あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

権力者と右翼は戦争を好む

2017-11-16 18:53:26 | 思想
訳知り顔の現在の体制擁護派の政治評論家たちは、よく、「日本人は、皆、平和を願っている。どのような地位にある者も、また、どのような思想信条を抱いている者も、戦争を嫌っている。」と言う。だから、「安倍晋三首相も、右翼(ヘイトスピーチをする集団、レイシストたち)も、戦争をしたくないのだ。」と言いたいのである。戦争嫌悪は、全国民に共通の心情だと言いたいのである。しかし、果たして、そうであろうか。翻って、なぜ、人間は、戦争を嫌うのだろうか。それは、敵国という理由だけで、見知らぬ者同士が殺し合い、互いの国土を破壊し合うからである。戦争になると、自分が敵国の兵士や兵士の家族を殺し、敵国の兵士によって自分や自分の家族が殺される可能性がある。誰しも、自分が殺される状況に陥ったら、怒りをもって、ためらわずに、相手を殺すだろう。日常生活でもそうなのだから、罪を問われない上に、むしろ、称揚される戦場においては、なおさらのことである。そして、誰しも、上官に命令されれば、敵国の兵士ばかりでなく、その家族をも殺すだろう。戦争とはそういうものである。さらに、現代においては、戦場は、地域が限定されない。現代においては、いつ、身近な場が戦場になるかわからないのである。かつて、織田信長と今川義元の戦いは桶狭間一局に絞られ、徳川軍の東軍と豊臣軍の西軍の戦いは関ヶ原の一局に絞られた。しかし、太平洋戦争においては、東京大空襲を筆頭に全国の都市が爆撃され、沖縄が戦場になり、広島、長崎に原爆が落とされた。つまり、日本政府が戦争を起こせば、日本国民の誰一人としては逃れる場はないのである。この論理から行けば、日本に戦争に起こるはずがない。確かに、愛国心という自我が暴走しなければそうである。愛国心という自我が暴走しなければ、戦争嫌悪という心情が、戦争の抑止力になるのである。これまでの日本がそうであった。しかし、安倍晋三が首相になり、日本会議という戦前志向の右翼組織と結託し、アメリカに自衛隊員の命を売り、中国、北朝鮮、韓国に敵愾心を見せ、愚かな国民の支持を受けると、官僚たちは小躍りし、マスコミの多くは安倍晋三に追随し、政治評論家の多くは安倍晋三に媚びるようになった。さらに、右翼(ヘイトスピーチをする集団、レイシストたち)を中心に、愛国心という自我を前面に押し立てる者が多くなってきた。これは、戦争への危険な兆候である。しかし、それでは、愛国心とは何であろうか。辞書を引けば、広辞苑には「自分の国を愛する心」、ブリタニカ国際大百科事典には「自己の属する政治的共同体(国家)と自己とを一体のものと感じるところに生じる共同体への愛着感」と出ている。つまり、日本人ならば、誰しも、日本という国に対して愛国心を持っているのである。小学生ですら、愛国心を持っているのである。それなのに、右翼(現在の体制擁護派)の政治評論家や右翼(ヘイトスピーチをする集団、レイシストたち)の大衆は、恥ずかしげもなく、「俺は、自分は心の底から日本を愛しているのだ。他の日本人たちとは違うのだ。」と声高に主張する。彼らは、自ら、「俺は、自分は心の底から自分を愛しているのだ。」と言っているということに、気付いていないのである。中国の人々にも、北朝鮮の人々にも、韓国の人々にも、皆、愛国心がある。自らの愛国心に反省がなく、敵愾心を持って前面に推し進めると、それらの国々と戦争になるしかないのである。さらに、愛国心に取り憑かれた人が最高権力者になると、つまり、右翼が首相になると一層危険なことになる。それが、安倍晋三首相である。右翼は戦争に勝利すると自らの自我である愛国心を満足させるだけであるが、最高権力者(首相)が戦争に勝利すると、それに加えて、最高権力者(首相)としてのプライドを満足させることができるの。だから、安倍晋三首相は危険なのである。さて、人間とは、自我の生き物である。愛国心ばかりでなく、愛校心、愛社精神、家族愛、恋愛など、愛の付くものは皆自我である。愛国心だけでなく、自我に取り憑かれた人々は惨劇を引き起こすのである。例えば、いじめっ子の母親は、我が子の非を決して認めようとしない。家族愛から来る、母親の自我がそうさせるのである。自らは、我が子を愛しているから我が子を信じるのだと思っているであろうが、実際は、母親という自ら自身の立場に執着して、そこから、逃れられないのである。失恋した者の中にストーカーになる者がいる。恋愛から来る、恋人の自我がそうさせるのである。自らは、相手を今でも愛しているから離れられないのだと思っているであろうが、実際は、恋人という自ら自身の立場に執着して、そこから、逃れられないのである。