住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ネパール巡礼・七

2009年11月07日 08時32分40秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
(1995.10.11~10.26~)

十月二十六日、一週間お世話になったサールナート法輪精舎の後藤師に別れを告げた。「カルカッタのバンテーによろしく言って下さい」と言われたのだったか。とにかく余り別れに執拗にものを言われない方なので、あっさりしたものだったことを記憶している。それは居なくなった後の寂しさをよく知っているからなのだろう。

お寺で部屋の片付けをしているとクリシュナさんがやってきて、オートバイで駅まで送ってくれるという。ベナレスから東に十七キロほどの所にあるムガール・サライという幹線列車の発着駅に向かう。

この一年半前、サールナートのこの法輪精舎で過ごし、大学に通ったり、お寺の無料中学が発足したり、出入りするインドの少年達と付き合い、また後藤師と暮らした一年間に一応のピリオドを付けて日本に帰ろうというとき、その時もクリシュナさんが駅まで送ってくれたことを思い出す。

ただその時は路線バスでであった。ムガール・サライ発カルカッタ、ハウラー駅行きの列車に乗るべく二時間前にお寺を後にしたのだが、バスでまずベナレスに出て、ムガール・サライ行きの別のバスに乗り換えたあたりから車が混み出し、車線も描かれていない道路なので後ろの車が右車線から前に出て、対向車もまた左に出てしまい双方がにらみ合う、インドではよく目にする最悪の事態になってしまった。そして、とうとう止まってしまって動かなくなってから警察官が来たが、どうともしようがない。

そこでバスを降りて、脇を通り過ぎていくオートバイを止めて、後部座席に私だけ乗せてもらい先に進んだ。ところが、駅の手前でそのオートバイも行き先が違うとのことで降ろされ、近くにいたオートリキシャに乗り継ぎ何とか発車十分前にホームに駆け込み、予約した座席を探し、乗り込むことが出来た。ゆるゆると列車が動き出した頃、やっとクリシュナさんが窓の前までやってきて手を振ったことを思い出す。しかし、この時は初めからオートバイだったので、何の心配もなく時間通りに駅に辿り着いた。

二等寝台で夜を過ごし、翌朝早くに到着。カルカッタの玄関駅ハウラー駅では両手に荷物を抱えているのに、ちっとも私にはクリーやタクシーの呼び込みが寄ってこない。大きな麻袋を二つ両手に持って頭陀袋を肩に掛け黄色い袈裟をまとった、見るからに貧乏な坊さんといった風体なのだから仕方がない。いつものように地下を通りフェリー乗り場に。朝の涼しげな風を額に感じつつ薄茶色のフーグリー河を眺める。周りはきちんとシャツを着込んだ人が多い。カルカッタの中心部ダルハウジー広場周辺で働くビジネスマンだろうか。

歩いてベンガル仏教会本部僧院に向かう。時折しも安居開けの一大イベント、カティナ・ダーナの期間中ということもあり、寺内は騒然としていた。そんな中、早速総長ダルマパル・バンテーの部屋を訪ね、ルンビニーの建設現場の様子、カトマンドゥのルンビニー開発トラスト事務所でのこと、またサールナートの法輪精舎の学校運営状況などを報告し、預かったベンガル仏教会のお金の精算書を提出し、決済を受けた。

私自身は、ルンビニーの個々のお寺の建設はさておき、全体計画の遅々とも進まない進捗状況に疑問を持っていたが、バンテーはただルンビニーに伽藍を建設するのに日本の縁故者たちがこの度も何とかしてくれるはずだという信念をもっておられるようだった。

ルンビニーに行くときからうすうす予感してはいたのだが、バンテーは「私の代わりに日本に行って、お釈迦様の生誕地ルンビニーにベンガル仏教会がインドを代表して伽藍を作る計画に、是非寄付してくれるように話をするため縁故者たちの所へ行くように」と命じられた。

それからは毎日のように顔を合わせればルンビニーの話だった。「この伽藍が完成したならば、お前はお釈迦様に祝福されて大変な功徳を手にするだろう」という話や、寄付をお願いする人たちのリストを何度も書き換えてはその人たちとの交際について話された。

また、忙しい行事の合間に、建設予定の伽藍を設計した設計士事務所まで私を連れて行き、建設費用の詳細を詰めたり、「日本の兄弟達に向けて」と題する英訳の寄附勧進の嘆願書を作られた、さらには、代理として寄付を募る私を紹介する文章まで用意された。

その年の暮れ帰国した私は、英文の寄付嘆願書やバンテーの履歴書、設計の概要、建設費用の概算表を一応和訳しワープロ打ちして、バンテーが言われた日本の縁故者一人一人に連絡し、会える人には会い寄付をお願いした。

ある宗派の本山に出向いたり、若かりし日にインドに留学していた学僧に面会するために、ある大学の学長室にまでお訪ねしたこともあった。また、お会いできず電話で詳細を申し上げて意向を伺った方もあった。

しかしながら、残念なことに時すでにバブルがはじけ景気の後退期にあり、総額二億円を超える寄付額の大きさに誰もが驚き、前向きの返事を返してくれる人はいなかった。またバンテー自身も高齢になり、ルンビニーがカルカッタから遙か遠くに位置するということも寄付に前向きになれない一因であった。

三ヶ月ほど寄付勧誘に明け暮れた末、この度の寄付嘆願に対する一人一人の反応返答を記した上で、残念ながらこの度は日本からの寄付は期待できないとする結論を英文の手紙にしたため、この仕事の一応の締めくくりとさせていただいた。

その後バンテーは台湾の仏教界と接触し、そこから寄付を引き出されることをお考えになった時期もあったようだが、結局この計画は完遂することなく沙汰止みとなり、借りた土地も返却することになった。

その年、カルカッタに伺った際には、一切このルンビニーの話をバンテーはなさらなかった。もう別のことに関心が移ったということだったのか、もう私には期待しないということだったのかはよく分からない。いずれにせよ、その時は別に建設が進んでいたラージギールの寺院のことに関心が集中していたようだ。

そしてこの時、南方の上座部で受戒して三年が経っていた私は、カルカッタにいて二度マラリヤに罹りこのまま過ごす難しさを思い、また日本に滞在する間の戒律を守れないもどかしさもあって、捨戒(上座部の戒律を捨て黄衣を脱ぐこと)することに踏み切った。

こう考えさせられたきっかけは、東京で外出しているとき、何度かミャンマー人やタイ人から道端で突然跪かれ、お布施を頂戴したことにあった。十分に戒律を守れず、かつ修道生活を送っている訳でもない自分が、わざわざ不法就労してまで日本に来ている人からお布施を賜る居心地の悪さを感じたからであった。

さらにはそれが契機となり、自分はやはり日本人なのにこんな格好で気取っていて良いのか、という気持ちをもつようにもなっていた。何か日本ですべき事があるのではないか。私のような紆余曲折をしたればこそ役に立つこともあろう、とも思えた。今思えば、その選択は年齢からしてその時が限界だったのかもしれない。御陰様で今日があるのだと思う。

それはともかくとして、ルンビニーのその後について一言しておこう。私が訪問したとき解体調査中であったマヤ夫人堂は、日本仏教会による調査が済み、きれいに復元再建された。建設途中だったベトナム僧院は三重の鳥居風の門に重層の本堂がある立派な寺院となった。また中国寺ではまるで東大寺大仏殿のような本堂が完成している。日本山妙法寺でも立派な世界平和パゴダと僧院が出来上がった。

しかし、やはり全体的にはまだ広大な計画の半分も済んでいないのではないだろうか。ネパールは現在、王室の悲惨な事件や国王によるクーデター等で政治的混乱状態にあり、益々ルンビニー開発計画は停滞を余儀なくされそうである。

ともあれ、こうしてネパールにおいて南方上座部の比丘なればこそ出来た貴重な体験をここに綴ることができた。記憶が薄れ思い出せなくなる前に書き残すことができたことに安堵している。他国の仏教徒の行状から、読んで下さった皆様が何かしら学ぶべきものがあったと念じたい。 終 

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ネパール巡礼・六 | トップ | 第7回日本の古寺めぐりシリ... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
無題 (きりぎりす)
2013-04-27 12:57:16
全雄様の人生の岐路の大切なところを知るところとなりました。日本にお戻りくださってありがとうございます。
きりぎりす様 (全雄)
2013-04-27 18:00:18
初めまして、コメントを残して下さり、恐縮です。

後藤師のように一途に貫く意思に欠けていたのでしょう。来世で、もう一度トライしたいと思っています。

ありがとうございました。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他」カテゴリの最新記事