あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

無意識の思考の力。(自我その530)

2023-07-17 19:14:40 | 思想
ドイツの哲学者のアドルノは「現代の理性は方向を誤り、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べ、ヒットラー率いるナチス党によるユダヤ人大虐殺の原因を方向性を誤った理性に求めた。しかし、ユダヤ人の大虐殺は、理性という自らを意識している思考が生み出したものではなく、深層心理が思考して生み出した自我の欲望によって起こされたのである。深層心理とは無意識の精神活動である。理性は自我の欲望を抑圧しきれないのである。プーチン大統領は西欧寄りの政策をとるウクライナに兵を向けた。ロシアを嫌っているゼレンスキー大統領はそれに真っ向から対抗した。数多くのロシア兵、ウクライナ兵、ウクライナ国民へが亡くなっても、まだ戦闘が続いている。プーチンのロシアの大統領としての自我の欲望、ゼレンスキーのウクライナの大統領としての自我の欲望が、無益な戦争を生み出したのである。しかし、人間の生活は、悪事だけでなく善事も、全て、自我の欲望によって起こされているのである。自らの無意識の思考の力を知ろうとしない人間には、過去も、現在も、未来も存在しないのである。ただ、ひたすら、自我の欲望に動かされて生きるしかないのである。「氷山の一角」という言葉がある。言うまでもなく、「明るみに出た部分は全体のほんの一部分にしかすぎず、隠れている部分がほとんどである」という意味である。これを人間の精神活動に例えると、「明るみに出た部分」は意識、表層心理であり、「隠れている部分」が無意識、深層心理である。人間は思考して行動している。しかし、無意識のうちに思考して行動しているのである。ところが、ほとんどの人は、自ら意識して思考して、自らの意志によって行動していると思い込んでいるのである。人間の自らを意識しながらの精神活動を表層心理と言う。すなわち、ほとんど人は、表層心理で思考して、自らの意志によって行動していると思い込んでいるのである。しかし、人間は、無意識の思考に動かされて行動しているのである。すなわち、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。人間は表層心理の思考だけでは行動できないのである。表層心理の思考では、感情を生み出せないから、行動できないのである。感情が行動の動力だからである。人間は意識して思考して感情を生みだしたり変えたりできず、そして、意志によって感情を生みだしたり変えたりできないので、表層心理の思考だけでは行動できないのである。人間は表層心理で思考しても、深層心理がそれに納得して、感情と行動の指令という自我の欲望をうみださなければ、行動できないのである。自我の主体は深層心理だからである。人間は、表層心理で、自我の存在を意識し、感情と行動の指令を意識することがあるが、それが自我の欲望という形で深層心理によって生み出されていることに気付かないのである。その原因は、深層心理の存在を知らないこともあるが、それ以上に、自らが自我の欲望に浸りきっているからである。人間は、感情によって自らの存在を認識し、行動によって自らの目的を認識するから、それらが、深層心理によって生み出されているとは夢にも思わないのである。それでも、人間は自らを意識して表層心理で思考することがある。それは、行動の指令に従うか抑圧するかを思考するのである。しかし、多くの人は、それが深層心理によって生み出されたものだと気づいていない。深層心理は自我の欲望を生み出した時、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令に従うか抑圧するかを思考する時がある。しかし、表層心理で行動の指令を抑圧することに決め、意志によってそれを実践しようとしても、感情が強いと、抑圧できないのである。さらに、感情が強すぎる場合、表層心理で思考することも無く、行動の指令に従ってしまうのである。だから、人間には醜い行いや罪ある行いが絶えないのである。人間の最も強い感情は怒りである。また、多くの人は、毎日、家庭という構造体で暮らし、学校や会社という構造体に通っている。そこで、自我が下位に落とされ、自我が傷付けられることがある。家庭で配偶者に日ごろの行動を非難されたり、学校で生徒が同級生に悪口を言われたり、会社で社員が叱責されたりすることがある。その時、深層心理は、その苦痛から解放されるために、自我を傷つけた相手に対して、怒りの感情と相手を侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、自我の欲望として生み出し、人間を動かそうとすることがある。しかし、その時、人間は、表層心理で、そのように行動したら、相手から反撃されたり、周囲の者から顰蹙を買ったり、処罰されることことになるから、意志で、自我の欲望を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、深層心理が生み出した相手を侮辱しろ・殴れなどの行動の指令に従って、行動してしまうのである。そして、相手には惨劇を、自らには悲劇を招くのである。だから、アメリカなどの銃社会では、銃が身近にあるから、容易に、殺人事件が起こるのである。しかし、人間は自我から離れて生きることはできず、自我の欲望から逃れることはできないのである。それは、自我があるからこそ人間世界で生きていくことができ、自我の欲望があるからこそ人間世界て行動できるからである。つまり、人間には、自我の壁、自我の欲望の壁があるのである。また、ほとんどの人は、主体的に生きたいと思っている。主体的に生きるとは、他者や他人に束縛されず、自ら思考し、自らの意志によって行動することである。人間の主体的な思考を理性と言う。また、主体的に生きるということは自己として生きるということである。だから、また、ほとんどの人は、自己として生きることに憧れるのである。中には、自己として生きていると思い込んでいる人もいる。しかし、人間は、容易には、自己として生きることができないのである。なぜならば、自己として生きるとは、表層心理で、自らを意識して、主体的に、自らの行動を思考して、その思考の結果を意志として、行動するだからである。すなわち、理性で思考して、行動を決めて、それを意志として、行動することだからである。もしも、人間が、表層心理で思考して、それを意志として行動しているのならば、自己として生きていると言うことができるだろう。しかし、人間は、表層心理の思考では自我の欲望を生み出せないから、自己として生きることはできないのである。深層心理が思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているから、人間は、自己として生きることはできず、主体的に存在できないのである。ところが、ほとんどの人は、自ら主体的に思考できず行動できないのは、すなわち、自己として存在できないのは、他者や他人から妨害や束縛を受けていることが原因だと思い込んでいるのである。そこで、他者や他人からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、表層心理で、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自らの行動を意識して思考して、自らの意志で生きることができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。だから、ほとんどの人は、主体性無く、生きているのである。さて、深層心理は自我を主体に立てて思考しているが、自我とは何か、自我を主体に立てるとは何か。自我とは、ある構造体の中で、他者からある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我として生きているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。自我以外の生き方は存在しないのである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。次に、自我を主体に立てるということであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。つまり、人間は、自らが主体となって、思考し行動していないのである。だから、人間は自己として存在し難いのである。自己とは、人間が表層心理で常に正義に基づいて思考して行動するあり方である。つまり、自己とは、人間が、正義に基づいて、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、表層心理で正義に基づいて思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされているので、自己として存在していると言えないのである。自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、人間は他者の思惑を無視して主体的に自らの行動を思考することはできないのである。そうすれば、構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。また、そもそも、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の結果を受けて始まるから、人間は、本質的に、正義に基づく主体的な思考はできず、自己として存在できないのである。
次に、深層心理は自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、自我の欲望と何か。自我の欲望とは感情と行動の指令が一体化したものである。深層心理が生み出した感情が動力となって、深層心理が生み出した行動の指令通りに人間を動かそうとするのである。人間の最も強い感情は怒だから、人間は、怒りに駆られて、異常な行動を起こすのである。人間の人間たる所以は、深層心理の思考によって生み出された自我の欲望によって動かされていることである。次に、深層心理は心境の下で思考しているが、心境とは何か。心境は、感情と同じく、深層心理の情態を表している。情態とは、人間の心の状態を意味している。人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の良し悪しが人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考する。深層心理は、同じことを繰り返すというルーティーンの生活を維持しようと思考する。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味する。心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境は、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽、感動など、深層心理が行動の指令ととに瞬間的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。しかし、深層心理がよほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理の現実原則の思考によって行動の指令は抑圧されるのである。深層心理には、保身欲から発した、超自我という日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとする機能が存在するのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。現実的な利得を求める欲望とは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。これは、フロイトは現実原則と呼んでいる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし不利益を被らないないような視点から、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考し、異常な行動の指令を抑圧しようとするのである。抑圧が成功すれば、ルーティーンの生活が続くのである。感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。深層心理が、喜び楽しみなどの快い感情を生み出した時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒りや哀しみなどの不快な感情を生み出した時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめようとする。自我が傷付けられ、深層心理が怒りの感情を生み出した時には、他者への非難や暴力を加えるなどの行動の指令通りに人間を動かし、他者を下位に落とすことによって、下位に落とされた自我を回復させようとする。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、泣くなどの行動の指令通りに人間を動かし、他者に慰めてもらおうとする。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、現在の自我の状態を維持すような行動の指令を生み出し、人間を動かそうとする。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間を動かす力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。しかし、傷付いた感情は、超自我や表層心理での思考によって、行動の指令が抑圧されれば、持続するのである。それが、所謂、ストレスである。オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理が思考するのは、自我になっている人間を動かし、苦しみの心境や感情から苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態が大切なのである。深層心理は、常に、心境という情態に覆われていて、時として、心境を打ち破り感情という情態を生み出し、常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとしている時などに、何かを考えている自分、何かをしている自分、何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や心に起こっている感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在まで、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。また、人間は、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、突然、自我を意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自我の心境とともに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識して、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の心境とととに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威であり、自我の存在を危うくさせる可能性があるからである。人間は、常に、他者に対して、警戒心を怠らないのである。人間は、一人でいても、無我夢中で行動していても、突然、自我の存在、すなわち、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することもあるのも、それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。しかし、人間は、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境も感情も変えることはできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、直接的に、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることによって間接的に変えようとするのである。それが気分転換である。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。次に、深層心理は、欲動に基づいて快楽を求めて自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動には、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望がある。欲動の第一の欲望である保身欲は自我を確保・存続・発展させたいという欲望であり、深層心理は、自我の保身化という作用によって、常に、その欲望を満たそうとしている。欲動の第二の欲望である承認欲は自我が他者に認められたいという欲望であり、深層心理は、自我の対他化の作用によって、常に、自我が他者からどのような評価を受けているかを探っている。欲動の第三の欲望である支配欲は他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であり、深層心理は、対象の対自化の作用によって、自らの志向性で対象を捉えている。欲動の第四の欲望である共感欲は自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であり、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、自らの趣向性で他者を捉えている。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。深層心理は、自我が欲動にかなうような状態になれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を思考して生み出し、自我となっている人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理が動かし、深層心理が人間を動かしているのである。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望が存在しないのである。欲動は深層心理に内在しているから、人間は表層心理で深層心理に直接に働き掛けることはできないのである。道徳観や社会規約は、人間が表層心理で思考する時に使われるのである。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場で快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするから、行動の指令には善事も悪事も存在するのである。もちろん、超自我や表層心理での思考が悪事を抑圧しようとする。しかし、感情が強ければ、抑圧できないのである。つまり、感情が強ければ、人間は、欲動に基づいて思考する深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動するしかないのである。そこに、人間の悲劇があるのである。さて、欲動という四つの欲望のうち、最も重要なのは、第一の欲望である保身欲である。人間は、構造体に所属して、自我を有して、初めて、人間として活動できるからである。ほとんどの人の日常生活が無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、保身欲によって、自我の保身化を図ろうと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、無意識のうちに、それに従って行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、人間は表層心理で自らを意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになっているのは、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままに行動して良く、表層心理で自らを意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、毎日が、平穏というわけではない。承認欲が阻害され、自我を傷つけることが起こることがある。そのような時、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、傷ついた自我を回復させようとする。たとえば、会社という構造体で、社員が、営業実績が振るわないという理由で、課長から、激しく叱責される。その時、深層心理は怒りの感情と課長に反論しろという行動の指令を生み出し、自我を動かそうとする。しかし、まず、彼の超自我は会社に居続けるために、深層心理が生み出した反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在する欲動の保身欲から発したルーティーンを守ろうとする作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、深層が生み出したと課長に反論しろという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、彼は、表層心理で、自らを意識して思考することになる。一般に、表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求める欲望とは、長期的な展望に立って、道徳観や社会規約を考慮し、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。道徳観や社会規約を考慮するのは、それらを無視すると、世間から指弾され、欲動の第二欲望である承認欲が満たされないからである。先の例で言えば、社員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、課長に反論したならば、後に、自分の立場が不利になると考え、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した課長に反論しろという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した反論しろという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに課長に反論してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、他者を傷付け、自我を不利な状況に追い込むのである。に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、次に、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それがストレスである。つまり、表層心理での思考も、深層心理が生み出した自我の欲望を対象にし、そこから出ることは無いのである。すなわち、深層心理の自我の欲望で人間を動かそうとする思考にしろ、表層心理での現実の利得を求めて自我の欲望を対象にする思考にしろ、自我中心に行っているのである。しかし、人間は、自己として存在せず、自我の欲望に支配されている限り、殺人や戦争などの悪事を行い、自我が傷つけられた苦悩を免れることはできないのである。なぜならば、人間にとって、自我の欲望に支配されない唯一のあり方は自己である。自己とは、主体的なあり方であり、人間が表層心理で正義に基づいて思考して行動するあり方である。それは、欲動の第三の欲望である自らの志向性で自我を対象化する支配欲から発している。すなわち、自らの志向性とは正義に基づいて思考することなのである。自己とは、正義という志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動するのである。一般に、人間は自我を傷つけられた時、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとする。そのような時、超自我が、ルーティーンの生活を守るために、過激な行動を抑圧するように作用する。超自我が破られた時、人間は、表層心理で、自らを意識して、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した過激な感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議する。これが自我にこだわった人間の心理のプロセスである。それを、現実的な利得ではなく、正義に基づいて思考するのである。それが、自己のあり方である。すなわち、表層心理で、自らを意識して、正義に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するのである。しかし、自己として正義に徹して生きている人は、構造体の他者から白眼視されたり、迫害されたり、構造体から追放されたりする可能性がある。しかし、自己として正義を貫く人は、その覚悟が必要なのである。しかし、現在の日本においてもちろん、世界においても、そのような人は何人存在するだろうか。さて、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望である保身欲であるが、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、現代においては、誰しも、愛国心を持っているのである。それは、世界中の人々が、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。深層心理は、保身欲から、愛国心という自我の欲望を生み出し、所属している国とその国に所属している国民という自我の存続を望むのである。国のために戦うというのは国という構造体が存続することの思いから生まれたものである。しかし、戦死すれば、国民という自我を失い、国が存続しても意味をなさないのである。そして、国という構造に所属して、国民という自我を持つから、深層心理は、自国のすばらしさを他国の人々に認めてほしいという承認欲を生み出すのである。それも、また、愛国心である。だから、ワールドカップやオリンピックで自国チームや自国選手を応援するのである。試合の形はともかく、自国チームや自国選手に勝ってほしいのである。それは、スポーツ精神から外れた気持ちである。愛国心と同様に、深層心理は、自我が郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心という自我の欲望を生み出すのである。構造体と自我の関係から深層心理が生み出すのである。ただそれだけのことなのである。さて、「俺は、心から、日本を愛している。」と叫び、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する人がいる。売国奴とは敵国と通じて国を裏切る者を罵って言う言葉であり、非国民とは国民としての義務を守らない者であり、反日とは日本の利益に反する行為、日本や日本人に反感を持つ人のことを言う。しかし、日本人ならば誰しも日本に対して愛国心を持っているので、売国奴、非国民、反日のいずれも、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる者が生み出した誤った言葉なのである。また、憂国という言葉がある。憂国とは国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味である。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのは当然のことである。だからに、憂国の念を抱く者を特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。さらに、憂国は国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味であるが、現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方は普遍化できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいるのである。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。もちろん、隣国の中国や韓国という構造体に所属する人々にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちもまた憂国の士である。もちろん、彼らは犯罪者である。さて、日本の憂国の士と自称する者と中国の憂国の士と自称する者、日本の憂国の士と自称する者と韓国の憂国の士と自称する者が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、戦争に発展するだろう。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。一般に言われているような、決して、過大に評価すべきものではないのである。なぜならば、国という構造体が存在する限り、国民という自我を有する者が存在し、そこには愛国心という自我の欲望が必ず存在するからである。ただ、それだけのことなのである。それを認識して、自分の考えを言い、相手の主張を聞きながら、折り合いをつけるのが自己としての生き方である。さて、よく、子供は正直だと言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、子供は自我の欲望に対して正直なのである。だからこそ、些細なことで喧嘩するのである。子供は、互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、自我のあり方しかできず、自己として生きられないから、喧嘩が絶えないのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、全て、幼児の争いである。幼児は力が弱いから、その悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、愛国主義者の悪行を止めるどころか、むしろ、たきつけているのである。愛国主義者も政治権力者も自らの自我の欲望に忠実に行動しているのである。だから、愛国心による国際紛争は収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。政治権力者、国民、共に、愛国心という自我の欲望に従順である限り、この世から、戦争は無くならないのである。しかし、愛国心だけで無く、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から起こる犯罪は枚挙に暇が無い。ミャンマーの国軍兵士が、無差別に、市民を射殺しているのは、上官の命令に従っているからであり、上官の命令に背けば、兵士という自我を失うからである。正義という志向性で思考して自己と存在するならば、このような残虐なことはできないはずである。よく兵士とは国を守るための重要な存在だと言われるが、そうではない。この世には、守るべき国も、破壊すべき国も存在しない。国を守るということを金科玉条に言い立てる人は、愛国心という自我の欲望に埋没している国家主義者か支配欲という自我の欲望をかなえようとしている政治権力者である。自衛隊員を含めて兵士が政治権力者や上官の国を守るとか治安のためとかの理由による命令で人を殺すことができるのは保身欲から来る自我の欲望に動かされているからである。また、裁判官が首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして首相に迎合するのは、立身出世という保身欲から来る自我の欲望がなせる業である。裁判官や公務員という公明正大であるべき身分の人々が自己としての正義に基づいて思考しないのである。日本の汚点である。次に、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、深層心理が、自我を他者に認めてもらいたいという欲望から、他者の自分に対する気持ちを推し量ることである。承認欲がかなえば、自我が伸張し、自我の力が発揮できたように満足できるのである。だから、深層心理は、自我が他者から認められる状態を思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理は、常に、どのようにすれば、その人から好評価・高評価を得られるかと考えて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間
を動かそうとするのである。フランスの心理学者のラカンに「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。それは、「人間は、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。すなわち、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得すれば自分の力を発揮したとして、欲動の承認欲にかない、深層心理は満足できるのである。ことの現れなのである。だから、逆に、自我が他者に無視されたり傷付けられたりして認められなければ、深層心理は、怒りの感情と他者に対する攻撃の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かし、傷心から解放されようとするのである。つまり、人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れ、他者の欲望を欲望しているのである。他者の欲望を獲得することが、自我の目標となっているのである。学生や生徒が勉強するのは、成績を上げて、教師や同級生や親から褒められたいからである。会社員が懸命に働くのは、業績を上げて、上司や先輩や同輩に褒められたいからである。だから、自我が他者に認められないと、深層心理は、すなわち、人間は苦悩に陥るのである。だから、その苦悩から逃れようとして、他者に自我の力を知らしめる方法を考えるのである。人間は、いついかなる時でも、自我が他者に認められるように行動しているのである。他者を攻撃することがあるのは、他者が自我を認めてくれないばかりか、貶めたからである。他者を攻撃することで他者を下位に落とし、下位に貶められた自我を上位にもっていこうとするのである。人間の怒りや苦悩に陥る主原因は、深層心理の自我の対他化による自我の欲望がかなわなかったことである。
人間の深層心理には常に自我を他者に認めてもらいたいという承認欲があり、人間は自我として常に他者と接しているから、いついかなる時でも、人間は怒りや苦悩に襲われる可能性があるのである。しかし、深層心理が感情を生み出すから、人間は感情から逃れることはできないのである。また、感情があるからこそ、人間は自分の存在を意識できるのである。そして、自己として主体的に生きようと努めるならば、自我が他者から批判されても、それを冷静に受け止めて、他者の批判の内実を思考して、他者が正しく自らが誤っていると思えば、自らを正そうとし、自らが正しいと思えば、ある時には、それを押し通し、ある時には、冷静に反論すれば良いのである。次に、欲動の第三の欲望が支配欲である。深層心理は、自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を支配することによって、すなわち、対自化することによって、快感や満足感を得ようとするのである。志向性とは、対象を捉える方向性である。端的に言えば、観点・視点である。深層心理は、志向性によって、自我・他者・物・現象という対象を捉えて思考している。しかし、人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えて思考している。深層心理の対象への対自化というあり方は志向性で捉えていることである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、志向性で、他者という対象を支配しようとし、物という対象をで利用しようとし、現象という対象を捉えているのである。深層心理は、志向性で、対象の対自化して、支配欲を満たして、快感や満足感を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、深層心理が、すなわち、人間が、快感や満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快感や満足感が得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、ウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による無差別の殺戮は、支配欲を満足させるために起こしているのである。もちろん、それは。自己のあり方ではない。自我の欲望の仕業である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという満足感が得られるのである。しかし、現在、世界中に、自然を収奪するだけの自我の欲望を満たすあり方を反省し、自然の共生するあり方へと転換が始まっているのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快感や満足感が得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、深層心理が、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、快感や満足感が得られるのである。カップルという構造体は、恋人という二人の自我によって成り立っている。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人として自我を認め合うことができれば、自らの存在を実感でき、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。また、仲間という構造体は、友人という二人以上の自我によって成り立っている。友情という現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。人間が友人を作ろうとするのは、仲間という構造体を形成し、友人という自我を認め合うことができれば、そこに安心感が生じるからである。友人いう自我と友人いう自我が共感すれば、そこに、信頼感が生じ、一人の自我で受ける孤独感から解放され、力がみなぎって来るのである。しかし、人間、誰しも、誰を恋人にするか、誰を友人にするかは、表層心理で、自らを意識して思考して決めているわけではない。深層心理が、趣向性によって、選んでいるのでいる。趣向性とは、好みという感性である。人間は、意識して感性に入ることはできないのである。感性は、深層心理の範疇に属しているのからである。また、呉越同舟という共通の敵がいたならば仲が悪い者同士も仲良くすることも、共感化の現象である。二人の仲が悪いのは、二人の趣向性が異なり、そこで、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで一つになるということも、共感化の現象である。そこに共通の対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通の対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化で自我の力が発揮しようと思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)ようになるのである。しかし、小学校、中学校、高校で、自我の深層心理の趣向性が合わないために、いじめが起こる。いじめの原因は、毎日、閉ざされ、固定されたクラス、クラブという構造体で、クラスメート、部員という自我で暮らしていることである。毎日、同じクラスメート、部員と暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくる。好きな部員、友人ばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの感情は、自ら意識して、自らの意志で、生み出しているわけではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、好きなクラスメート、部員と嫌いなクラスメート、部員を峻別しているわけでは無い。深層心理が、共感化の趣向性がそれを出現させるのである。しかし、小学生、中学生、高校生は、クラス、クラブに嫌いなクラスメート、部員がいても、それを理由にして、自分が別のクラス、クラブに移ることもその嫌いなクラスメート、部員を別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるだけである。だから、現在のクラス、クラブという構造体で生きていくしか無いのである。しかし、クラス、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、嫌いな人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵にしてしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分には、共感化している友人がいるから、彼らに加勢を求め、いじめを行うのである。彼らも仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。クラスという構造体では、担任の教師は、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなり、担任教師という自我の力量が問われるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。また、カップルという構造体で恋人という自我にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまでするのは、カップルという構造体が壊れ、恋人という自我を失うのが辛いからである。いじめている生徒も担任教師も、良心に目覚め、正義に基づく自己として生きない限り、いじめやストーカーは絶えることは無いのである。このように、深層心理が、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲という四つの欲望のいずれかに基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているが、それに無反省に従っている限り、犯罪は絶えることは無く、それが殺人や戦争にまで及ぶのである。確かに、一般に、自我を傷つけられた人間が殺人事件や戦争を引き起こす。人間は自我を傷つけられると、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとする。自我を傷つけられた人間の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた人間を殺せという自我の欲望を生み出して、傷ついた人間を殺人へと駆り立てるのである。自我を傷つけられた政治権力者の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた政治権力者を倒せという自我の欲望を生み出して、傷ついた政治権力者を戦争へと駆り立てるのである。人間は、自己に目覚めない限り、自我の欲望に従って生きるしかないのである。しかし、自己に目覚めるのは至難の業である。しかし、自己に目覚めない限り、人類は殺し合って滅びるしかないのである。