付くことも、疑問を覚えることも無いのである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、思考と行動は完全に一致しているのである。しかし、人間は、言葉を持っているから、自らが何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていること、すなわち、自らに主体性が無いことに気付き、疑問を覚えることがあるのである。そして、主体的に生きようとし、そして、常に、挫折するのである。なぜならば、誕生の意志をもって生まれていないのに、誕生してから主体性を持とうとしても、すなわち、主体的に生きようとしても、不可能だからである。つまり、人間は、誰しも、意志無く生まれていて、偶然に誕生していて、気が付いたらそこに存在しているのであるから、主体性が無いのは当然なのである。しかし、人間は、皆、生きている。人間は、誰一人として、自らの意志によって生まれてきていず、主体性が無くても、生きていけるのである。それは驚くべきことなのに、多くの人は疑問を抱いていない。なぜ、疑問を抱かないのか。それは、生きる意味、生きる目的を自覚していなくても、現に、生きているからである。しかし、自覚していないことは、生きる意味、生きる目的が存在していないということを意味していない。人間は、生きる意味、生きる目的を有せずして、生きることはできない。つまり、人間は、自覚していないが、生きる意味、生きる目的を有しているのである。すなわち、人間は、生きる意味、生きる目的を自ら意識していなくても、生きていけるのである。それは、先天的に、人間には、生きる意味、生きる目的が与えられているからである。人間の先天的に与えられている生きる意味、生きる目的とは、ひたすら生き続けようとすることと自我の欲望をかなえようと生きることである。人間のひたすら生き続けようとする無意識の意志は、深層肉体によって生み出されている。人間のひたすら自我の欲望をかなえようとする無意識の意志は、深層心理によって生み出されている。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動であり、深層心理とは人間の無意識の精神の活動である。つまり、人間は、無意識のうちに、深層肉体の意志によって、ひたすら生き続けようとし、深層心理の意志によって、自我の欲望をかなえようと生きようとするのである。まず、深層肉体であるが、そのあり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、深層肉体独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしている。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされているのである。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。また、人間は、誰しも、風邪を引くと、咳がしきりに出たり、熱が上がったりする。そうなると、多くの人は、風邪のウイルスが体内に入り、咳を生み出し、発熱させたのだと思う。しかし、真実は、そうではない。真実は、深層肉体が、体内に入った風邪のウイルスを体外に出そうとして、肉体に咳をさせ、風邪のウイルスを弱らせ、殺そうとして、肉体の温度を上げているのである。また、テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息を吸ったり吐いたりしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まるはずである。確かに、深呼吸という意志による意識的な行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為、すなわち、深層肉体の行為である。呼吸は、誕生とともに、人間の深層肉体に備わっているあるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞のような異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体の意志として、既に動いているのである。深層肉体は、人間が自殺に突き進んでも、人間を生かせようとする意志を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされているのである。次に、深層心理であるが、そのありかたは一貫している。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。人間は、自我の欲望をかなえようと生きているが、それはは深層心理によって生み出されているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者・物、現象などの外部に反応しながら、行動しているのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と・物・現象などの外部と関わりながら、暮らしているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。しかし、人間は、自我を有して生まれてこない。自我を持つ能力を有して生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で、動物として生まれてくるのである。人間は、他の動物と同じように、無意識のうちに、深層肉体の意志によって、ひたすら生き続けようとしている。しかし、他の動物は自我を持たないが、人間は、カオスの状態では不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持つようになるのである。言葉がそれを可能にしているのである。フランスの心理学者のラカンは「無意識は言葉によって構造化されている。」と言う。深層心理は、言語を使って論理的に思考し、自我の欲望を生み出し、人間を動かしていると言うのである。深層心理は、常に、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理が思考して生み出す自我の欲望が、人間の行動の意味、行動の目的である。人間の最初の構造体は最初の自我は最初の自我は息子・娘という自我である。すなわち、人間は、家族という構造体に所属して、息子・娘という自我を持って、初めて、動物を離れ、人間になる。それと同時に、深層心理が、息子・娘という自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者・物。現象などの外部に反応して、、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、息子・娘という自我になった人間を動かそうとするのである。つまり、人間は、動物を脱して、人間界に入ること、すなわち、家族という構造体に所属して、息子・娘という自我を持つことによって、深層肉体が生み出すひたすら生き続けようとする無意識の意志に加えて、深層心理が生み出す息子・娘という自我の欲望をかなえようという無意識の意志を動かされて、行動するようになるのである。そして、その後も、人間は、常に、ある構造体に所属して、深層心理が、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、他者、物。現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になった人間を動かしているのである。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。心境は、感情とともに、情態という心の状態を表す。心境もしくは感情は、常に、深層心理を覆っている。すなわち、深層心理は、常に、ある心境や感情の下にある。つまり、深層心理は、まっさらな情態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情の下で思考するのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する深層心理の情態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、深層心理が行動の指令とともに突発的に生みだす情態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の情態にあるか不得意の情態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境の情態の時には、深層心理は現在の情態を維持しようとし、不得意の心境の情態の時には、現在の情態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。しかし、深層心理が、陰鬱の情態から脱却しようとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しても、超自我がルーティーンを守るために、行動の指令を抑圧しようとする時がある。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発している欲望である。たとえ、超自我の抑圧が功を奏さなかったとしても、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、行動の指令を抑圧することがある。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの思想であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。だから、人間は、陰鬱の情態にあったとしても、深層心理がよほど強い感情を生み出さなければ、行動の指令によって、ルーティーンを、すなわち、生活習慣を変えることができないのである。また、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分を意識するのである。つまり、心境や感情という情態が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分に意識する心境や感情が存在していることが、人間にとって、ある心境にある自分としてもしくはある感情にある自分として、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分、他者、物、現象などがそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在、他者、物、現象などの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、そのものやことの存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、そのものやことの存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者、物、現象などの存在が証明できるから、自分、他者、物、現象などが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、それらのもの存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分、他者、物、現象などの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分、他者、物、現象などの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのであるから、疑うことは無意味なのである。そして、心境が変化するのは、深層心理が自らの心境に飽きた時、もしくは、深層心理がある感情を生み出した時である。だから、人間は、誰しも、自ら意識して、自らの意志によって、すなわち、表層心理では、心境を変えることはできないのである。また、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。なぜならば、心境と感情は並び立つことができないからである。感情は、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。深層心理が生み出した感情、自我である人間に、深層心理が生み出した行動の指令を実行させようとするのである。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理で思考して、心境も感情も生み出すことはできないのである。人間は、表層心理で思考して、すなわち、自らの意志で、嫌な心境を変えることができないから、何かをして、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、嫌な心境を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、嫌な心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。また、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情という情態にも気付くのである。どのような状態にあろうと、心境や感情という情態は掛け替えのない自分なのである。つまり、心境や感情という情態こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。ハイデッガーも、「人間の心は、常に、何らかの情態にある。」と言う。情態とは耳慣れない言葉であるが、心境、感情などの心理状態を意味する。ハイデッガーが情態を重んじたのは、それが人間の存在のあり方に深く関わっているからである。継続した心理状態である心境と一時的な気持ちの高ぶりである感情という情態によって、人間は自らを知るのである。しかし、人間は心境の継続・変化も感情の発生も、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で、行っているわけではない。心境・感情がという情態が深層心理を統括しているのである。だから、人間は、意識や意志という表層心理では、情態を動かすことはできないのである。人間が、意識や意志という表層心理でできることは、深層心理が生み出した感情の高まりを抑え、深層心理が生み出した行動の指令を抑えるだけである。すなわち、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧するだけである。しかし、感情の大きな高まりの中では、人間は表層心理による意志の力では、行動の指令を抑えることができず、そのまま、実行してしまうのである。つまり、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、人間は表層心理による意志の力では、それを抑圧できず、相手を侮辱しろ、相手を殴れ、時には、相手を殺せという深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することができず、そのまま、実行し、悲劇、惨劇を生むのである。つまり、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、人間は表層心理による意志の力では、深層心理が生み出した自我の欲望を抑圧できないのである。さて、人間の心境は自ら変化することがあるが、それには二つの要因がある。一つは、深層心理が、あまりに長く同じ心境でいると。それに嫌悪感を抱くのである。すなわち、深層心理は、あまりに長く同じ心境でいると、その心境に嫌悪感を抱き、自ら、その心境を変化させようとするのである。飽きるという状態が、この状態である。つまり、飽きるとは、人間は、あまりに長く同じ心境でいることに嫌悪感を抱いた状態である。つまり、深層心理は、あまりに長く同じ心境でいることに飽きたから、別の心境になろうとして、別の行動をしようと自我の欲望を起こすことがあるのである。もう一つは、感情の高まりである。すなわち、人間は、心に、感情の高まりが起こると、それを起点にして、そこから心境の変化が始まるのである。暫くすると、心境が明確に変化し、そこから、それが継続した心境になるのである。しかし、情態は、常に、人間が何らかの感情や抱いていたり何らかの気分の状態にいたりすることを意味していることにとどまらない。人間は、常に、自分が何らかの感情や何らかの心境の情態にあるから、自分の存在を認識できるのである。特に、人間は、苦悩という情態にある時、最も、自分の存在を感じるのである。なぜならば、苦悩から逃れようとしても、容易には逃れられない自分の存在を実感させられるからである。デカルトは、「我思う、故に、我あり。」という論理で、自分の存在を証明しようとしたが、そのような論理を駆使しなくても、人間は、自らの情態によって、常に、自分の存在を感じ取っているのである。快感原則は、オーストリアの心理学者のフロイトの定義であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。深層心理は、欲動にかなった時に、快楽を得ることができるから、深層心理は、欲動に従って思考するのである。ちなみに、欲動には、道徳観や社会規約を守るという価値観は存在しない。なぜならば、道徳観や社会規約は、人間が、表層心理で思考して、生み出したものだからである。だから、人間は、悪事を犯しても、深層心理が、快楽を得ることがあるのである。そこに、人間の存在の問題の原点が存在するのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。深層心理は、自我の保身化という作用で、この欲望をかなえようとする。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。深層心理は、自我の対他化の作用で、この欲望をかなえようとする。欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。深層心理は、対象の対自化の作用で、この欲望をかなえようとする。欲動には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。深層心理は、自我の他者の共感化という作用で、この欲望をかなえようとする。このように、人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望についてあるが、これは、深層心理が、自我の保身化という作用で、ほとんどの人の日常生活を同じことを繰り返すというルーティーンの生活にさせている。毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「森羅万象は永遠に同じことを繰り返すこと」という「永劫回帰」の思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むと言っても、毎日が、必ずしも、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、高校という構造体で、高校生が同級生から侮辱を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情を生み出すとともに侮辱し返せという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために、侮辱し返せという行動の指令を抑圧しようとする。超自我も、また、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発しているのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、行動の指令の通りに行動したならばどうなるかという将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの思想であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。そして、高校生は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、侮辱し返せという行動の指令、ルーティーンの生活を続けようとするのである。このように、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求める欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちである。その時、深層心理の超自我がルーティーンを守るために、自我の欲望を抑えようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、抑えきれないのである。そして、超自我が自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求める現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心の感情は、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、人間は、誰しも、愛国心を持っているのである。それは、誰しも、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。かつて、よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがあった。日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。全ての人に、愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからであり、決して、愛国心が存在しないわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々が、いずれかの国に所属し、国民という自我を持っているからである。愛国心とは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者の深層心理が思考して生み出す自我の欲望だからである。それは、郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心を抱くのと同じである。それらも、皆、深層心理が思考して生み出す自我の欲望である。さて、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、それは、子供は深層心理が生み出す自我の欲望に正直に行動するということを意味するのである。子供は正直だからこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしているからである。それ故に、愛国心による争いは収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。為政者、共々、国民が愛国心から発する自我の欲望に従順である限り、争いは収まらないのである。また、小学校・中学校・高校という構造体で起こるいじめによる自殺も、自我の欲望に忠実であることの悲劇、惨劇である。なぜ、いじめられていた生徒、親に訴えなかったのか。それは、そうすることで、いじめっ子たちは罰せられるかも知れないが、自分は、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所を無くすからである。それを彼は最も恐れたのである。自殺するのは、いじめという屈辱から解放され、いじめっ子たちは罰せられるからである。自殺すれば、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所が無くすという不安を味わわないで済むのである。それでは、なぜ、いじめっ子たちは、いじめという非人間的な行為を行ったのか。それは、いじめっ子たちの深層心理が、それを命じたからである。人間は、他者と交流すると、いろいろな思いを抱くが、その中に、必ず、好き嫌いの感情が含まれている。つまり、人間は、他者と交流すると、程度の差はあれ、好き嫌いの感情を抱くのである。月に一度ぐらいしか会わない人ならば、その人のことを心で反芻しない限り、好き嫌いの感情は消え失せるどころか、その人自身を忘れていく。しかし、毎日のように会う人に対しては、会うにつれ、自分の心の中に、次第に、好きな人、嫌いな人、ほとんど好き嫌いの感情を抱かない人に分類されていく。大抵の人間の心の中は、好きな人や嫌いな人の数は少なく、ほとんど好き嫌いの感情を抱かない人に占められるだろう。生徒もそうである。毎日同じクラスメートと過ごしているうちに、次第に、好きなクラスメート、嫌いなクラスメート、ほとんど好き嫌いの感情を抱かないクラスメートに分類されていく。そして、好きな同性のクラスメートに対しては、信頼し合い、仲間という構造体を形成し、友人という自我が持てるように行動し、好きな異性のクラスメートに対しては、相思相愛になり、カップルという構造体を形成し、恋人という自我が持てるように行動するだろう。ほとんど好き嫌いの感情を抱かないクラスメートに対しては、機械的に接するだろう。嫌いな異性のクラスメートに対しては、できるだけ離れて行動するだろう。問題は、嫌いな同性に対しての行動である。嫌いな異性に対しての行動のように離れることはできないのである。同性ということで、体育や家庭の授業ばかりでなく、いろいろなクラス活動や修学旅行などで、同じ場所にいさせられて共同作業をさせられるのである。そうすると、呉越同舟の第一の意味の心理の状態、つまり、仲の悪い者同士が同じ場所にいて、気まずい雰囲気になったり、いらだったり、不安になったりする心理状態に陥り、激しいストレスを感じるのである。毎日同じ教室にいるだけでストレスを感じているのに、同じ場所にいさせられて共同作業をさせられることによって一層激しいストレスを感じるようになるのである。このストレスが、嫌いな同性を不倶戴天の敵にまで見なすようにするのである。このストレスがいじめの大きな原因の一つになっていることは言うまでもないことである。さて、クラス内の仲間は、クラスという集団の中で、孤立することを恐れ、不安な日々を送ることにないように、気心の知れた友人たちによって組織され、たいていの場合、同じ行動を取っている。だから、仲間内の一人が、ある生徒にストレスを感じ、不倶戴天のように憎しみを持っている時、仲間全体で、協力して、その生徒をいじめ、彼のストレスが解消するように協力するのである。仲間という集団が一人に向かうのだから負けることは無いのである。また、一人の生徒を仲間共通の敵とすることで、連帯感が高まり、快楽も得るのである。だから、いじめは収まることはないのである。いじめ撲滅のために、教師は機会ある度にいじめの非人間性を生徒に説き、日々いじめが起こっていないかと注意深く見張り、日々面接して生徒からいじめに関する情報を得ていると聞いている。確かに、そのようなことは必要だろう。しかし、それらは根本の解決にならないのである。クラスからいじめを根絶するには、クラスという単位を無くすことが最善の解決策であると思う。現在の学校は、同年齢の者たちの寄せ集めの一年間閉ざされた(メンバーが同じの)空間であるクラスという単位で授業を行っていて、生徒は毎日同じ教室に入り、同じクラスメートと授業を受け、教師が移動して教えているが、それを、教師が自分の固定した教室を持ち、生徒が授業ごとに移動するように変えるべきだと思う。クラスという集団単位を無くせば、生徒は、孤立を恐れることもなくなり、クラスメートからストレスを感じることも無くなり、伸び伸びと授業を受けるようになるだろう。クラスが消滅するのだから、クラスメートという仲間によるクラスメート一人に対するいじめがなくなるのは当然のことである。しかし、そうなると、仲間が作りにくくなり、友人という自我を持ちにくくなる。恐らく、生徒から猛反対が起こるだろう。親も、学校生活が思い出が少なくなり、同窓会が開けなくなるなどと言って反対するだろう。だから、日本において、クラスが消滅することは無いであろう。それでも、仲間とは弱者の集団だからそこに加わるのはプライドが許さないので自分から敢えて仲間に入らない人と仲間に入ると集団性に捕らわれて主体性が失われると思われるから自分から敢えて仲間に入ろうとしない人は安心である。なぜならば、彼らは、万が一、いじめにあっても、親や教師に訴えるからである。彼らは、仲間信じていないので、仲間の思惑を気にしないからである。心配なのは、仲間に入りたいのだが声を掛けるのがおっくうだから声を掛けられずに仲間に入れない人と声を掛けたのだが無視されたり拒否されたりして仲間に入れない人である。彼らは、いじめにあっても、親や教師に知らせると、もう仲間に入れてもらえることは無くなってしまう。仲間にどのように思われるだろう、後で仲間からいっそういじめられるのでは無いか、親や教師に自分の落ち度を責められるのでは無いかと危惧して知らせず、いじめられ続けるのである。そして、自殺などの悲劇を生むのである。また、なぜ、いじめを見ていた周囲の中学生たち注意することも無く、教師に訴えることをしなかったのか。そうすれば、自分が、次に、いじめっ子たちのいじめのターゲットになる可能性があるからである。大人たちが現れ、いじめっ子たちを罰するということがわかった時に、安心して、いじめの事実を話すのである。
次に、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望についてであるが、これは、深層心理が、自我の対他化の作用で、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているのである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。たとえば、男子高校生は、同級生から馬鹿だと言われると、思わず、拳を握りしめることがある。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我も表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。人間は、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすとわかっていても、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、深層心理の超自我も表層心理での思考を圧倒し、深層心理が生み出した行動の指令のままに、自我が動かすことがあるのである。人間の表層心理での思考、すなわち、理性には限界があるのである。ここにも、人間の存在の問題の原点があるのである。次に、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲動の第三欲望についてであるが、これは、深層心理が、対象の対自化の作用で、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を見ることなのである。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を思うように動かすことができれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。校長の快楽は、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を支配しているという満足感である。社長の快楽は、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配しているという満足感である。さらに、わがままも、他者を対自化しようという欲望から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できることが物を支配しているということなのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えるということが現象を支配していることなのである。カントは理性という志向性で、ヘーゲルは弁証法という志向性で、マルクスはプロレタリア革命という志向性で、ハイデッガーは存在論という志向性で、フロイトは無意識という志向性で、現象を支配しようとしたのである。さらに、対象の対自化の欲望が強まると、深層心理の対象の対自化の作用には、無の有化と有の無化という機能が生まれてくる。無の有化は、「人は自己の欲望を心象化する」という一文で言い表すことができる。それは、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在が不安だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子は自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。有の無化は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」ことである。犯罪者は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、服役しているうちに、犯罪を起こしていないと思い込んでしまうのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、これは、深層心理が、自我と他者の共感化という作用で、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするためにあるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合って、信頼できる構造体を作ることにあるのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じ、自我の存在が確認できるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという目的であり、表層心理で、抑圧しようとしても、抑圧できなかったのは、屈辱感が強過ぎたからである。つまり、ストーカーになる原因は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。二人が仲が悪くても、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。次に、感情と行動の指令という自我の欲望であるが、それは、深層心理が生み出した感情が深層心理が生み出した行動の指令通りに、自我を動かそうとすることである。人間の行動は、全て、ここから始まるのである。



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