あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我。(人間の心理構造その1)

2022-12-27 12:02:39 | 思想
人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では来客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、子は父や母としてしか見ていないが、父や母は別の構造体では別の自我になるのであr。すなわち、人間は、常に、自我として何らかの役割を担って暮らしているのである。一瞬たりとも、そこから逃れることはできないのである。役割こそが、自分自身なのである。それに成りきっているから、役割を演じていると気付いていないのである。自我という役割存在は、必ず、空間(場所)という構造体と関係性という人間関係の中にあるのである。だから、人間は、自らを自分と称するが、自分は自我の総称であって、固定していない。構造体ごとに異なった自我を持つ。人間は、私、俺、僕などの代名詞で自分を表現するが、その自分とはその時の自我である。人間は、所属する構造体ごとに、異なった自我になり、それを自分だと称しているのである。すなわち、所属する構造体が自我を決定し、自分を決定するのである。しかし、常に、構造体に所属して、構造体から与えられた自我を自分として暮らしているあり方について、それを意識したり、疑問に思ったりする人は、ほとんどいない。なぜならば、深層心理が、自我を自分として動かしているからである。深層心理とは、人間の無無識の精神活動である。だから、人間は、自ら意識しなくても、自ら意志しなくても、自我に執着して、自分として生きているのである。つまり、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着しているのではなく、深層心理が、人間を自我に執着させて、自分として動かしているのである。だから、人間は自分に執着して生きているが、自分とは、人間が、自ら選んだあり方では無く、構造体から与えられ、自らを他者や他人と区別して指している自我というあり方なのである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別している自我の姿が自分なのである。人間は、深層心理に支配され、深層心理が自我に執着しているから、人間も、自我に執着して生きるしかないのである。つまり、人間は、自我に成りきって生きるしかないのである。