住職のひとりごと

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タイ上座仏教長老・チンナワンソ・藤川清弘和尚追悼

2010年02月28日 19時43分23秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他

藤川和尚を支援する『オモロイ坊主を囲む会』のホームページからの貼り付け。

『~藤川和尚のこと~ (2010年2月24日)2010年2月24日午前0時過ぎ、娘さん家族、息子さんに見守られる中、 藤川和尚が永眠されました。享年68歳。先週金曜日19日の夕方、意識不明となり救急車で病院へ。脳の血管が大きく破裂しておりました。胃がん、糖尿病、帯状疱疹の後遺症の激痛、白内障などで、 後半はかなりつらいご様子でした。ご本人の遺言で、葬儀告別式は行われず、近親者の方々のみで荼毘に付されます。どうぞ、ご理解頂けますようお願い申し上げます。後日、オモロイ坊主をしのぶ会を、賑やかに行う予定です。追ってご案内申し上げます。福本@世話人会』

突然のことで何がどうなっていたのか分からないままに、ただこの事実だけを知り書いています。数年前までここ國分寺にもお越し下さり、「タイの僧侶と語る会」を四度企画させていただいた。その後は御無沙汰をして特に日本にお帰りになられてからは連絡も満足に取っていなかったことが悔やまれる。いつも元気に明るく賑やかなお方だっただけにお体がそんなに病んでいるとはつゆ知らず、数々の恩義に何のお礼も出来ずに亡くなられてしまったことが、ただただ残念でならない。

そもそも藤川和尚とのご縁は、いまから16年前に遡る。平成5年、私はインド・ベナレスのサンスクリット大学に留学し、ベンガル仏教会の比丘としてサールナート法輪精舎で1年間を過ごしていたが、翌年無料中学の寄付集めのために日本に一時帰国した際に、確か銀座線の赤坂駅ホームで南方上座仏教の黄衣姿同士で、藤川和尚と出会ったのだった。

親しく話しかけられ、名刺を一枚頂戴した。50を過ぎてタイで出家されたと伺った。バブルで儲けてタイにショッピングセンターを作っていたが、ひょんなきっかけから一時出家したら、やみつきになったと語られた。同じ位のお年の方二人と一緒だった。それは、ほんの数分の邂逅で、強く印象に残ることはなかった。その後お互いに連絡することもなく会うこともなかった。私はその年の暮れにはインドに戻る予定でいたが、丁度ペストがインドで流行し躊躇していた。そうしたら翌年1月17日に阪神大震災に見舞われ、私は現地でボランティア活動に邁進した。

ようやくその年の6月頃、雨安居のためにインドへ向けて飛ぶために成田に向かった。日本では東京早稲田の放生寺様に居候をさせて頂き細々と暮らしていたので、最低価格のチケットでカルカッタに向かうことになった。ビーマン・バングラディシュだったと記憶している。一目で宗教者と分かる出で立ちだったからであろうか、翼の前辺りの窓際の席だった。荷物を置き座って横を見ると、なんと藤川和尚が同じ座席番号の逆サイドの位置に座られていた。

二人で顔を見合わせ苦笑いをした。安いチケットだから、直接バンコクには向かわない。マニラ経由でそれも3時間ほどもトランジットがあった。二人とも機内から出てマニラ空港内をゆきつ戻りつ、ずっと二人で日本の仏教について、またそれぞれの国の仏教について語り合った。傍目にはおそらく日本人とは思われなかったであろう。裸足にサンダル、黄色い薄汚れた袈裟、頭は坊主、顔色も浅黒いときては日本人とわかる要素は皆無だった。

ただ話している言葉が日本語で、一人は日本人離れした大きな体格なのに訛りの強い京都弁だということくらいだろう。その時にも藤川和尚の日本の若者たちを仏教者が何とかしなくてはという気概を強く感じ、私には自分の古傷を探られているかのような居心地の悪さを感じた。それはその前に経験していた日本の僧侶としての数年間に何もそのような活動をしていなかったことに対する不明に恥じる気持ちがあったからだろう。

その後2年ほどして私は、日本の僧侶に復帰して東京深川の冬木弁天堂に堂守として3年ほど過ごした間に大法輪に掲載した記事をご覧下さり便りを頂いたように思う。一度くらいお訪ねを頂いたようにも記憶している。そして平成12年に私がこの國分寺に入寺した翌年だっただろうか、藤川和尚がタイから帰られて、四国八拾八カ所を歩いて遍路された。その帰りに疲れを癒されるために一週間ほどここ國分寺に逗留された。

かなりきつい旅になったようで、それぞれの札所でのイヤな思いを語られた。ある札所の通夜堂で寝ていたら警官がやってきて、「どこの人間や、不審なもんが居ると通報があった、パスポートを見せろ」と言われたと言っていた。何で日本人が母国でパスポートを出せと言われなあかんのか分からんと憤慨されていた。行く札所行く札所で、ぞんざいな扱いを受けられたようだった。気の毒なことだったと思った。黒い地下足袋を履いて、重い荷物を持ってそれはご苦労な歩き遍路旅であったのだろうと思う。

その年からだっただろうか、毎年のように5月頃日本に帰られるとこちらにお寄り下さった。若いタイ比丘を伴ってこられた年に、檀家さん方を中心に開いている仏教懇話会の特別企画として「タイの僧侶と語る会」と銘打って講演会を催させていただいた。タイのお寺での日常、それと対照的な日本のお寺のあり方などにも痛烈な批判を述べられたことを記憶している。

それからはミャンマーで藤川和尚が支援しているメッティーラ日本語学校のマンゲさんや学校長のススマーさんを伴ってこられ、ご講演と彼女らからミャンマー仏教徒の心得やミャンマー語の手解きなどを皆さんで伺ったこともあった。その間に藤川和尚は、藤川和尚を激賞され引き立てられた弁護士の遠藤誠氏が亡くなったときに急遽招聘されて葬儀に立ち会われたときのご縁からだっただろうか『オモロイ坊主になってもうた』という著作を出版された。

過去の人間藤川和尚の半生を綴った稀有なというか正に赤裸々な内容の著作に戸惑う人もあったかも知れないが、和尚にはこれを書かずしては逆に袈裟を着ていることが恥ずかしく思われたのかも知れない。それだけ潔白な方であったのであろう。ごまかし無くお釈迦様への思いを語るためには必要な過程だったのだと思う。

その後もアジアの仏教国を旅しての紀行記を著したり、BSのテレビで企画されたやはりアジアの仏教国を旅した様子を収録し放映されたこともあった。さらには北朝鮮にジャーナリストを伴って行かれ、仏教寺院を訪ねて僧侶にインタビューした様子がニュースで放映されたこともあった。彼らにはブッダよりも将軍様が大切なんだと情けなさそうに笑って話しておられたのを今も思い出す。

おそらく南方上座部の袈裟を纏っているからこそ出来た稀有なそれらの記録は、本当は誠に貴重なもので、他の人が決して真似の出来るものではなかったであろう。藤川和尚の行動力と何ものにも物怖じしない強さ、比丘としての気概、俺がやらずして誰がやるという強い思いがなさしめたものであったろうと思う。

タイにおられて気候のこと、食べ物のこと、言葉の不自由さもあり、やはり体調の優れないこともあったであろう。タイの人々に食べさせて貰ってお世話になっている、また一人日本人だからと良くしてもらうことに引け目もあったであろう、僧院の汚れたままに放置されていたトイレを一生懸命一人掃除したという。はじめはみんな比丘がそんなことをとバカにしていたが、そのうちみんながやり出して、今ではいつもトイレが綺麗なのだと誇らしげに語られていた。

3年ほど前に日本にお帰りになり大久保の一室で活動をなさっておられた。その数年前から藤川和尚の活動を助けておられた『オモロイ坊主を囲む会』の皆さんが支援して、活発な活動を展開されていた。講演会に瞑想会。BOSEバーでの若い人たちとの語らい。おそらく何の堅苦しさもなく、訛りのある言葉で話す藤川和尚に癒され救われた人たちはどれほどあっただろうか。

若い日に無茶をして警察に世話になり、大きくなっても決して堅気な生活をしていなかった和尚がお釈迦様に惚れて惚れて惚れ抜いて、真面目にお釈迦様の言葉を語る。それは誰よりも悩みを抱える人たちの心にストレートに染みいる癒しとなったであろう。そんな人はもう出てこないだろう。何もかも捨ててきたからこそあれだけの行動力、説得力、思いやりがあった。まだまだ活動をされて行かれるものと思っていた。

3年前日本にお帰りになったとメールを頂戴したとき、私も藤川和尚に負けないよう自分の道を歩みたいと返事をしてしまっていた。だからなかなかメールで気軽に様子することも出来なくなったと弁解させて下さい。あなたにもっとお越しいただけば良かったと今になって後悔します。誠に残念でなりません。来世では、きっともっとブッダのおそば近くに感じられるところにお生まれになられることと固く信じ、すばらしい価値のある一生を全うされたことを祝福させて頂きます。本当にご苦労さまでした。そして、ご厚誼を賜り本当に有り難う御座いました。合掌


因みに、参考までに。「タイの僧侶と語る会3」の様子は下記にてご覧下さい。

http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/14947b79aa03016ba3e1722d21663d98

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3 コメント

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Unknown (才木広之)
2010-03-02 22:01:55
なにかうちはでの出来事が書いてあるみたいでつまらないです


今も、世界の宇宙の、どこかで生き物はなくなっているし

同じ生き物なのに、特別扱いのようで

ちょっとどうかな


と思ってます

生きとし生けるものが幸せでありますように
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Unknown (全雄)
2010-03-03 08:53:01
コメントまで残して下さり恐縮です。

藤川師と生前関係し、お世話になったものの、近年の無沙汰を悔いる気持ちもあり認めたものです。

誠に私的な追悼文ですから、うちはのことと思われても当然です。

が、このブログは、ひとりごとであり、この文章のジャンルは「思い出」ですから、ご了解下さい。
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Unknown (Unknown)
2014-05-28 22:14:45
一度騒がしい名古屋駅前の飲み会でお会いしました。
あまりに騒がしいのでお先に失礼させていただきましたが 「生きるとはなんですか?』とのご質問がありました。そのとき私は自分の意見を言おうと思い詰まって答えが出なかったのです 「生きるとはなんですか?」と云う問いは多分、私だけでなくどなたにも問われていた質問であると思われます。同時にご自分に問われていたと思われます。いま私は答える事が出来ます それは私の自分の意見を捨てた状態の答えです。お聞きになりたいですか?
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