住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

懺悔とは

2021年04月06日 14時48分07秒 | 仏教に関する様々なお話
懺悔とは  3月の護摩供後の法話




今年の初護摩では、礼拝について述べました。礼拝に込める万感の思いというような少々重たい話になりましたが、今日はその続きとなる懺悔について話してみたいと思います。懺悔と、さんげと濁らずにいうと仏教の懺悔となりますが、ざんげと発音しますとキリスト教でいう懺悔となります。神の前に自らの罪を告白するというような意味となるわけですが、それと仏教の懺悔がどう違うのかというようなことであります。

山岳修行にいきますと、山に登っていく道すがら、「懺悔懺悔六根清浄」とかけ声をかけ、同行の人らで繰り返し唱えながら歩きます。山岳修行といえば、吉野の大峰山、羽黒山など出羽三山、それに九州福岡の英彦山などが有名な修験道の霊場となりますが、皆同じように山伏の格好をして白装束に地下足袋を履いて山を登っていくわけです。

余談ですが、一昔前まで、大阪の中学校などでは、遠足に大峰山に行き、男子生徒は皆縄を体に巻かれて崖から前のめりに落としては、お父さんお母さんのいうことを聞くか、親孝行するか、悪いことをせんかといわれて、大きな声で返事をしないとずるずる下に落とされて、ちゃんと返事をすると上に上げてもらうというような度胸試しのような修行まがいのことをしていたと聞きます。もちろん今ではそんなことをしている学校はないと思いますが、いい悪いは申しませんが、そういういい時代がありました。

では、この六根とは何のことでしょうか。これはお釈迦様の時代にはおそらくほかの修行者たちにもなじみのある用語であったと思われますが、外界から私たちが取り込む刺激の入り口のことです。目、耳、鼻、舌、皮膚の五官に心を合わせて六根(眼耳鼻舌身意)といいます。外界から入ってくるものを見たり聞いたり味わったりして、私たちはその刺激を受けて様々な欲の心や怒り、愚かしい思いを重ねていくことになるわけで、その入り口である六根を俗世間から切り離して、制御し、清浄なるものにして修行に取り組むことを宣言しながら山修行に望むということなのでしょう。

このように心について懺悔するということが仏教では重要であることがわかるわけですが、私たちが勤行次第の中でお唱えする懺悔文には「無始よりこのかた貪愼痴の煩悩にまつわれて身と口と意とに造るところの諸々のつみとがを皆悉く懺悔し奉る」とあります。貪愼痴に代表される様々な煩悩によって行うこと、身と口と心で行うことすべてがみな懺悔に該当しますよということです。この場合、身体で行うこと、口で行うことについては、懺悔しやすいと申しますか、相手があったりすればやり過ぎた言い過ぎたとか、反撃があったり言い返されされて痛い思い嫌な思いをしたり、一人で行ったことでも記憶に残りやすいので後悔したりということで懺悔はしやすいわけです。

しかし、心の行いは、何もしていません、心で思っただけですというように思う方もあるようです。が、心の中ではどんなことでもできてしまうわけです。誰にもとがめられず痛い思いもせずに、心で思うことは行いやすいのです。それによって憂さを晴らすということもあるかもしれませんが、それがゆえに反省もせずに心の中は汚れっぱなしということになりがちです。欲、怒り、疑い、嫉妬、恨み、辛み、怠け、驕り、慢心など汚れた心にならないように、仏教では心の中で何を思い考えているか、自らの心に気づく、観察する、制御するということが大事なことと教えられているのです。そのために先ほど述べた六根というような教えもあり、細かく観察する仕方を教えているのです。日頃日常を過ごす上ではなかなかしずらい心の観察のために坐禅をしたりということも必要となってまいります。

また、懺悔文には、「無始よりこのかた」とありますように、始まりのない輪廻転生の中にあるがゆえに再生を繰り返しつつきて今に至る、あまたの業による自分を思い、それらすべてについて懺悔するのだというのです。私たちには実際に過去世で何をしてきたのかを知ることはできないわけですが、ただ言えることは今ある自分はそうしたすべての過去の業のもとにあり、それらに影響されつつ今生を生きているということです。されどこうして人間に生まれてきているということは、それだけで少なくとも前世で善い業があったといえます。現在の悪い行いは過去の悪い業を結果させる、善き心善き行いは過去世の善い業が報いて善い結果をもたらすといいます。ですから、私たちは、善いことも悪いこともたくさんの業を積み重ねてきて今あることを思うとき、常に自らの心を善い心にしておくべく心を観察をしつつ過ごすことが大切なこととなります。

改めて懺悔文を唱えるとき、何度も再生を繰り返してきた過去の行いに思いをいたし、それらについて懺悔するとともに、日頃なかなか自らの心を観察し心の過ちに気づくことなく過ごしていることへ反省をこめて、改めて日々心のありように気づくことを決意したいものです。懺悔文は、ただ唱えるのではなく、そうした意味合いをきちんと心に反芻しつつお唱えしたいと思います。


(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 仏教徒とはいかにあるべきか | トップ | 祈りについて »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏教に関する様々なお話」カテゴリの最新記事