寺とは何か、檀信徒とは。
お寺は檀信徒の菩提所であり祈願所でもある。だがそうあるためにはお寺はどうあるべきなのか。本来お寺とはいかなるものなのか。檀信徒とはどのような方々なのか。
インドで最初にできたお寺は、ヴィハーラ・精舎といわれ、修行に精励する比丘・遊行僧のための粗末な建物に過ぎなかった。勿論そこで有徳の長老僧から教えを聞き、坐禅瞑想の手ほどきを受け、ウポーサタ・布薩という、ひと月二回の戒本の読誦を聞き精進を誓った。それがサンガーラーマ・伽藍といわれるような、仏像を祀った礼拝所と宿泊所があり、のちに栴檀林といわれるような学問所ができるのはずっと時代を経てからのことである。
因みに、寺とは、中国で最初に西域から来た僧が泊まったのが鴻臚寺という役所であったため、僧侶の住まいを寺と言うようになったという。そして、実質的な運営面を考えるならば、寺は修行に精練する僧侶の宿泊する場ではあるが、彼らの信奉する教えの価値をわきまえ、その修行を支援するために、建物を寄附し食事など生活面のサポートをし、そうして、彼らから教えを聞き学び、自らも仏道に励むウパーサカ(信士)・ウパーシカ(信女)といわれる在家の人々の存在が不可欠であった。だからこそ日本でも寺院には必ず檀信徒がおられ各寺院を支えている。
しかし今日、現代の日本社会においては、寺院のその本来あるべき意義が失われてしまっているかのように見える。寺は人が亡くなった時に必要とされる葬式をつかさどり、その後の法事をしてもらうところ。ないしは、様々なご祈願ごとをお願いするところであり、そうした仏事全般を担うところとしか見られていない。そこに集う人々がそれは自らの信仰に基づく仏道のためという意識は希薄なのではないか。風光明媚な散策の場でもあり、静かに心癒す場など、その他いろいろな役割があるとは思われるが、僧俗共に最も大切な自らの仏道を実現するための道場という認識が失われてしまっているのではないかと思われる。
しかし寺院と檀信徒との関係を考えるとき、この本来の意味から捉えない限り、寺院は儀礼のみという形骸化を招く現状に荷担するばかりとなるであろう。住まう僧侶らは、自らの修行を日々行じつつ、仏の存在を自らの理想として生きる人々の、その理想に近づくための歩みを実現する場としての寺院を、檀信徒とともに維持管理し、様々な諸行事を含め円滑な運営することがなすべき大事な役割であろう。また集う人々の信仰の場である寺院を支える檀信徒は、寺院を支えることにより大きな功徳を積むわけであるが、それは自らの信仰のためでもあり、先祖代々の供養のためであると考えるのであろう。
檀信徒は、その寺院に関係する多くの人々の信仰と修行のために奉仕し支援する誠に甚大な功徳主であり、それを先祖代々続けてこられている。寺院にとって、そして仏教にとって、とても大切な御恩ある方々である。そして、その大切な檀信徒の中で、もしも万が一ご不幸あったときには、何を差し置いても駆けつけて経を上げさせていただき、有り難い戒名を授けさせてもらい、長年お寺のために尽くして下さったことに感謝を述べて、懇ろに葬儀を執り行わせていただく、年忌法要にも出向くというのが本来のあるべき仏事であろう。
昨今、こうした寺院と檀信徒の本来からの関係性をわきまえず、仏事を単なる商行為の如くに捉え、ネットにおいて安価奨励する企業もある。信仰なき媒介は益々現代人の宗教的価値を低下させ、先祖代々大切にしてきた仏壇や仏事の形骸化を招くだけであろう。葬式法事など仏事の本来的な意味を逸脱した供養ははたしてあり得るのかと問われねばならない。葬式は要らない、墓じまい、といわれ、それが時代の風潮の如くに扱われる時代ではあるが、なればこそ、頑なに本来のあるべき姿にこだわる必要があるのではないかと思える。
寺院は、本来、仏を理想として生きる、つまり自らも仏に近づいていくことを目的とする人々にとっての心の修行の場であるからこそ、そこで行われる仏事という善行功徳に対してその意味を知り随喜して、先祖も含め故人の成仏を願い、その功徳を回向することが可能となるのではないか。仏壇中段に祀られる先祖各霊の位牌は、さらにその上の仏になるべく親族に合掌され祈りを捧げられる。しかしその位牌に私たち自身の戒名が刻まれ並べられるときが来る。遺族からは成仏を願われる存在ということになる。であるならば、こうして生きているときにも私たちは命を生きる最終ゴールは仏のところにあることを知るべきであろう。だからこそ寺院があり、集う人々とともに教えを学び精進する場がいかに大事なものであるかがわかる。私たちは何のために生きているのか、しあわせとは何かをを今一度立ち止まって考えてみる必要があるのかもしれない。仏壇に託され、先祖代々承け継がれてきた信仰のありがたさ、意味を感じ取っていただけたらありがたい。
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お寺は檀信徒の菩提所であり祈願所でもある。だがそうあるためにはお寺はどうあるべきなのか。本来お寺とはいかなるものなのか。檀信徒とはどのような方々なのか。
インドで最初にできたお寺は、ヴィハーラ・精舎といわれ、修行に精励する比丘・遊行僧のための粗末な建物に過ぎなかった。勿論そこで有徳の長老僧から教えを聞き、坐禅瞑想の手ほどきを受け、ウポーサタ・布薩という、ひと月二回の戒本の読誦を聞き精進を誓った。それがサンガーラーマ・伽藍といわれるような、仏像を祀った礼拝所と宿泊所があり、のちに栴檀林といわれるような学問所ができるのはずっと時代を経てからのことである。
因みに、寺とは、中国で最初に西域から来た僧が泊まったのが鴻臚寺という役所であったため、僧侶の住まいを寺と言うようになったという。そして、実質的な運営面を考えるならば、寺は修行に精練する僧侶の宿泊する場ではあるが、彼らの信奉する教えの価値をわきまえ、その修行を支援するために、建物を寄附し食事など生活面のサポートをし、そうして、彼らから教えを聞き学び、自らも仏道に励むウパーサカ(信士)・ウパーシカ(信女)といわれる在家の人々の存在が不可欠であった。だからこそ日本でも寺院には必ず檀信徒がおられ各寺院を支えている。
しかし今日、現代の日本社会においては、寺院のその本来あるべき意義が失われてしまっているかのように見える。寺は人が亡くなった時に必要とされる葬式をつかさどり、その後の法事をしてもらうところ。ないしは、様々なご祈願ごとをお願いするところであり、そうした仏事全般を担うところとしか見られていない。そこに集う人々がそれは自らの信仰に基づく仏道のためという意識は希薄なのではないか。風光明媚な散策の場でもあり、静かに心癒す場など、その他いろいろな役割があるとは思われるが、僧俗共に最も大切な自らの仏道を実現するための道場という認識が失われてしまっているのではないかと思われる。
しかし寺院と檀信徒との関係を考えるとき、この本来の意味から捉えない限り、寺院は儀礼のみという形骸化を招く現状に荷担するばかりとなるであろう。住まう僧侶らは、自らの修行を日々行じつつ、仏の存在を自らの理想として生きる人々の、その理想に近づくための歩みを実現する場としての寺院を、檀信徒とともに維持管理し、様々な諸行事を含め円滑な運営することがなすべき大事な役割であろう。また集う人々の信仰の場である寺院を支える檀信徒は、寺院を支えることにより大きな功徳を積むわけであるが、それは自らの信仰のためでもあり、先祖代々の供養のためであると考えるのであろう。
檀信徒は、その寺院に関係する多くの人々の信仰と修行のために奉仕し支援する誠に甚大な功徳主であり、それを先祖代々続けてこられている。寺院にとって、そして仏教にとって、とても大切な御恩ある方々である。そして、その大切な檀信徒の中で、もしも万が一ご不幸あったときには、何を差し置いても駆けつけて経を上げさせていただき、有り難い戒名を授けさせてもらい、長年お寺のために尽くして下さったことに感謝を述べて、懇ろに葬儀を執り行わせていただく、年忌法要にも出向くというのが本来のあるべき仏事であろう。
昨今、こうした寺院と檀信徒の本来からの関係性をわきまえず、仏事を単なる商行為の如くに捉え、ネットにおいて安価奨励する企業もある。信仰なき媒介は益々現代人の宗教的価値を低下させ、先祖代々大切にしてきた仏壇や仏事の形骸化を招くだけであろう。葬式法事など仏事の本来的な意味を逸脱した供養ははたしてあり得るのかと問われねばならない。葬式は要らない、墓じまい、といわれ、それが時代の風潮の如くに扱われる時代ではあるが、なればこそ、頑なに本来のあるべき姿にこだわる必要があるのではないかと思える。
寺院は、本来、仏を理想として生きる、つまり自らも仏に近づいていくことを目的とする人々にとっての心の修行の場であるからこそ、そこで行われる仏事という善行功徳に対してその意味を知り随喜して、先祖も含め故人の成仏を願い、その功徳を回向することが可能となるのではないか。仏壇中段に祀られる先祖各霊の位牌は、さらにその上の仏になるべく親族に合掌され祈りを捧げられる。しかしその位牌に私たち自身の戒名が刻まれ並べられるときが来る。遺族からは成仏を願われる存在ということになる。であるならば、こうして生きているときにも私たちは命を生きる最終ゴールは仏のところにあることを知るべきであろう。だからこそ寺院があり、集う人々とともに教えを学び精進する場がいかに大事なものであるかがわかる。私たちは何のために生きているのか、しあわせとは何かをを今一度立ち止まって考えてみる必要があるのかもしれない。仏壇に託され、先祖代々承け継がれてきた信仰のありがたさ、意味を感じ取っていただけたらありがたい。
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